不滅の言葉 96年3号
ギャーナ・ヨーガについての講話(1)
東京新橋の月例会で
スワミ・メダサーナンダ
親愛なる信者たち友人たち、これは一九九六年の最初のクラスです。過去の二年間に、カルマ・ヨーガとバクティ・ヨーガについての話を、一応おわりました。今年は、ギャーナ・ヨーガをとりあげようと思います。多くの方が、この言葉をきいておられるでしょう。まずヨーガという言葉、それからギャーナ・ヨーガ――日本語でも、多くの書物が出ている、ときいています。ギャーナ・ヨーガとは何でしょうか。みなさんは多分、私がこの主題に関するスワミジーの言葉を引用したことがあるのをおぼえておいででしょう。「人の本性は神聖である。我々はこれを悟らなければならない――礼拝により、無私のはたらきにより、精神統一により、または哲学によって」スワミジーはこう言われました、「これら四つの方法のどれでもにより、またはそれらの中の二つ以上、または全部を実践することによって、自己の神性を悟るべきである」と。これもすでに申し上げましたが、「礼拝の道」はバクティ・ヨーガ、「無私のはたらきの道」はカルマ・ヨーガ、「精神統一の道」はラージャ・ヨーガ、そして哲学による道が、ギャーナ・ヨーガです。
このヨーガとは何か。個別の自己を「至高の自己」に合一させる方法です、道です。神を悟るための道、真理を悟る道、どのように表現されても、結局おなじことなのです。
ギャーナはサンスクリット語であって、字義は知識です。哲学と言ってもよいでしょう。哲学という方法で、私たちは真理を悟ることが、神を悟ることが、できるのです。なぜ、哲学の道、知識の道と呼ばれているのか。われわれが何かを知ろうと思うなら、その対象が何であっても、まず知的探求が必要です。なぜこうなのか、なぜあのようではないのか、どのようしてこうなったのか、あのようにはならなかったのか、というように。しかしこのヨーガの場合には、対象は物質世界のものではなく、いわば霊的なものです。また、一口に霊的と言ってもそれはまた実に一般的な表現であって、実際には百にも及ぶ種類が含まれるでしょう。この場合の霊的探求は、要するに、三つのものの真の性質を知ろうとすること、です。第一は自己の、第二は宇宙の、そして第三は究極実在の、神の、本性です。たとえば、私は誰か。私は何某か。私はこの肉体か。またこの宇宙の真の性質は何か。私たちは実に多くの現象を見る。太陽は昇り、また沈む。地震があり、洪水もある。植物が、動物が生まれて生長し、また死ぬ、花が咲き、実がなる、等々実に多様な現象を見るが、その真の性質は何であるか。この千変万化の中に何か不変なものがあるのか。これらすべてを創造した存在がいるのか。もしいるのなら、彼の真の性質は何であるか。四つのヨーガすべての目標は、まさにこの問いに答えることです。ギャーナ・ヨーガもまさに、この問いに答えるものです。しかもそれは、それ自身の独特の方法によって、です。
カルマ・ヨーガを実践しようとするなら、人は無私のはたらきという厳しい努力をしなければなりません。バクティ・ヨギは、常に礼拝、祈り、儀式の遂行などに精を出し、信仰の書物を読むこともしなければなりません。ラージャ・ヨギには心身のきびしい技術的訓練が要求され、呼吸法という吸ういき吐くいきの規整も必要です。しかも、好むと好まざるにかかわらず、それらを基礎の修行として、何時間も、いや何日もつづけなければなりません。
しかしギャーナ・ヨーガの場合は、その点実に実にらくです。無私の働きにつとめる必要はありません。祈りや儀式を行なう必要もありません。心身の訓練をする必要もないのです。では何をするのか。グル(師)があなたに真理をつげるでしょう。あなたはそれに耳をかたむける、そしてそれを瞑想する、それだけです。それで十分です。グルがあなたに真理の言葉をきかせる、あなたはそれを傾聴し、よく考え、そしてその真理を瞑想するのです。常に一定の姿勢ですわらなければならないというわけではない、どんな形ででも瞑想すればよい。単にそれだけのことで、皆さんが悟った魂になれるのです。骨の折れる作業はまったく不必要です。どう思いますか。
グルは何を言うか、それが大事なことです。ご存じのようにシャンカラーチャーリヤは偉大な聖者、僧であり哲学者でした。今日に至るまで彼と並ぶ知性の人はついに生まれなかった、と言って少しもさしつかえないのです。西洋の哲学者たちで必ずしも彼の理論のすべては認めない人びとでも、その知性の偉大さを認めない人はありません。彼は短命で多分三十一、二歳で亡くなったのですが、その間に十二、三の主なウパニシャッドの注釈書を著し、ブラフマ・スートラの注釈書も著し、さまざまの優れた著書をのこしました。そのシャンカラがあるときこのように言っています、「無数の書物の中で言われていること、それを私は一詩句(verse)の半分でつくす」と。意味は分からなくても聴いて下さい。「……(サンスクリット)……」「古池や、蛙とび込む水の音」というように、一詩句は二行から成るのですから、一詩句の半分で、というのはたった一行で言いつくせる、という意味です。その一行とは、(黒板に書かれる)Brahma satyam jagat mithya jiva Brahma eva na aparah いっしょにとなえてください、「ブラフマー・サティヤム・シャガット・ミティヤー・ジーヴァ・サティヤム・エヴァ・ナー・アパラハ」(ブラフマンのみ実在、宇宙は存在しない。我らはブラフマン以外の何者でもない)すばらしい真理の宣言です。まさにマントラです。これこそ、ギャーナ・ヨーガのエッセンスなのです。魔法の言葉です。これをグルの口からきき、よく意味を考え、それを瞑想するなら、魔法がおこるのです。どんな魔法か。全世界が姿を消し、私たちは、世界は存在しない、ブラフマンだけが実在である、私たちはブラフマン、この世界はブラフマン、いっさいがブラフマン、存在するのはブラフマンのみである、ということを悟るのです。現象界の多様性はことごとく消滅し、そこにあるのはサチダーナンダ(存在・知識・歓喜)のみだ、ということを悟るのです。ただちに悟る、というのではありません。グル――ここではシャンカラがグルです――の言葉をきき、深く考え、瞑想をつづけると、「ついに」悟るのです。 このような偉大な言葉(センテンス)はサンスクリットでマハーヴァキヤと呼ばれます。マハーは大きい、偉大な、という意、ふつうの言葉と区別するために、マハーヴァキヤMahavakya 偉大なセンテンス、と呼ばれているのです。ただし実際にマハーヴァキヤと呼ばれている言葉は多少ちがいます。もちろんこれは偉大な言葉ですから、そう呼ばれて差し支えないのですが、実際にそう呼ばれているものはもっと短く、四つありますが、その一つの例は、「アハム・ブラフマー・アスミ」Aham Brahma asmi(私はブラフマンである)です。もう一つの例は、「タット・ターム・アシ」Tat tam asi(おお、あなたはブラフマンである)です。グルがこう言うと、シシャ(弟子)は、「私はブラフマンである」と思うのです。これが実際のマハーヴァキヤです。弟子は師の言葉に耳を傾け、よく考え、たずね、たずねて疑問を正し、心がゆるがないほど得心したらそれをひたすら瞑想します。最初は傾聴(シュラヴァナ)、つぎが熟慮(マナナ)、その上で納得したら、瞑想(ニディギャーサナ)、これはもう、考えることではありません。深い、一つの想念の不断の流れです。その結果、ついに真理の自覚がくるのです。
さて、なぜこのヨーガは私たちにとって魅力があるのでしょうか。私たちはこうして物を見、きき、それらは実在すると思います。だがそうでしょうか。私はある人を知っており、今日あって、彼は永遠に存在する、と思います。しかし翌日、彼が死んだことをききます。ほんとうは彼はどこにいるのでしょうか。私はここにいる。しかしその私は何者であるのか。私は誰か。この頃はギャーナ・ヨーガの本がよく売れるということで、人びとがラーマナ・マハーリシの教えのことをぺらぺらとしゃべります。人びとは普通はたらくことはあまりすきではありません。時はみじかいのにしたいことはたくさんあるのですから。しかし同時に、誰でも多少の霊的探求心は持っています。そういう人にとって他のヨーガのようにさまざまの訓練を要求されないギャーナ・ヨーガは大変に魅力があるのです。また、たとえ時間はあっても宗教儀式を好まない人びとがおり、彼らにとって儀式を要求されないことは魅力です。さらに、ギャーナ・ヨーガは中間過程を経ることなく、人をいきなりまっすぐに最高境地に導きます。これがまた人びとにとり、特に知的な人びとにとって大きな魅力です。そしてまた、改宗の必要もないのですから、普遍的でもあり、多くの人びとをひきつける十分な理由を持っています。
しかしながらこの道は、宗教の最短距離を行く、いわば近道ですから、大変にけわしく、ある意味でもっとも困難な道で、誤解もしやすく、危険でもあるのです。たとえを挙げて説明するなら、山に登るのに一般の人びとのとる道は曲折があって時間がかかるかもしれない、しかし安全です。もう一つの道はまっすぐで距離は短いかもしれないが、しかるべき訓練を受け、十分な装備をした上で登らないと、墜落、不幸な場合には死の危険さえあるのです。この道は、まずグルが、「あなたは意識だ、ブラフマンである」と言います。「あなたは肉体ではない、心ではない、知力ではない、エゴではない、あなたは何某ではない、あなたは意識だ、ブラフマンである」と。するとあなたはひとときも忘れず、「私は何々ではない、何々ではない、私はアートマンだ、私はブラフマンだ」と思わなければならないのです。私たちがもしこれをたとえ五分間でも、いや五分と言う必要もない、たとえ三分、二分、一分でも実践しようと試みたら、それがどんなに難しいものであるか、わかるでしょう。私たちは常に肉体意識に支配されている、「私は男だ、女だ、何某だ、肉体だ」という意識を超えることは実にこの上もなく難しいのです。何々君が瞑想によって、「私はブラフマンだ」という思いに入ったとします。誰かが来て理由もなく彼をつき倒す。または罵言をあびせる。たちまちブラフマンは影をひそめ、「何だ。この私を」という思いがそれにとって代わる、エゴはかくれていただけなのです。そのとき、私たちは、「私はブラフマンだ」と知るのはどんなに難しいことであるか、理解します。病気になり頭痛に悩む、しかしブラフマンに頭はないのですから、私が頭痛に悩むはずはないのです。他のどのような苦痛の場合にも同様です。なぜそれが難しいのか。それは私たちの肉体意識のせいです。
私たちはしばしば、ギャーナ・ヨーガについて大きな誤解をします。それの単なる知的理解は真の理解とはまったく異なるものなのに、これをとり違えて、自分は悟りを得た、と思うのです。これは自分を欺くことであって、その結果、その人の今生における霊的進歩は止まってしまいます。すでに申し上げたように、きびしい登山道を行くにはそれなりの準備がいります。それと同様、ギャーナ・ヨーガをはじめるにはまず、ある程度の準備が必要です。最小限の準備とは何か。まず、浄らかな、欲のない心です。そして強い心です。そして、鋭い知性が必要です。第一に心身のきよらかさ、これがないとギャーナ・ヨーガの修行はできません。第二は強い心、そして第三は、鋭い知性です。この三つは、ギャーナ・ヨーガ修行のために絶対に必要な条件です。鋭い知性、これなしには、ギャーナ・ヨーガの命じる思索は不可能です。そして、心身ともに強壮でなければ、人はこのギャーナ・ヨーガに不可欠の、鋭い知性を持つことはできないのです。また、霊性の修行においては、他の道をすすむ場合にも、つまり、バクティの道、カルマの道、またはラージャ・ヨーガ、精神統一の道を進む場合にも、このギャーナ・ヨーガの教えに含まれている概念を導入することは必要であり、また非常に助けになります。(つづく)