不滅の言葉 96年2号
一九九五年クリスマス・イヴの講話
スワミ・メダサーナンダ
このめでたいクリスマス・イヴに、イエス・キリストに心からのプラナームをささげましょう。今日はキリスト教徒だけでなく、まじめに神を信仰する者たちにとって重要な日です。
キリストが地上に生まれたのは約二〇〇〇年前でした。キリストは皇帝ではなかったし、富豪でもなかったし、決して学者でもありませんでした。にもかかわらず、なぜ、今日に至るまで、彼は人びとに記憶され、また無数の人びとが彼の生涯と教えからインスピレーションを受けるのでしょうか。彼はさまざまの形で描写されています。彼は、神の息子と呼ばれています。救世主と呼ばれ、神の化身とも呼ばれています。しかしこの事実だけは変わりません――彼は霊的生活を送ろうとする無数の人びとにインスピレーションを与えた、霊的光明の源でした。
私たちは常に歴史の中に、特に世界の霊性の歴史の中に、見るのですが、このような霊的発光体は常に、ある使命をもってこの世に生まれてきます。その使命は、ときの人びとに純粋な霊性を語る、教える、というものです。真の霊性は、宗教儀式の遂行や、宗教の名のもとに行われるビジネスからは大きくかけ離れています。右のような傾向が世に著しくなったとき、霊的天才は現れて、純粋なる霊性を説きます。ご存じのようにあるときイエス・キリストは、神殿であきないを行う聖職者や商人たちを追い払い、「私の父の家を商売の家としてはならない」と言いました。そればかりでなく、宗教が社会に与える害を指摘して批判をしました。もし宗教が正しく理解され実践されないのなら、この批判は正しいのです。宗教が社会に与える害の責任は、宗教そのものにあるのではありません。宗教は社会を助け、国を助けて人びとに倫理的な生活を、理想的な生活を、させる大きな社会的力なのです。幾千の家庭の中で、キリストの生涯と教えが、よい個人の生活の、道徳的な家庭生活の、基礎をつくっています。多分みなさん、偉大なイギリスの知識人、バートランド・ラッセルの名をおききでしょう。彼は無神論者でしたが、あるとき、こう言っています、「よりよき世界をつくるためには、ある種の、キリスト教的な愛が必要である」と。彼はキリストは信じなかったけれど、よりよき社会、よりよき国家、そしてもちろん、よりよき個人生活のために、キリスト教の思想の、理想のあるものの必要を感じていたのです。そのようなことで、今日でも、キリストの生涯と教えを学ぶことは十分に意味があるのです。
さて、何がキリストを、ここまで偉大にしたのでしょうか。なぜ、人びとがキリストのもとに憩いの場所を求めるのでしょうか。なぜ、人生において彼の教えに従おうとするのでしょうか。もしあなたが神の悟りを欲するなら、もしあなたが、心の、霊性の、力を欲するなら、もし平安を欲するなら、よろこびを欲するなら、あなたは、イエス・キリストのような偉大な人格のうちに避難所を持たなければなりません。では、何が彼らの人格をこのように偉大にしたのでしょうか。まず最初の答えは、このような人びとは彼ら自身がすでに悟った魂であった、というものです。つぎは、彼らは他者のために生きた、というものです。第三は、自分たちが説いたところをそのまま生きた、というものです。すなわち、その心と言葉と行為とが完全に一致していたのでした。ある人の言葉とその行為が完全に一致しているなら、彼が人びとに与える影響は莫大なものです。もしこのような人が他の人びとのために完全に無私の生涯を送るなら、その生涯は同時代だけでなく後世の人びとにまで、偉大な衝撃を与えるでしょう。
さてここで、イエス・キリストの生涯と教えの真髄は何であったか、理解するようにしましょう。その第一は、彼は神への深い信仰と、永遠の生命への信仰を持っていた、ということです。そして人びとにも同様に、神への信仰を、永遠の生命への信念を持つよう、求めました。彼はこう言いました、「神が我らを愛したまうように、愛せよ」、したがって、人は常に神を愛すべきである、つまり霊性の生活において進歩しなければならない、と。つぎの問いは、ではどのようにそれをすべきか、というものです。キリストは、神を悟るための、つまり神を愛するための、神と交流するための、もっとも重要な方法として祈りをすすめました。そしてまた、人は神への愛と同時に慈悲心を、他者への愛を、持たなければならない、と言いました。なぜなら、我らはすべて神の子供たちなのだから、人びとを愛し、すべての生きものを愛さなければならない、と。神への愛のゆえに、人の罪をゆるし、自分の快を犠牲にしても、人の幸せをはかるべきである、と。またこのような忠告も与えました、「霊的生活を送る努力をしていると必ず誘惑が来る。これに打ちかつ努力をしなければならない」と。
これまでに述べたところをもう少し詳しく話しましょう。第一は神への信仰と永遠の生命への信仰です。事実、これらはすべての宗教の中心をなす主題です。私たちは、われわれが見るこの世界を超えた、一つの世界があることを信じなければなりません。キリストもまた、彼の教えの中でこの点をくり返し述べています。彼は言いました、「私はあなた方に永遠の生命を与えるために、天から降りて来たのである」と。またかの有名な「山上の説教」の中で、正しい行為について彼は、「人びとに見られるように彼らの前でせぬよう、気をつけよ。そうすると天にまします我らの父からはむくいを受けないであろうから」と言っています。また、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」とも。そこにはまた、ある人びとは永遠の生命を得、ある人びとは地獄に落ちる、という審判の日の思想も述べられています。これらすべてを通じてキリストは弟子たちに、永遠の生命を信じ、それを得るようにつとめ、努力することを求めたのです。彼はまた、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言っています。
彼はまた別のところで、「神は嫉妬深い主人である」とも言っています。人は一点集中の、つまりひたむきな信仰を持たなければならぬという意味です。そのような信仰がなければ、人は神と交流することはむずかしく、死後に永遠の生を得ることはむずかしいのです。そしてまた別のときに、キリストみずから、永遠の生命とは何か、ということを説明しています。「永遠の生命とは神との永遠の交流のことである」と。私たちはこのような考えを持ってはなりません、「ここにおいしい食物があるけれど、それを不断に楽しむことはできない。ときにはそれを買う金がないかもしれないし、ときにはからだがそれを受けつけないかもしれないから。しかし天国は心ゆくまでそれを楽しめる場所である」などと。ときおり、人は天国と永遠の生命とを混同します。そうです、ヒンドゥイズムにも天国という概念はあり、そこは精妙な楽しみの得られる場所です。しかし、キリストが言う永遠の生命、ヒンドゥが説く神の悟りは、この天国の楽しみとはまったく異なるものです。永遠の生命の中には、この世界や天国に見られる楽しみに類するものはまったくありません。もちろん楽しみではあるけれど、それは神とともにある喜びです。この永遠の生命は、神との永遠の交流です。
ではどうしたら、神とのそのような関係を確立することができるのでしょうか。また彼は、祈りが、神との関係を確立するもっとも重要な手段であると言いました。ご存じのように、ヒンドゥイズムには、神の悟りに導く四つの道があります。ギャーナ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、およびラージャ・ヨーガであって、バクティ・ヨーガが、祈りを説きます。しかしセム族の宗教(キリスト教、ユダヤ教、マホメット教)は、祈りを特に重要視します。これを四つのヨーガに加えて、プラータナ・ヨーガ(祈りのヨーガ)と呼んでもよいでしょう。キリスト教徒は、ヒンドゥが瞑想を悟りの重要な手段と見るように、祈りを最も重要な手段と見ており、彼らの場合にはこれを一つのヨーガと言ってよいのです。みなさんご存じのように、キリストは修行中、隠者として四十日間を孤独のうちにすごしました。その間、彼は祈りに終始したと言われます。彼は、熱望する心で神に祈れ、と教えています。そして、祈りは空虚な、飾りたてた言葉で成り立っているべきではない、祈りはシンプルな、しかもハートの奥から出たものでなければならない、とも。人が、「どのように祈るべきでしょうか」とたずねたとき、祈りの一つの見本を与えました、「おお主よ、あなたのお心が成就しますように。私を罪からおまもり下さい」 また、人にほめられることを意識して人目につくようなところで祈ることはするな、とも。
シュリ・ラーマクリシュナも、「修行は人目につかぬところでせよ」と教えておられます。そして、誰かがシュリ・ラーマクリシュナに次のような質問をしました、「私たちの祈りに、主は耳を傾けて下さるのでしょうか」と。師は、「百回でも。それが真剣なものでありさえするなら」とおっしゃいました。同じ質問に対してホーリーマザーのお答えは、「おききにならないなどということがありますか。主はアリの足音もおききになるお方です」というものでした。このように、祈りは霊性の修行にもっとも効果のあるものです。
さらに、すべてのものへの愛、これもまた、霊性の進歩のために欠くべからざるものです。この考えも、キリストによって強調されています。有名な「山上の説教」の中に、次のように説かれています、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子であるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」 自分の身内を愛したとて、これは当然のことです。その愛は、敵をも含めたすべての人にまでひろがらなければなりません。しかもその愛は、口だけでなく、実際の行為によって表現されなければなりません。キリストは他者への実に深い愛を持っていたことを、私たちは知っています。慈悲心から、多くの病める人びとをいやし、また五千人の人びとの飢えをみたすようにパンをふやされました。罪びとたちの罪を忘れました。堕落していた女性の罪をあがなわれた話は、私たちみな知っています。また、みずから弟子たちの足を洗い、彼らの番がきたとき同じ態度がとれるよう、手本を示しました。これでみなさん、よくお分かりになるでしょう。彼の思いと言葉と行為は完全に一致していました。このことが、後世のの人びとにまで、莫大な衝撃を与えているのです。またみなさん、お分かりでしょう、キリストは決して、自分の力を人に示すために奇跡を行ったのではありません。彼にそれをさせたのは、純粋の慈悲心でした。それだけでなく、彼はそのような奇跡を示す前には、悩んでいる人からの深い信仰を要求しました。つまり、彼への深い信仰を持つ人だけが、その恵みを受けることができたのです。そして彼は、最後の審判の日には、人が病める者たちを、渇いている者たちを、着るものを持たない者たちを、どのように扱ったかによって裁かれるであろう、と言いました。どれほどの修行をしても、そのような慈悲心を持たない人は神の国にはいることはできない、と。弟子たちに、自分の罪をゆるされたいと思ったら、まず他者が自分に対しておかした罪をゆるせ、と教えました。有名な、放蕩息子の話をご存じでしょう。息子の一人が家を出て放蕩の限りをつくした挙げ句、家に帰って父親にあやまりました。父親は喜んで息子の罪をつぐない、肥った子牛をほふって祝宴を催しました。上の息子がこれを嫉妬して父を責めたとき、父は、「お前は喜ぶことができないのか。死んだ息子が生き返ったのだぞ、失われた彼が見いだされたのだぞ」と言ったというのです。最後にキリストは、自分を十字架にかけた者たちをゆるしたのでした。このように、キリストは偉大な生涯を生き、私たちもそれに従うよう、それを手本として私たちに残したのです。
さて、私たちシュリ・ラーマクリシュナの信仰者がなぜこのようにキリストを讃仰するのか。シュリ・ラーマクリシュナはキリストを、彼の教えを深く愛しておられました。ひとときキリスト教の修行に専念し、最後にキリストが近づいて彼の内に入るヴィジョンを得られました。キリストを神の化身の一人と見ておられました。これも、私たちが彼を神の化身と仰ぐ理由の一つです。もう一つ、スワミ・ヴィヴェーカーナンダを含む、師の直弟子たちが出家の誓いを立てたのは、あとから彼らが気づいたらクリスマス・イヴでした。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは人を罪びとと呼ぶことが罪である、と言い、私たちはキリスト教の主張のあるものには同調しないのですが、それでもキリストをあがめ、その教えから霊感を得ます。多くの真摯な神の探求者が、彼の教えに導かれているのです。最初に申し上げたように、バートランド・ラッセルのように、神を信じない人でさえ、世界をより良くするためにはキリスト教的な思想が必要であることをみとめています。ここですべての人の福祉のために、霊的進歩のために、イエス・キリストに祈りをささげましょう。