不滅の言葉 96年4号特別号

     

 ギャーナ・ヨーガについての講話(2)
東京新橋の月例会で

スワミ・メダサーナンダ
   

 私たちの大部分は、神の悟りのためにカルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガという、四つの修行の道があることを知っています。神の悟りと言ってもよいし、自己の自覚と言っても、真理の悟りと言っても、究極の実在の悟りと言っても、みな同じことです。バクティ・ヨーガは、信仰の道です。カルマ・ヨーガは、無私の働きの道、ラージャ・ヨーガは瞑想の道です。そして今日の話の主題であるギャーナ・ヨーガは知識の道です。人の興味をそそる道であって、多くの人をひきつけています。科学技術の進歩により、新しい知識の獲得がらくになりました。世界の到るところでおこりつつある政治的、社会的、文化的、宗教的、あらゆる分野のできごとを、らくに知ることができます。ブッダやキリストの入滅の後に世界の人びとが彼らの教えを知るようになるには、長い年月がかかりました。今では、世界のどこの片隅でおこった奇跡も、じきにテレビで放映されて世界中の人が知ります。こうして人びとは、クリシュナムルティ、ラーマナ・マハーリシを知り、彼らの書物を読み、哲学を理解します。同様に人びとはスワミ・ヴィヴェーカーナンダの講演の記録、特に「ギャーナ・ヨーガ」を読み、ある人びとは海外各地にもあるヴェーダーンタ・センターとも接触して、ヴェーダーンタ哲学に関するなにがしかの知識を得ています。そして彼らは、特に、組織化された既成の宗教に命令されることを好まない人びとは、非常にこの教えにひきつけられます。また、特定の宗教または宗派に属している人びとも、その宗派をすてることなしに、この教えは実践することができるのです。その意味で、この道は普遍的であると言うことができます。

 それから、ギャーナ・ヨーガは実践がたやすいように見えます。カルマ・ヨギのように絶えず働き、自分が本当に無私の働きをしているか否か反省する、という必要はありません。ラージャ・ヨギのように長い瞑想をする必要もなく、バクティ・ヨギのように絶えず祈ったり祭祀を行なったりする必要もないのです。たった一つ、要求されるのは論理的思考 reasoning です。ギャーナ・ヨーガはこの問題 "Know thyself"(汝自身を知れ)Atmanam viddhi ではじまります。そして、グルは彼に向かって、「タット・ターム・アシ」「汝はそれである」とつげます。弟子はそこで思考(reason)し、「私はブラフマンである」(Aham Brahma asmi アハム・ブラフマー・アスミ)と悟るのです。「アハム・ブラフマー・アスミ」は先月お話ししましたが、「マハーヴァキヤ」つまり偉大な宣言と呼ばれる言葉です。(本誌第三号にのっている、この記録をお読み下さい=編集者)師が「汝はブラフマンである」または「汝はそれである」と告げると、弟子は、「私はブラフマン(アートマンでもよい)である。または、「私はそれである」(So aham ソー・アハム)と悟るのです。「ソー」は「それ」です。弟子はそこで、グルから示されたマハーヴァキヤ、偉大な真理を悟るのです。師の言葉に耳をかたむけ、熟考し、それを深く瞑想して、自分は心ではない、肉体ではない、ブラフマンである、と悟る。それだけです。長い瞑想や、プラーナーヤーマの必要も、他の日常の行動の制約もありません。わずらわしい祭祀を行なう必要もなく、働く必要もない、これほどらくな修行の道はない、と思われます。

 ところが、このヨーガをもし真剣に行なおうとするなら、ただちに、このヨーガはすべてのヨーガのうちでもっともむずかしい道である、ということがわかるでありましょう。ギャーナ・ヨーガにはいかなる妥協もあり得ません。朝あなたは、自分はアートマンである、と悟ります。ところが昼にディナー・パーティに出席してごちそうの山を見ると、たちまちアートマンを忘れて、自分は肉体になる、これでは駄目なのです。ギャーナ・ヨーガはパートタイム的修行ではありません。私たちの心はすでに、まちがった自己の観念に満ちています。にせの、エゴの感覚を持っています。私たちは絶えず、このにせのエゴとたたかわなければなりません。私たちはしばしば、自分の真の自己は心である、肉体である、と思いちがえているのです。ですから、すでに申し上げたように、ひとたびこの教えを真剣に実践しようと思ったら、それがどれほどむずかしいものか、よく分かるでしょう。他の道は何かをそろそろと切る道だとすれば、この道は、ひといきでそれを断ち切る道です。どのヨーガもたやすくはありません。しかしギャーナ・ヨーガは特にむずかしい道です。

 ここで一つの話をしましょう。人はお祈りはやさしい道だと思うかもしれないが、これとて容易な道ではない、という話です。ある宿屋に、一人の商人と一人の牧師とが泊まり合わせました。二人はじきに話をはじめ、商人が言いました、「教会の中でお祈りをするのはごくたやすいこと、私たちの商売の方がずっと困難な道です」と。「いや、これもあなたが考えるほどたやすい道ではない。ためしてごらんなさい」と牧師。すると商人は、「よろしい。やってみましょう。そして、もしうまく行かなかったら、私が乗ってきた馬を、あなたに差し上げましょう」と言いました。話が決まって、商人はお祈りをはじめました。すわって目をとじ、心を集中しようと努めました。こうして五秒、十秒、一分もたたぬうちに、「馬をやると約束したが、さて、鞍をそえて渡すべきか否か」という思いが心に浮かびました。この商人は正直な人であったと思われます。ただちに目を開き、真剣に心を神に集中するのは容易なことではない、ということを認めたそうです。

 ギャーナ・ヨーガは特にむずかしい道です。これを行じるには、若干の基礎的な準備が必要です。まず第一に身心ともに浄らかでなければなりません。そして強く、ことに心が、強くなければならず、そして鋭い知性が必要です。これらの準備なしには、ギャーナ・ヨーガの修行は不可能です。他のヨーガは、私たちがいかなる霊的境地にあれ、それにふさわしい形でそこから始めることができますが、ギャーナ・ヨーガは、そうは行きません。多少でも世間を楽しみながら「私はブラフマンである、アートマンである、私はそれである」と言うのは、自己欺瞞です。なぜならそこに根本的矛盾があるのですから。ほんとうに「私はブラフマンである」と知ったら、ブラフマンは独在、そこに楽しむべき世間はないことを知るべきなのです。他のヨーガの実践によって霊的に多少の進歩をしていても、もしこのような態度でギャーナ・ヨーガの実践をとり上げるなら、その人の霊的進歩は止まります。ですから私たちはよくよく気をつけ、自己分析に努めるべきです。この道を進もうと思ったら、知識のある師に、自分がそれに適しているかどうかを尋ねるのがよいと思います。実は、このギャーナ・ヨーガを行ずるにふさわしい人は実にまれです。事実、古代インドではギャーナ・ヨーガ、すなわちヴェーダーンタは、ごく限られた人びとの間でのみ論ぜられ、公衆の間には決して持ち出されませんでした。それは sacred(神聖な)知識であるのみならず、secret(秘密の)知識でもあるのだ、とされていました。求道者がこれを学びたいと思って師を訪れる。師は、本人を見て、その資格があると認めたときにはじめて、弟子となることを許したのでした。では、東京のこのクラスでこのような話をすることには、どういう理由があるのでしょうか。ここまで話して、前回のクラスは終わったのでした。

 私は前回出席なさった方々が今回も来ておられるのを見て、その答えを待っておられるのであろうと、うれしく思います。ご覧のように、ギャーナ・ヨーガの実践は、実に実にむずかしいのですけれど、その教えの内容のあるものは、その結論のあるものは、どの道を進む求道者にとっても、非常に有益なのです。単に霊性の道をこころざす人びとだけでなく一般の知的な人びとにとっても、ギャーナ・ヨーガの説く知識を学ぶことは必要だ、と思います。なぜならギャーナ・ヨーガは、私たちが自分の本性を知ることを助けますから。偉大な科学者、知識人と言えどもしばしば、自己の本性に関しては全く無知です。科学的知識は必ずしも、霊性の知識とはつながらないのです。いま、ギャーナ・ヨーガは自分というものの正しい概念を持つことを助ける、と言いましたが、私たちは真の自己の混乱した概念を持っています。いま私は皆さんに、お願いをします。自分の知性をはたらかせて、私の言ったことを理解して下さい。自分で考えて下さい。ギャーナ・ヨーガを実践するためばかりでなく、これを理解するためにも、浄らかさが必要なだけでなく、強さが必要なだけでなく、知性も非常に重要です。皆さんが聡明であられることを、私は信じます。どうぞ皆さんの知性をはたらかせて、私の申し上げることを理解して下さい。

 皆さん、家を持っておられる、多くの人は車も持っておられる、よい着物を持っておられる、イヌやネコというペットを持っておられる、そして父、母、兄弟、夫、妻、子供という身内も持っておられる。当然、私たちはそれらのものを愛しています。愛するだけでは足りません、それらに執着しています。どれほど執着しているか、家がこわれたり、車がなくなったり、着物がよごれたり、ペットが病気になったりしたら、ひどく心を痛めるでしょう。イヌが病気になればイヌの病院につれて行くでしょう。私は日本に来て、イヌの病院を見てびっくりしました。インドには牝牛の病院はあるけれど、イヌの病院は見たことがないのです。しかし、どんなに執着していても、それらを自分と一体と感じることはないでしょう。車がなくなって警察にとどけても、自分がなくなった、とは言わないでしょう。親や子や夫や妻が病気になれば、まして病院に運ばれて生命の危険を宣告されるなら、動転するでしょう。それでも、自分と彼または彼女との間には区別があります。

 今度は私たち自身の場合に目を転じ、考えてみましょう。ここである事実を発見して自分の無知に気づくでしょう。たとえば、中井さんがこのごろよく私に、「マハラージ、この頃、私の耳は遠くなりました、目が弱くなりました。脚がよわくなりました」と訴えます。それはそれでよいのです。正しい表現です。ところが別の日に安田さんが電話をよこし、「中井さん元気ですか」ときくと、彼女は、「いいえ、私はこのごろ視力が衰え、耳が遠くなり、脚も弱くなりました」と答えます。「私は見えなくなった、私は聞こえなくなった」と言う、これはまさに自分と自分の肉体とを同一視した結果おころ混乱です。私の心は悲しんでいる、と言うべきを、「私は悲しい」と言うのも、あの子の知能はすぐれている、と言うかわりに、「あの子は聡明だ」と言うのも混乱の結果です。これで皆さん、私の言おうとしていることはおわかりでしょう。私たちはあるときは、自分の自己を肉体から、心から、知能から、はっきりと区別しているのですが、またすぐに簡単に、真の自己を、肉体と心と、知能と同一視してしまうのです。このことは日常不断におこっていて、しかも私たちはそれに気づいていません。このことが、毎日どれほど私たちの生活をめちゃくちゃにしていることか! しかも大部分の時を、私たちはこの思い("body and mind complex" または "psychophysical entity" という)に生きています。「私は男だ、私は女だ、私は若い、私は老人だ、私はアメリカ人だ、日本人だ、インド人だ」というわけです。

 それゆえ聖典にも、「われわれは真理 Satyam と非真理 Anritam との結合、つまりこの二つのまじりあった世界で暮らしているのだ」とあります。食物にもときどき、まぜもののある品が売られていて、私たちはそのようなものはできるだけ避けようとします。ところが心の中のまぜものは一向気にせず、その中で満足して生きているのです。しかし、まぜもののある思想は、霊性開発の妨げになるに決まっています。

 さて、私の心、私の身体、と言う場合には私たちは明らかに、私と私の身心とを区別しています。では、その私とは誰なのでしょうか。ギャーナ・ヨーガは、この問いについて考えるよう、それを瞑想するよう私たちをうながし、そしてその問いに答えを与えるものです。まず、私たちが真の自己の正しい姿を把握することができるよう、私たちを助けます。あなたはアートマン、ブラフマンである。純粋な、永遠の、意識そのもの、至福そのものである、ということを教えます。ひとたび私たちが自分の本性に気がつけば、当然のことですが、人生に対する私たちの態度は完全に変わります。私たちは人生を超越します。ひとたび、肉体はうつり変わるもの、自分は永遠の存在である、と知ったなら、私たちは肉体の死について悩むべきですか。そしてこの世界も自分の肉体と同様、かりそめのものであると知ったなら、この世の与える快楽の対象に執着すべきでしょうか。この知識は、どの道をすすむ場合にも求道者にとっては不可欠の条件である放棄の精神を、得ることを大きく助けます。

 この知識を得た人は、その態度はどのように変わるものか、話をしましょう。私たちは大方の場合、肉体意識の上に生きており、ごくまれに、無意識のうちに、その区別をしています。しかし悟った魂は常に、自分はアートマンである、という自覚の上に生きているのです。スワミ・シヴァーナンダはシュリ・ラーマクリシュナの直弟子の一人、第二代のミッションのプレジデントでした。非常に高い境地にあられた僧で、マハープルシ・マハラージと呼ばれておられました。彼はプレジデントになられたとき、すでに高齢でした。重い喘息が持病で、夜中、その発作に苦しまれることがありました。朝になって医師が来、「マハラージ、御気分はいかがで」と尋ねると、「ああ、いい気分だよ」とおっしゃる、「でも発作で夜中お苦しみだったとききましたが」と医師。すると、「ああ、からだか。からだは苦しんだよ。だが気分はよい」と言われたと言うことです。このようなことは始終あったそうです。私たちもポーズとしてそう言うときがあるかもしれないが、心の中では苦しみをおぼえています。彼の場合には、自然に、この言葉が出てきたのでした。


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