不滅の言葉 96年4号特別号
近代インドの予言者スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
クリストファ・イシャウッド
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
アドワイタ・アシュラマ刊「スワミ・ヴィヴェーカーナンダの教え」の序文を抜粋編成
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは一八六三年一月十二日、カルカッタで生まれました。彼の姓はダッタ、両親は彼にナレンドラナート、通称ナレン、と名づけました。僧として彼はさまざまの名でインドを遍歴しました。米国に出発する直前に、ケトリのマハラージャの勧めで、ヴィヴェーカーナンダと名のることにしたのです。ケトリのマハラージャは、マイソールのマハラージャとともに彼の旅の費用を負担した人です。ヴィヴェーカは、識別、特に実在(神)と非実在(われわれの感覚で認識される現象)との間の、哲学的な意味での識別を意味するサンスクリットの単語です。アーナンダは神の至福、すなわち悟りを通じて得られる平安という意味で、ヒンドゥの伝統をふむ僧の名にしばしば付加される音節です。
ナレンは十五、歳のときカルカッタの大学に行きはじめました。彼は容貌のすぐれた、強壮な青年で、並外れて聡明でした。また、すぐれた歌い手で、いくつかの楽器を演奏することもできました。すでに、同年輩の少年たちのなかで、非常にすぐれた指導力を示していました。教師たちは、彼が後年、世に知られた人となることを確信していました。
たまたまナレンの親類の一人がラーマクリシュナの信者であり、またナレンの教師の一人、ヘイスティー教授が、彼に会ったことのある数名のイギリス人の中の一人でした。これら二人がラーマクリシュナについて話したことが、ナレンの好奇心をそそりました。一八八一年十一月、彼はラーマクリシュナが客として来る家で、うたうよう招待されました。彼らは短い会話を交わし、ラーマクリシュナは、彼が住んでいるカルカッタ郊外数キロ、ガンガーのほとりのドクシネシュワル寺院を訪れるよう、彼を招待しました。
ナレンは最初からラーマクリシュナの人となりに好奇心を持ち、また当惑を感じました。彼はいまだかつて、このような、四十五、六歳の、やせて、髭を生やした、しかも子供のように無邪気で率直な人を、見たことがありませんでした。彼の周囲には強い喜びの雰囲気がただよい、その喜びを、彼にとっては明らかに生きた存在である母なる神カーリへの喜びを表わして、いつも叫んだり、思わずうたい出したりしていました。ラーマクリシュナの会話は精妙な哲学と、身近なたとえとのミックスでした。彼は生地ベンガルの農村の方言で軽くどもり、ときには素朴な百姓のあらい田舎言葉も使いました。
想像することもできないほどの高い霊的意識の中で、ラーマクリシュナにとって、サマーディは日常の経験で、神の現存意識は彼から離れることはありませんでした。ヴィヴェーカーナンダは回想しています、「私はそっと彼に近づき、それまで他の人びとにしてきた質問をしました、『あなたは神を信じますか』、『信じる』、彼は答えました。『あなたはそれを証明することができますか』、『できる』、『どのようにしてですか』、『ちょうどお前をここで見ているように、私は「彼」を見るのだ。ただし、もっとずっとはっきりとだ』これは私に直ちに感銘を与えました。初めて、神を見た、宗教は事実だ――われわれが世界を感じ得るよりさらに無限にはっきりしたかたちで感じられ、知覚されるものとして――とあえて言う人を見いだしたのです」
その後、ナレンはドクシネシュワルをしばしば訪れるようになりました。彼は徐々に、若い弟子たちのサークルに引き込まれて行きました。大部分が同年輩の、ラーマクリシュナが出家の道をたどるよう訓練していた者たちでした。
一八八五年ラーマクリシュナの喉頭ガンが進みました。師は長くは彼らとともにいることはできない、ということが徐々にはっきりとするにつれて、若い弟子たちはいっそう固く団結するようになりました。ナレンは彼らのリーダーでした。
一八八六年八月十五日、ラーマクリシュナは、はっきりとした声でカーリの御名をとなえて、最後のサマーディに入りました。翌日正午、医師は彼の死を宣告しました。
少年たちはまとまらなければならないと感じ、信者たちがカルカッタとドクシネシュワルの間に、彼らが僧院として使うことができる、一軒の家をみつけました。
しかし、少年たちは次第に、遍歴の生活を求めて落ち着かなくなりました。杖と乞食の鉢を持って、説教し、食を乞い、寺院や巡礼地を訪れ、またはひとりで小屋に住んで何ヶ月も瞑想しつつ、全インドを遍歴しました。彼らはラージャや金持ちの信者にもてなされることもありましたが、大方は、非常に貧しい人びとから食物を分けてもらいました。
このような経験は、ナレンにとって特に貴重なものでした。一八九○年から九三年にかけて、彼はインドの直接の知識を得たのです。
一八九三年五月末に、彼はボンベイから船で、香港と日本を経由、ヴァンクーヴァーに行きました。そこから汽車で、シカゴまで旅をつづけました。一八九三年九月十一日に開催される宗教会議に参加するためです。
あらゆる主要な宗教の代表が自由に彼らの信仰を述べるために一カ所に集まったのは、歴史上初めてことでした。それでも、スワミジー(スワミ・ヴィヴェーカーナンダは敬意をもってこのように呼ばれることがあります)は代表者として会議に参加するための、正式の紹介状を持っていませんでした。しかし、ハーヴァード大学の教授、J・H・ライトは、正式の招待状を持っていなくても彼は間違いなく歓迎される、と保証しました。教授は、「スワミ、あなたに信任状を要求するのは、太陽に向かって、お前は輝く許可を得ているのか」ときくようなものですよ」と言いました。
九月十一日の朝、会議が始まるとすぐ、ヴィヴェーカーナンダは、そのすてきなローブと黄色のターバンと、ハンサムな青銅色の顔によって、壇上にすわる、最も印象的な人物の一人として注意をひきました。写真を見て、人は彼の目鼻立ちの大きさから印象を受けます。広い力強い鼻、表現に満ちた唇、大きな黒い燃えるような目、それらは、獅子の風貌を思わせるのです。
実際に会った人びとは、彼の存在の威厳にうたれました。強壮でしたが、ヴィヴェーカーナンダは中背でした。しかし彼はいつも、大きい、という感じを与えたようです。中背ではあるが、その動作は自然で、優雅な男らしさにみちていた、と言われています。何どきでも、内に秘めた力のたくわえをひき出すことができるように、見えました。そして目には、ユーモラスな、深い輝きがありました。それは静かな、楽しい、離欲の境地をうかがわせました。あらゆる人が彼の声の、並外れて深い、鐘のような美しさに感応しました。その振動のあるものは、聞く人に神秘的な、霊的な興奮を与えました。またもちろん、これはヴィヴェーカーナンダの最初のスピーチへの、聴衆の驚くべき反応にも何らかの関係がありました。
午後、ヴィヴェーカーナンダは立ち上がりました。例の深い声で、彼は「アメリカの姉妹たち、兄弟たち」と始めました。何百人の全聴衆がまるまる二分間、狂ったように拍手し、歓呼の声を上げました。それまでも、聴衆は当然好意的でした。話し手のある人は熱狂的に迎えられ、みな十分礼儀正しく迎えられました。しかし、このような感情の表現はありませんでした。ここに出席した人びとの大部分は間違いなく、なぜ彼らがそのように心の底から動かされたのかは知りませんでした。ヴィヴェーカーナンダの容貌も、その声さえも、それを十分に説明することはできません。大きな集団は、それ自体の不思議な無意識の感応力を持っていて、これが、あのすべての生きものの中のもっともまれな生きもの、その言葉が正確に彼のあり方を表現している、一個の人間の前に自分はいるのだ、ということに、何とかして気づいたのに違いありません。ヴィヴェーカーナンダが、「姉妹たち、兄弟たち」と言ったとき、彼は実際に、目の前のアメリカの男女を自分の姉妹兄弟と見る彼の思いを述べたのでした。使い古された演説の言葉が、混じりけのない真実となったのです。
静まるのを待って、スワミは話を続けました。それは、ひろい寛容性を弁護し、すべての宗教に共通の基礎を強調する、ごく短いものでした。それが終わったとき、前以上に大きな雷鳴の拍手が起きました。
彼は西欧へのメッセージを携えていました。彼は聴衆に、彼らの物質主義をすて、ヒンドゥの古代の霊性から学ぶことを求めました。彼が果たしたいと思ったのは、価値の交換でした。西洋人の中に偉大な徳をみとめました。精力と、進取の気質と勇気です。これがインド人に欠けていることを、彼は見たのです。
ヴィヴェーカーナンダは、神がわれわれの一人一人の中におられることを、そしてわれわれの一人一人が自分の神性を再発見するために生まれているのであることを教えました。彼の好きな話は、他のライオンが水たまりにうつる自分の姿を見せてくれるまでは、自分は羊だ、と思いこんでいたライオンの話でした。「そしてあなた方はライオンなのです」、彼は聴衆に言いました、「あなたは、清く、無限で、完全な魂です。あなたがそれを求めて教会や寺院で泣き、祈ってきていた『彼』は、あなた自身の『自己』なのです」彼は自己信頼、各個人の探求と努力を説く予言者でした。
宗教会議が終わった後、ヴィヴェーカーナンダは、シカゴ、デトロイト、ボストン、およびニューヨークなど、東、中部のさまざまの都市で講演しつつ、満二年近くを過ごしました。一八九五年の春には彼はひどく疲れ、健康も失いました。しかし、彼は彼らしく、それをかるく扱っていました。「あなたはまじめになることはないのですか、スワミジー」、あるときある人が、たぶん非難をこめて、彼に尋ねました。彼は答えました、「ありますとも、おなかが痛いときにはね」
彼はやや真剣なタイプの人びとにあって深い印象を与えました。不可知論者のロバート・インガソルや、発明家のニコラ・テスラ、歌手のマダム・カルヴェ、そしてもっとも重要なのは、興味と熱意が一時的でなく、残りの生涯を彼の教えの実践にささげる用意のできている、数名の教え子を引きつけたことです。一八九五年、彼はこれらの中の十二人といっしょに、セント・ローレンス河のサウザンド・アイランド・パークにある一軒の家に招待されました。ここで約二ヶ月間、彼は、ラーマクリシュナが彼とその兄弟弟子を教えたように、彼らを非公式に教えました。それに出席した人は生涯、この時期を忘れることはありませんでした。
八月、彼はフランスとイギリスに渡ってヴェーダーンタを教え、十二月、ニューヨークに戻りました。彼の信者たちの熱心な要望に従い、彼はアメリカ最初のヴェーダーンタ協会を創立しました。(ヴェーダーンタはヒンドゥの最も古い聖典ヴェーダのなかで解説されている非二元論哲学のことです。)
ハーヴァードの東洋哲学の椅子と、コロンビアの同様の地位の、正式の申し入れを受けたのもこのときでした。彼は、遍歴の僧として、この種の仕事に落ち着くことはできないとして、両方とも断りました。いずれにせよ、彼はインドに戻りたいと思っていたのです。
ヴィヴェーカーナンダは一八九七年一月半ばに、スリランカに上陸しました。それから、カルカッタに向かう彼の旅は、凱旋の行進でした。彼の同国人たちは、新聞紙上で、彼のアメリカでの講演の報告を読んでいたのでした。
実際、ヴィヴェーカーナンダの前には誰ひとり、自分をアメリカ人やイギリス人に、卑屈な友としてではなく、あからさまな敵としてでもなく、同等の立場で、教え、学び、助け合う、誠実な友として受けいれさせたインド人はいなかった、と言ってよいでしょう。
他の誰が、彼が立ったように東西両洋の間に立って公平に双方の文化の長所をほめ、欠点を指摘することができたでしょう。他の誰が、みずからの内にヴェーダの古代インドと十九世紀の若いインドとの総合を具現することなどができたでしょう。他の誰が、インドのチャンピオンとして貧困と抑圧に立ち向かいつつしかも、アメリカの理想主義とイギリスの目的に向けた専心とを誠意をこめて称賛することなどができたでしょう。これが、ヴィヴェーカーナンダの偉大さなのでした。
これらの賞賛のただ中で、ヴィヴェーカーナンダは、彼が何者であるかということを忘れませんでした。彼はラーマクリシュナの弟子であり、また、仲間の僧たちと同等の兄弟なのでした。
一八九七年五月一日、彼はラーマクリシュナの出家および在家の弟子たちの会合を召集しました。彼らの仕事を組織された基盤にのせるためです。ヴィヴェーカーナンダが提案したのは、教育と慈善行為と宗教活動の統合でした。ラーマクリシュナミッションおよびラーマクリシュナ僧院は、このようにしてできたのでした。ミッションはただちに活動を始め、飢饉と疫病の救援にたずさわり、最初の病院と学校を創立しました。
僧院はその後まもなく、ドクシネシュワルから少し下流の、ガンガーの対岸、ベルルに設立されました。このベルル僧院は、今もラーマクリシュナ僧団の主たる僧院で、日本、ヨーロッパ、およびアメリカを含む近隣のアジアの各地に百に近いセンターをもっており、瞑想の生活、社会奉仕、または両者の結合の生活にささげられています。ラーマクリシュナ・ミッションは、自分の病院、診療所、大学、高等学校、工業および農業学校、図書館、および出版所を持っています。いずれも僧団の僧が経営を管理しています。
一八九九年六月、ヴィヴェーカーナンダは二回目の渡欧に出発しました。
インドに帰ったときには、彼の健康はひどく衰えていました。彼自身、もうそう長くは生きない、と言っていたのです。それでも、彼は幸福で平安で、それまで自分を駆り立てたいたさまざまの心づかいから解放されたことを感じて、喜んでいるように見えました。今は、彼は瞑想の平安だけを欲しました。
一九○二年七月四日、ヴィヴェーカーナンダのベルル僧院での今生からの別れは、計画された行為のように見えたと、ある人びとは言います。数ヶ月前から、彼はいろいろの責任から解放され、後継者を訓練していました。彼の健康はよくなっていました。彼はうまそうに昼食をとり、哲学を語り、三キロも散歩しました。夕方、彼は深い瞑想に入り、そして心臓が鼓動を止めたのです。何時間も、人びとは彼を起こそうと努めました。しかし、彼の仕事は終り、ラーマクリシュナは彼に宝庫の鍵を返したものと思われます。
しかし、ヴィヴェーカーナンダを知る最善の方法は、彼について、読むことではなく、彼を、読むことです。スワミジーの人格、そのすべての魅力と力、その勇気、その霊的な権威、その怒りとその冗談は、彼の書いたものと、記録された言葉の中に非常に力強く現れています。
ヴィヴェーカーナンダは国際的なメッセージを持つ偉大な教師であるだけでなく、また、非常に偉大なインド人、愛国者、また、現代にいたる同国人の鼓舞者でした。しかし、言葉の最善の意味でも、間違っても彼を政治家として考えてはいけません。最初から最後まで、彼はラーマクリシュナにその生涯を捧げた少年でした。彼の使命は、要するに、政治的なものでも社会的なものでもなく、霊的なものだったのです。
あなた方はスワミジーが生きた、インドのベルル僧院の部屋を訪れることができます。それは今も、ヴィヴェーカーナンダがそこを去ったときのまま保存されています。
ベルル僧院の生活の中で、ヴィヴェーカーナンダは今も生き、その僧たちの日常の活動の中に、ともに生きています。
しかしベルル僧院の中だけではなく、彼の霊はなお、世界中いたるところで働いています。なぜなら、彼はこう言ったのですから、「私が着古した衣のようにこの肉体をぬぎすてるのをよしとする時が来るだろう。しかし、私は働くことはやめない。全世界が自分は神とひとつだ、と知るまで、私は至るところで人びとを鼓舞するだろう」