不滅の言葉 96年1号
仏陀生誕記念日の講話
一九九五年五月二十一日
スワミ・メダサーナンダ
主ブッダ――彼の生涯については皆さんの大多数がある程度の知識をお持ちだと思いますので、詳細を述べることは避けます。彼はキリスト誕生の五六〇年前に生まれました。ですから、今を去る二五〇〇年前、ということになります。そして彼が世を去って約三〇〇年の後に、仏教は世界的の宗教となりました。アショカ王が、宣教師を送って世界各地に教えをひろめたのです。日本には、皆さんご存じように、チベット、中国、韓国を通って伝わってきました。
仏教は中国でタオイズム(道教)とまじり、そこに新しい一つの宗教、禅宗が生まれました。禅宗は瞑想を重要視する独特の宗教で、日本にも伝わり、ひろまっています。こうして仏教は、世界で最も重要な宗教の一つです。ブッダは二五〇〇年以上前に生きた人ですが、今も世界最大の宗教指導者の一人なのです。
こう言うと奇妙に聞こえるかもしれませんが、ブッダは決して、新宗教の創立者ではありませんでした。彼はヒンドゥとして生まれ、ヒンドゥとして亡くなりました。そして言うまでもなく、彼はヒンドゥの僧でした。これらの指導者たちはすべて、破壊するためにくるのではなく、満たすためにくるのです。たとえばキリスト、彼も当時の宗教を充実させるために現れたのでした。ブッダはヴェーダの宗教を非難したと言われています。しかし実は彼は、それを活き返らせようとしたのです。すなわち当時の儀式偏重の傾向をただし、ヴェーダの教えの真髄である、ブラフマンの自覚をよみがえらせようとしたのです。無意味なしきたりや儀式の偏重、修行の名のもとに行われている肉体の苦行、および生きものの犠牲供養はすべて二義的なこと、ヴェーダの教えの真髄は、人間の本質、ブラフマンをさとることです。ブッダの生まれた時代をふり返ってみると、人々は宗教の中心の目的を忘れ、二義的な行事のみを重要視していたのです。偉大な宗教の指導者たちは皆、そのことを強調しています。シュリ・ラーマクリシュナも、人生の目的は神をさとることである、と教えられました。私たちはともすればこのことを忘れます。この世にときどき、偉大な教師たちが現れて人々に、人生の最高究極の目標は神をさとることである、それが宗教のエッセンスである、ということを思い出させるのです。
もし皆さんが、なぜブッダは、二千余年前にすでにこの世を去った人であるにもかかわらず、今日なお無数の魂たちに慰めと霊感を与えているのか、を知りたいと思うなら、まず彼の人格の主な特徴は何であったかを知らなければなりません。まず第一に理解すべきは、彼は満たすために来たのであって、破壊するために来たのではなかった、ということです。今は私たちは、悟りに到るための四つの主な道として、バクティ、ギャーナ、カルマ、およびラージャ・ヨーガがあることを知っています。ブッダの教えを見ると、この四つのヨーガのすべてが統合され、その基礎となっていることが分かります。まずギャーナをとってみると、彼は言うまでもなく哲学者であって、しかも叡知にみちていました。バクティは感情の道ですが、ブッダは深い感情の持ち主でした。この感情は愛の形をとり、その愛は人類だけでなく鳥けものにまで及びました。そして、ラージャ・ヨーガの中心は瞑想です。ブッダの座像はヨーガの、瞑想の、偉大な実証です。瞑想はブッダの生涯に重要な地位を占めています。それからカルマ、彼はその後半生の四十年間、ひたすら働きつづけられました。彼の生涯はまさに、四つのヨーガの統合でした。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは特に、ブッダのハートとその無私のはたらきを賞賛しました。他者への慈悲、これがブッダの人格の著しい特徴でした。若いとき、デーヴァダッタの矢に射られた白鳥が、ブッダの足下に落ちました。彼は慈悲心にみちてその矢を抜いてやりました。またシュッドーダナ王がヤギを犠牲としてささげようとするのを見て、彼みずからを代わりにささげてくれ、と懇願しました。
ブッダが王子シッダルタとして生まれたとき、ある占い師が、この子は偉大な王になるか、または世の救い主になる、と予言しました。その予言の通り、彼は世の救い主となりました。それのみならず、幾百千万の人々のハートに君臨する偉大な王にもなったのです。彼を世の救い主たらしめたのは何か。彼が世の人々の嘆き悲しみに胸を刺されたからです。父王はそれを見て、王子にそのような光景を見る機会を与えぬよう注意しました。しかし運命を避けることはできませんでした。王子はつぎつぎに、人生の不安、老い、病、死の光景に行きあたりました。そのたびに彼は自分みずからに、また御者のチャンダカに問いかけました。これらのことは自分にとっても妻のヤショダラにとっても、息子のラゴラにとっても避けられないことなのか、と。チャンダラは「そうでございます」と答えました。このことが、ブッダを内観的にしました。深く考えた後、この世のいっさいのものは、かりそめである、ということを知りました。始めのあるものは必ず終わりがある。それに執着をするから苦しみがおこるのだ、これが世の一面。他の一面、これをのりこえる道があるのか、と考えました。その道を探すために、自分のためだけではなく、全人類の幸せのためにその道を見いだすべく、ブッダは妻子をすて、王宮を去って旅に出ました。人々に平安と喜びを与えるために、自分にとってもっとも愛すべく親しいものをすてたのです。このように、ブッダの性格のもう一つの特徴は慈悲でした。第三の特徴は、彼は超能力の行使をいましめた、ということでした。あるとき、あるブラーミンが、長い棒の端に白檀でできた鉢をくくりつけてその棒を立て、「はしごを使わないでその鉢をとりおろした人には、好きなものを与える」と言いました。ブッダの弟子のカッシャバは、念力でその鉢を下におろしました。ブッダはこれを知ると、その場に来て鉢をたたきこわし、この弟子をきびしく叱り、奇跡を行う者は決して真理をさとることはできない、といましめました。
人々を導くにあたって彼が用いた方法は、まず愛によって憎しみと暴力を克服しました。静けさによって、傲慢を克服しました。無知を叡知によって克服しました。また、堕落した人々を、慈悲によって持ち上げました。当時、オングリマーラという強力無慈悲の盗賊がいて、ビンディシャラ王でさえ彼を征服することはできませんでした。この盗賊のいる森をブッダが横切ろうとしたとき、人々は一心にとめました。しかし、森に入ったブッダに近づいて彼を襲おうとしたとき、オングリマーラの心は、彼の高貴な、静かな、愛にみちた風貌に打たれてまったく変わりました。このような出来事は、ブッダの生涯にはたびたびおこりました。そのハートが完全に愛そのものに満たされた人格に接すると、人ばかりではありません。野獣さえもその性質を変えるのです。つぎに、静けさによって傲慢を克服した例――ある愚かな者が、ブッダはどのように悪口を言われても愛をもってそれに報いるだけである、と聞いて、試そうと思いました。ブッダのもとに来て、ある限りの悪口をならべました。ブッダは静かにそれを受けていましたが、やがてこの男に尋ねました、「あなたが私に贈り物を持ってきた、だが私は受けとらない。するとその品はどこにゆくか」と。男は答えました、「それは私の手にもどる」ブッダは言いました、「もし高貴な人に対して悪口雑言を吐くなら、それはすべて、吐いた当人にもどって来る。天に向かって吐いたつばきは、吐いた人の顔におちるだろう」と。また、ブッダは旅の途中である農夫に会いました。彼は自分の仕事に非常な誇りを持っていて、こう言いました、「私ははたらく、そして自分をささえている。あなたはただ食を乞うて歩くだけだ」ブッダは言いました、「私もはたらいている、私もたがやしている、私も農夫だ」農夫はおどろいて、「それなら、あなたの牡牛やすきはどこにあるのか」そこでブッダは答えました、「私の蒔く種は『信仰』である。そこに注がれる雨水は『悔い改め』である。『叡知』が、私のすきであり、くびきである。すきを引く牡牛は『勤勉』である。『誠実』によって無知および罪という雑草を刈る。そして、それによって得られる収穫は何か、それは『不滅』である」この答を深く考えるなら、ブッダの人格、ブッダの仕事の秘密、ブッダの哲学がよく分かるでしょう。そこにはシュリ・ラーマクリシュナの教えとの大きな類似が見いだされます。キリストの教えともよく似ていますが、キリストはときに、人々を説得するために奇跡を見せられました。しかしシュリ・ラーマクリシュナは人々を説得するために決して、奇跡を見せることはなさいませんでした。叡知の光だけを見せられました。私たちはブッダの中にそれとまったく同じ特質を見ます。ブッダがどのようにして無知の人々を知恵の光で照らされたか、ここにもう一つの例があります。キサゴウタミという女性がいて、一人の息子を失いました。彼女はブッダの話を聞き、彼女は息子の生命をとり戻してもらえるかもしれない、という期待を持ってブッダを訪れました。ブッダは彼女の願いを聞き、それを叶えるための一つの条件を出しました。家々をまわって一にぎりのカラシ種子を集めてくること、ただその家は、そこからかつて死人を出したことのない家でなければならない、というのです。彼女は少しばかりの希望を持って家々をまわりはじめました。ブッダはよく、長い説法はせず、人々自らがおのずから真実を受け容れる心構えをするような状態をつくり出しました。キサゴウタミもやがて、死は人生の一部であることをさとって、帰って来、真の不死を得るための導きを、彼にお願いしました。ブッダはまた、いわゆる堕落した人々にも、避難の場を与えました。彼は慈悲によって、性格の善悪を超越されたのです。
もう一つの彼の特徴は、人々に哲学的思弁をすすめなかったことでした。彼は言いました、「あなたが矢で射られたとする。第一にその矢は誰が射たか、その者の年齢、性格は、などとたずねるか。第一にしなければならないのは矢を抜き、医師の手当を受けることであろう」と。話があります。ある少年が池でおぼれかかり、助けを求めていた。一人の男が通りかかって、「泳げもしないのに水に入るべきではなかった」と説教をはじめた。少年は、「お説教はあとで聞きます。とにかく助けてください」と言った、というのです。ブッダの方法もそれと同じで、人が苦しんでいるときには、まずその苦しみを除くのが第一の仕事である、と言うのです。人々が「神は存在しますか」と尋ねたら、彼は、「私が神は存在すると言ったか」と聞き、「神は存在しませんか」と聞くと、「私が存在しないと言ったか」と聞かれました。「あなたは今苦しんでいる。それの原因を見いだし、それを克服することに力を集中せよ」と教えました。実は、彼は神の存在を否定したのではない、と理解されています。彼の目的は、無意味な論議を避けて実践をさせることでした。当時人々は、実践を忘れて議論を楽しんでいたのです。スワミ・ヴィヴェーカーナンダも、「一オンスの実践は何トンの論議より価値がある」と言い、シュリ・ラーマクリシュナも、「池には魚がいる、と何回くり返しても魚はつかまえられない」と言っておられます。その点で、ブッダの哲学はまことにシンプルで、しかも的を射たものでした。
ブッダは、四諦、四つの真理を説いておられます。その第一は、「世界は苦しみにみちている」、第二は、「その苦しみから逃れることができる」、第三は、「苦しみには原因がある」、第四は、「平安への道がある」この平安への道は、どのようにしてたどるのか。ここに八つの道がある(八聖道)。まず、正しい渇仰心、つまり、自分の偽のエゴをすてること。第二は、正しく語ること。嘘を言わず、言葉をつつしむ。第三は、正しい行為。つまり浄らかな行為。第四は、正しい職業。人を傷つけたり苦しめたりするような職業はえらばないこと。これら四つはあわせてシーラと呼ばれ、正しい生活のパターンを形成します。消極的意味では罪を避け、積極的意味では徳をつむ生活態度です。つぎは正しい努力、これは感覚の制御、心の制御です。つぎは正しい思慮、うつり変わる対象にしがみつくことから起こる悪い結果を考え、用心すること。これはまさにギャーナ・ヨガの識別に当たります。そして最後が正しい瞑想。思考の超越、つまりニルヴァーナに至る道です。この正しい瞑想の方法は、まず、不必要な思いをしりぞけなければなりません。それによってニルヴァーナに到達するのです。
それから彼は、常に中庸の道を説きました。両極端に走ることをいましめました。感覚の楽しみにふけること、これが一つの極端、もう一つは極端な苦行です。肉体を不必要に苦しめることは霊性開発の道ではない、と教えました。彼自身が過度の苦行のために肉体を危機におとしいれたとき、スジャタがささげた一碗のパヤサで気力をとりもどしてふたたびすわり、ここで真理をさとるまでは座を立たぬ、という誓いのもとに瞑想をつづけて、ついにニルヴァーナの境地に至られたのでした。ブッダはまたその教えの中で、「自分の努力」を強調しておられます。ギーターの中に、「我らが我ら自身の友である、我らが、我ら自身の敵である」という美しいシュローカがあります。もし私たちが自分の心を支配することができなければ、感覚を制御することができなければ、私たちは私たちの敵になります。しかし自分の心を、感覚を克服することができるなら、私たちが私たち自身の友となるのです。言い換えれば、制御されない心は私たちの敵、制御された心は私たちの友、いや、師でもあります。シュリ・ラーマクリシュナは「福音」の中で、「純粋な心は師の役をつとめる」と言っておられます。ブッダは弟子アナンダに、「アナンダよ、はっきりと目をさめていよ」と、また、「アナンダよ、あなた自身の灯火となれ、あなた自身の避難所となれ」と教えられました。スワミジーも言いました、「もしあなたが幾百万の神々女神たちを信仰しても、もしあなた自身を信じないなら、あなたは無神論者である」と。臨終の床で、泣いている弟子たちに向かって、「もう泣くな。私が死んだからとて、決して、従うべき師がいなくなったなどとは思うな。私はすべての指示を与えた。それに従え。それがあなた方の師である」ブッダというのは、「覚者」という意味です。これはブッダだけに可能であった、というわけではなく、誰もが覚者になれるのです。ギーターに「めざめた魂たちは、他の人々が眠っている事柄にめざめている。他の人々がめざめている事柄に眠っている」という章句があります。大部分の人たちは、かりそめの事柄に心を奪われて、永遠の存在に注意を向けないのです。シュリ・ラーマクリシュナも福音の中で、人々が一時的なものにだけ注意をはらって永遠の存在を無視していることに、驚きあきれていらっしゃいます。私たちはその反対、シュリ・ラーマクリシュナが目の前のことを忘れて、たやすく永遠の存在に没入なさるのに驚きあきれます。実は私たちは、そこには苦しみもなく、誕生も死もない、ニルヴァーナをこそ求めなければならないのです。私たち一人ひとりがニルヴァーナの境地に至ることができるのだ、ブッダとなることができるのだ、私たちはただ、そのために努力をすべきである。これが、ブッダが私たちに示された教えなのでした。