不滅の言葉 96年4号特別号

     

マヤバティ――スワミジの夢
  

正木 高志
   

    1 沈黙・静寂・孤独

 この冬、私はベルール僧院にしばらく滞在したあと、アルモラの僧院とマヤバティのアドヴァイタ・アシュラマを訪ねる機会を得た。

 アルモラからマヤバティまでは約九十キロメートル、標高二千メートルほどの丘や峠をいくつも越えてゆく。丘の道では松林ごしに白く聳えるヒマラヤの眺望に心躍らせ、谷間の道では断崖絶壁に肝を冷やしながらの五時間ほどの車の旅であった。ロハガートの町から車はジグザグの細い山道にはいり、しばらくゆくと人家も途絶えて、いつしか巨木の生い茂る深い森のなかに吸いこまれてゆく。アドヴァイタ・アシュラマの敷地にはいったのだ。ミモザの花の季節で、浅黄色の花のむこうに雪山が白く輝いていた。

 私は、ベルール僧院でプレジデント・マハラージから、マヤバティからの素晴らしいヒマラヤの眺めについて聞いていたので楽しみにしていたのだけれども、あいにくアシュラマに到着するやいなや、にわかに広がった雲に山は覆われ、森のなかから音もなくしのびよってきた霧にたちまち閉ざされて、あたりには何も見えなくなってしまった。

 アシュラマの本館は石と木で造られた二階建ての西洋風の建物である。冬のことで花は咲いていなかったが、バラの庭をはさんで向き合うように、やはり洋風二階建ての「プラブッダ・バーラタ」の編集棟が建っている。

 車の音を聞きつけて出迎えてくださったスワミたちのなかに、なつかしいスワミ・シャーマナンダ(大下さん)の笑顔があった。みな、温かくやさしく長旅をねぎらって、いたわるように食べ物を用意し、それから編集棟の二階の一室に案内してくださった。このとき私の心をもっとも強くとらえたのは、スワミたちの厳しく抑制された沈黙と静けさであった。陽気であけっぴろげで情熱的なベンガルからやってきた私にはことさらマヤバティの静寂が深く心に沁みたのだろうか。

 アドヴァイタ・アシュラマには祭壇がない。神像もなく、したがって祭祀も礼拝もない。建物は、だから、外見上はまったく普通の家のようで、壁にラーマクリシュナの写真やスワミジの肖像が、聖母マリアの絵やヒマラヤの写真などと並べて掛けられているだけである。アシュラマの日課は食事とお茶の時間が決まっている他には何もない。仕事も学習も修行もすべてメンバーの自主性にまかされており、瞑想は各自の部屋でなされる。私はマヤバティに一週間滞在したが、到着と同時に降りはじめた雨がそれから三日間降り続き、ほとんどの時間を誰と語るでもなく、独り、ベッドの上で、朝も昼も夜も、黙想と瞑想のうちに過ごしたのだった。他に何をすることができただろう。

 時おり雨が上がると、まわりの小高い丘の斜面を覆っているジャングルの木々が墨絵のように雲の間に間に浮かび上がる。樫やナラ、石楠花、松や糸杉やヒマラヤ杉など、幹の周りが一抱えも二抱えもあるような巨木が重なり合うように生い茂り、霧が木の葉を濡らして流れるかすかな音や、重く湿気を含んだ木からしたたり落ちる滴の音が、森の息づかいのように聞こえた。動物の咆吼や小鳥の鳴き声が森のしじまを破るたびに、静寂はしだいに重さを加え、深さを増す。ふたたび雨が激しく屋根をたたき、すぐ近くの木々のシルエットさえも雲に閉ざされる。しだいに降りてきた夕闇が森の黒に溶けあってゆく。孤独は深い森のなかにひとりいる孤独であった。

 マヤバティの静寂はただそこにあるというだけの受動的な静寂ではない。それは生きて、意識を持ち、いや意識そのものであって、押し寄せ、とらえ、そうしてたちまち人を孤独漬けにしてしまう能動的でダイナミックな静寂である。ぬか漬けの床に漬けられた野菜に味がしだいに滲みるように、マヤバティの静寂は人の心に滲みこみ、芯まで孤独にしてしまう。あたかもジャイランバティに行くと、人が温かく大きな母なる神の愛につつまれ、抱きかかえられたようなやすらぎを感じるように、マヤバティでは高く厳しいヒマラヤの父なる神の沈黙と静寂と孤独とに抱きかかえられるのである。

    2 シバの聖地

 インドはヨーロッパがそっくり入ってしまうほどの広大な国だ。したがってイタリアとドイツが、フランスとイギリスが言葉も国民性でも大きく異なるように、おなじインドといえども南北東西では言葉も民族性も大きく違う。インド北部、ネパールとカシミールの間のヒマラヤ地帯には数々の聖地があって、シバ派の行者が多いところである。聖母信仰がさかんなベンガルとはずいぶん雰囲気がことなる。なかでもリシケッシュからヒマラヤに分け入ったウッタルカンド地方はガンガとヤムナの両聖河の源として、あるいはバドリナート、ケダルナートの聖地で有名だ。ウッタルカンドの東からネパール国境にかけての一帯はクマオン(亀の甲)地方と呼ばれ、アルモラがその中心の町である。

 スワミ・ヴィヴェーカナンダはこのクマオンの谷をことのほか愛し、短かい生涯のうちに度々、カルカッタから遠く離れたこの地を訪れ、長期に滞在した。一度目はラーマクリシュナ亡きあとの遍歴時代で、一介の無名の僧としてアルモラを訪れた。このとき彼は、とある小川の岸辺の一本の菩提樹の木の下で、小宇宙(アートマン)と大宇宙(ブラフマン)が一つであることを示すヴィジョンを見て、アドヴァイタの真理を悟ったという。二度目のアルモラ訪問は、シカゴの世界宗教会議における成功のあとで、丘の上の町のバザールの細い道は歓迎のために集まった数千の熱狂的な人で埋めつくされた。歓迎式典でスワミジは「古代のリシたちの沈黙と神秘が自分にも与えられて、今生の最期の一時期をこのヒマラヤの地で、平和と瞑想のうちに過ごすことができるよう祈っている」(注1)と述べたが、実際には二ヶ月半の滞在期間中、人々の訪問や招待や講演などに忙殺されることになる。

 一八九八年の夏、スワミジは、すでに彼の地に居を定めていたセイヴィヤー夫妻の招きに応じて、三たびアルモラを訪れ、スワミ・トゥリヤーナンダや後にアドヴァイタ・アシュラマの初代僧院長になるスワルーパナンダたちとともにトンプソンハウスに一ヶ月半滞在した。ミセス・ブルやミス・ジョセフィン・マクレオドたち西洋人の弟子たちは近くに家を借りて住み、スワミジは毎朝散歩がてらやってきて、ヒマラヤの見えるテラスで婦人たちと朝食を共にしたという。シスター・ニヴェーディタはここでスワミジの厳しい薫陶を受けたのである。

 この事実から、スワミジがいかにアルモラを愛しておられたか推し量ることができるだろう。彼は渓流にシバの太鼓の音を聞き、雪を被った峰に放棄の美しさを見た。彼はインドや西洋の弟子たちにこの地にアドヴァイタのためのアシュラマをつくる夢をたびたび語っている。スイスのアルプスから、彼はアルモラの友人に「アルモラかその近くに僧院をつくりたい。ヒマラヤが展望できるひとつの丘ぜんたいが欲しい」(注2)と書いている。スワミジのアイディアは、アドヴァイタにもとづくインドの霊性に西洋の理性とダイナミズムを兼ね具えた新しいタイプの人間を育てることにあった。「そこは私のインドと西洋の弟子たちが一緒に住む、仕事と瞑想のためのセンターとなるだろう」(注3)そのためにはアシュラマは人里を遠く離れた静寂のなかに、標高二千メートル以上の冷涼な場所にたてられなければならない。

 セイヴィヤー夫妻はスワミジの求めにしたがってスワルーパナンダとともにクマオン地方をくまなく捜し歩き、ついにマヤバティの地に、かつてイギリス人が茶園を経営していた六十五エーカーの理想的な谷を見つけ、購入した。クレーターのようにまわりを丘に囲まれ、北に開かれた広い谷からは巨大な白鳥が翼をひろげたように聳え立つヒマラヤのパノラマを見わたすことができる。知らせを聞いたスワミジは喜び、ただちにスワミ・スワルーパナンダを初代の僧院長に任命し、一八九九年、ついにアドヴァイタ・アシュラマがマヤバティの地に誕生した。以下はこのときスワミジが設立者たちに送った手紙の抜粋であり、ここにアシュラマの理想が明確に述べられている。

 「そのうちに宇宙を有し、宇宙のうちに在るもの、かれは宇宙である……そのうちに霊を有し、霊のうちに在るもの、かれは人の霊である……そのかれを、したがって宇宙を、私たちの自己であると知ることのみが、すべての恐怖を打ち消し、不幸を終わらせ、無限の自由に導く。(略)今まではこの崇高な真理を、二元論的な弱さをはらんだ環境から、完全に独立して説くことは不可能であった。(略)この唯一の真理、個々の生活を高め大衆を啓蒙すべきより自由で総合的な展望をもたらすために、われわれはアドヴァイタ・アシュラマを、それがはじめて息を吹き出したところ、このヒマラヤの高地に開く。(略)ここではアドヴァイタが、すべての迷信と弱さの原因となる汚染からまもられなければならない。ここでは純粋でシンプルな不二一元論の教えだけが語られ、実践されなければならない。(略)このアシュラマはアドヴァイタに、アドヴァイタだけのためにささげられたものである」(注4)

 しかしそのわずか二年後に、不幸にもセイヴィヤー大佐はマヤバティで病に斃れる。知らせを聞いたスワミジは夫人をなぐさめるべく、ヨーロッパから帰国するとすぐにマヤバティを訪れた。それは一九〇〇年から一九〇一年にかけての厳冬期のこと、最寄りの鉄道駅カトゴダムからの三日間の山旅は雪にみまわれ、病身のスワミジにはことさら困難であったという。しかしマヤバティの素晴らしい環境はスワミジをよろこばせ、ヒマラヤが見える丘の上に立った彼は「自分が仕事を果たし終わったならここに小屋を建てて黙想と孤独の日々を送ろう」と語ったという。

 スワミジはこのアシュラマに三週間滞在したが、ある日たまたま一つの部屋にシュリー・ラーマクリシュナの写真が祀られ、礼拝されているのを発見した。その夜、暖炉のある部屋で、彼はアシュラマのメンバーたちに向かって「ああ、私は、ここだけは私(アドヴァイタ)だけのためにあると思っていたのに、何ということだ、あの老人(ラーマクリシュナ)はここにもやってきて、もう居座っておられる」(注5)と言って嘆いたという。それから声は獅子の咆吼に変わった。少なくともここでは、人は、あらゆる儀式や外面的な礼拝を越えることができるよう努力しなければならない。そうして神や聖典にたいするいかなる依存からも自らを解放しなければならない。このヒマラヤの家では、人は力と歓びを、無限の神性、内なる至福と意識から引き出さなければならない。(注6)

 今日のアシュラマの本館は百年前の姿とほとんど変わっておらず、スワミジが過ごされた部屋の暖炉のまえでは、毎日夕食後にメンバー全員(四、五人)が集まってラーマクリシュナの福音を読む。また茶園のあとはいまでは巨木が生い茂るジャングルになっており、野生化してしまったお茶の木がその名残をとどめている。広大な森にはかつては虎が棲んでいたそうであるが、熊や豹はいまでも現れる。

    3 統合とアイデンティティ

 インドに霊性を学ぶにあたっては私はこの数年来ある困難に直面していた。

 インドに学ぶというときに、はじめはどうしてもインドの宗教全体を真似ることになる。インド人に混じってインド的な儀式や礼拝あるいは唱名をするのだけれども、インドに深く入ってゆくうちに、あるところから薄皮に遮られてでもいるかのように、それ以上どうしても溶けむことができない何か違和感のようなものを取り除くことができないのである。あるいは聖地や僧院で歓迎もされ、この上もなく親切にしてもらうのだけれど、異邦人としてのある種の疎外感のようなものをどうしてもぬぐい去ることができないでいる自分に気づく。

 私はカレーが大好きである。しかしどんなに好きでも、カレーでは私のからだは本当には安心しない、やはり味噌汁と漬け物でないと満足しない。それが日本人たるゆえんなのであろうか。そしておなじようなことがどうやら宗教についても言えるようなのである。その真理の高さと深さをどんなに理解していても、インド的祭祀やインド的礼拝では私のうちの日本人としての何かが腑におちないというか、どうしても全的に納得してしまうことができないのだ。

 この違和感、疎外感を越えるために二つの方法が考えられる。一つは私のうちなる日本人性を排してインド化してしまうこと。もう一つはインドの宗教からインド的なるものを濾過して取り除き、純粋で普遍的な霊性だけを抽出して、日本的な私のうちに統合するのである。前者をとれば信仰は特殊化してしまうだろう。しかし後者に成功すれば、それは一般化され得る。

 鈴木大拙は「日本の霊性」のなかで精神と霊性の区別について書いている。

精神が話されるところ、それは必ず物質と何かの形態で対抗の勢いを示すようである、即ち精神はいつも二元的思想をそのうちに包んでいるのである。(略)精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質の奥に、いま一つ何かを見なければならぬのである。(略)なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。(注7)

 インドの精神は物質的インドと対峙している二元的範疇のものであるから、インド特有のものである。しかしインド精神の奥に純粋な霊性を見ることができれば、霊性は物質を超越して普遍的であり、普遍的なものはいかなる民族のいかなる文化、精神にも容易に統合され得るはずである。

 西洋にインドの霊性を伝えようとしたヴィヴェーカナンダは、この問題にすぐに直面されたに違いない。それだからスワミジは欧米ではインドの宗教のエッセンスだけを、つまりヴェーダンタのみを語られたのだろう。ラーマクリシュナについてさえほとんど語っていない。彼はラーマクリシュナとその教えを、つまりインドの霊性の現代における最高の到達を、アドヴァイタ・ヴェーダンタという普遍的な形にして西洋に伝えたのである。それは、それがインドの霊性が西洋の魂に触れうる唯一の方法であったからではなかろうか。

 この事情を図式化すると次のように書くことができるだろう。

インド精神文明 ― インド文化 = アドヴァイタ・ヴェーダーンタ

 現代史におけるラーマクリシュナの出現の意味を社会的側面から見るならば、彼は次の二つの働きをなしたと言えるのではないだろうか。

1 (インドにおいて)インド復興運動のインスピレーションとなった。

2 (世界史において)さまざまな宗教の統合への道をひらいた。

 そしておなじ文脈において、ヴィヴェーカナンダはこれを受けて次の二つの仕事を果たした。

1 ラーマクリシュナ・ミッションの創設

2 アドヴァイタ・ヴェーダーンタのインドから世界への発信

 マヤバティは、まさにこの後者のためのセンターとして開設されたアシュラマであると言えるだろう。

あるときラーマがハヌマーンに、「おおラーマ、「私」の感じを持っているあいだは、私はあなたが全体で私は一部である、あなたはご主人であり私は召使いである、と見ます。しかし、おおラーマ、真理の知識を持っているときには、あなたは私であり、私はあなたであることをさとります」と答えた。(注8)

 これはシュリー・ラーマクリシュナが好んでなさった話である。スワミジが真理の知識、つまりアドヴァイタの知識を持っておられたときには、グルと弟子はその真理のなかにおいて一つになっていたはずである。数あるラーマクリシュナ僧院のなかで、アドヴァイタ・アシュラマだけがその真理をあえて掲げる唯一のアシュラマなのだ。

 マヤバティ滞在の四日目、それまで降り続いていた雨がやっと止んだ。霧が晴れ雲が払われて、新しい雪をかぶった雪の峰々が息をのむような美しい全容をあらわした。庭のスミレやパンジーの花もひさしぶりに太陽の光をあびてうれしそう。小鳥たちも陽気にさえずって飛び回っている。内観的な沈黙のアシュラマが一転して広大な宇宙意識に溶けこんだようだ。スワミ・シャーマナンダが来て山歩きに誘ってくださった。森の中を三〇分ほども歩くと丘の上に出る。振り返るとマヤバティの谷の中央に点在するアシュラマの建物が見える。ここにはインド的なものは何ひとつ見あたらない。ジャングルも、建物も、その静寂も地球的である。それはまさに世界にむけて開かれたインドの霊性の窓のようであった。目をあげると正面に白く輝く八千五百メートルのナンダデヴィが両脇にナンダコットとトリスリを従えて聳え、ネパールのアンナプルナ山郡からウッタルカンドのバドリナーラーヤンまで、雪山が東西四百キロメートルにわたって連綿とつらなっていた。

注1、注2、注3、注4、注5 The Life of Swami Vivekananda by His Eastern & Western Disciples

注6 Mayavati : Swamiji's Home of Advaita in Himalayas ; Swami Jitatmananda (Prabuddha Bharata ; vol. 100 January 1995)

注7 「日本の霊性」鈴木大拙、岩波文庫

注8 「ラーマクリシュナの福音」(日本ヴェーダーンタ協会)


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