不滅の言葉 95年6号
バクティ・ヨーガ
スワミ・メダサーナンダ
今年一月から毎月東京の例会で、スワミ・メダサーナンダは「バクティ・ヨーガ」についてお話をして下さいました。興味深いお話でしたのに、さまざまの理由で、ついに御紹介する機会がなかったことを、いま残念に思っております。これは去る九月二日に伺った、最後の講話の記録です。
今日は、バクティ・ヨーガ(連続講話)の最後の話です。そしてご存じのように私は今月二十六日に出発してインドに行き、十一月半ばすぎに帰って来ますので、次のこの集まりは、十二月始です。そのときからは、ギャーナ・ヨーガかラージャ・ヨーガを取り上げようと思います。私は一つのヨーガについて話すのにかなりの時間をとりました。あまり簡単に話すと話題がなくなり、例会が瞑想だけになるおそれがあると思ったからですが、話が長すぎて退屈でしたか。もっと早く片づけましょうか。・・・「今の通りで結構です」「どちらでも結構です」・・・「早く解脱させてください」(笑い)・・・解脱ですか。では私のバクティ・ヨーガの話は失敗だったと思われる。バクティ・ヨーガは解脱を説いてはいないのです。バクタの理想は信仰です。バクタはこの世にいる間も肉体を去った後にも、甘美な神との交わりを楽しむことだけを求めているのです。(しばらく会話、笑い)
とにかく、何を何カ月、一年間、という風にではなく、形式ばらない方法で話をすすめて行きましょう。前回は、グルについてくわしく話したことを覚えておられるでしょう。グルの資格はどのようなものか、またシシヤ(弟子)の資格は? それぞれの義務は? そしてついに、シシヤの修行が頂点に達すると、イシュタ(理想神)が姿を現わします。するとグルはシシヤに「イエエ・オイ」というのです。これは言葉ではなく、サンスクリットの二つの母音ですが、「ハロー、弟子よ、そこを見よ!」という意味です。そしてグルは、イシュタの中に姿を消すのです。つまりグルはイシュタと別個の存在ではありません。イシュタがグルという姿をとって、弟子を悟りへと導いていたのです。さてバクタにとっては、イシュタ・ニシュタ、つまりイシュタに対するひたむきな忠誠が絶対に必要です。修行中に、今日はこの神、明日は別の神というように理想とする神を変えるなら、霊性の道において決して進歩は期待できません。自分のイシュタへのひとすじの、ゆるがない信仰が必要です。しかしそれだからとて他の人びとが拝んでいる神を嫌ったり軽蔑したりすることはなりません。他の人びとのイシュタは、同一の理想に至るための異なる道であることを知るべきです。その上で、自分のイシュタには特別の忠誠を尽くすのです。ラーマの賛歌ラームナームの中で、ラーマの偉大な信者ハヌマーンはこううたっています。(ここでマハラージ、「ラームナーム」の一説をうたわれる)「ラーマとヴィシュヌは同じ存在である。(ラーマはヴィシュヌ神の化身)しかし私には、ラーマがすべてのすべてである」と言うのです。シュリ・ラーマクリシュナが「福音」の中で同じ趣きのことを異なるたとえを挙げて話しておられますが、誰かおぼえておられますか・・・・・「妻は、夫だけでなく、夫の父、兄弟その他にも奉仕する。しかし夫には特別に仕えるだろう」と。いまは核家族の時代ゆえ、このたとえは理解しない人が多いかも知れませんが、大家族が一般的であった当時のインドでは、これはまことに適切なたとえだったのです。
信仰者は、信仰を深めるためには訓練が、修行が、必要です。その一つは、「ビモーカ」それはすべての欲望の放棄――たった一つ、「悟りへの願望」だけをのぞいて――です。それはギヤーナ・ヨーガのサマダマ、すなわち感覚器官と心の統御、と同じものです。
二番目はアビヤーサ、これは、常に心を神の方に向けるよう、努力すること、です。音楽、賛歌をうたうことも、間接的に心が神に向かうことを助け、これもアビヤーサ・ヨーガの一部です。バクティ派の教師たちの言うところによると、アビヤーサ・ヨーガで進歩するためには、九つの道があります。その第一はシュラバナム――きくこと、主についてきくこと、です。つぎがキールタナム――うたうこと、神をたたえる歌をうたうこと。つぎはスマラナム――思うこと Contemplation 、神を思うこと。つぎは、パダセーバナム――この世を神の御座と思い、その思いで世間に奉仕すること、です。つぎはアーチャラム――神を礼拝すること。つぎはヴァンダナム――神に敬意を表すること。つぎはダーシヤム――神に対する召使の態度。つぎはサッキヤム――友人同士の態度。最後はアートマニベーダナム Atmanibedanam ――自己を神にささげきること、おまかせ、最も大切なもの。以上の九つがアビヤーサ・ヨーガに含まれる道です。
それから、三番目がクリヤー――これは自分の義務を果たす、ということです。どんな義務か、五つあります。第一はデーヴァヤギヤ――献げものをして神を礼拝する。第二はリシ・ヤギヤ――これは数珠をくり、主の御名をくり返して聖者たちを礼拝する。第三はピトリ・ヤギヤ Pitri Yajna ――先祖の祈り。第四はヌリ・ヤギヤ Nri Yajna ――人間への奉仕。第五はブタ・ヤギヤ Bhuta Yajna ――他のすべての生き物への供養。彼らもまたあなた方に依存しているのですから。以上五つの義務の遂行がクリヤ・ヨーガにふくまれます。
そして四番目は、カリヤーナ――心のきよらかさ。その実践は非殺生、および嫉妬しないこと、です。この非殺生は、単に菜食をするということだけではありません。しばしば自分の菜食を誇りながら他者を平気で苦しめる人を見うけますが、真の非殺生は、他者の肉体も心も傷つけないことです。
次はアハーラ――食物を食べること。信仰者は、とる食物に注意を払わなければなりません。私たちの心はサットワ、ラジャおよびタマという三つの性質から成り立っています。そしてサットワを養えば私たちはもっと神に近づきます。食物もこの三つの性質を含んでいます。バガヴァッドギーターに、つぎのように指示されています。私たちはサートウィックな食物、 Soothing effect やわらげる、静める、効果を与える食物をとるべきである。ラージャシックな食物、つまり極度に塩辛いもの、酸っぱいもの、辛いもの等々は心を irritate いらだたせるので避けるべきである。タマシックな食物、つまり前日に調理されたもの、水気を失ったもの、変質したもの等はとるべきではない。これは冷蔵庫の使用が不可避となっている現代の生活には適用できない教えですが、私は自分の意見を言っているわけではありません。ギーターの教えを伝えているだけなのです。(笑い)しかし、食物の性質について必要以上にこれを重視してさわぎたてるのもよくないことです。インド人の中にはしばしばその傾向が見られます。もともと、食物とともに人の心身に悪いことが入ってくる、三つの可能性があります。一つは今のべた、食物自体が含む悪です。次は、食物をとる場所、その雰囲気が悪かったり、そこが不潔であったりすると、心身に悪影響を与えます。第三はそれを調理した人、持ってきた人が悪いと、同じ影響が与えられます。このような影響は、心が粗大である私たちは感じることが出来ないのですが、シュリ・ラーマクリシュナの生涯に見られるように、心が非常にきよらかな人は、直ちに感じます。ですから自分に感じられないからといって、それを疑うべきではありません。
そして最後の修行項目は、アナバサダ――力です。人は修行のためには心身の十分な力を持たなければなりません。
右にのべたのはすべて、ガウニ・バクティ、つまり第二義的なバクティ、初歩的バクティ、アパラーバクティ、つまり準備段階のバクティです。この段階を通過すると、そこに何が起こるか? 不断の神の思いの流れがはじまるのです。油を一つの器から他の器に移すとき、その流れは途切れることがありません。そのように、信者の心の中の神の思いはとだえることがないのです。これが、パラバクティの境地です。そこには愛の取引はありません。「主よ、どうぞこれこれを・・・」という願いはないのです。愛のための愛です。この境地に至ると信者は解脱さえも求めません。彼の祈りは、「どのような境遇にありましても、主よ、どうぞあなたへのゆるぐことのない愛だけは持つことができますように」というものです。犬に生まれても熊に生まれても、それはいとわないのです。この境地になれば、彼は恐れの感情は持ちません、神は罰を与える存在ではないのです。そしてこの境地になると、神はすべてのすべて、神は父であり母であり、友でありいっさいのものです。一つの話をきいて下さい。ある一人の僧、彼はたった一人で暮らしていました。彼の持ち物は、たった一枚の毛布でした。ある夜一人の泥棒が彼の小屋に入って、その毛布をとっていきました。彼は警察に行ってそれをとどけました。「私は着衣をとられました、カーテンをとられました、枕を、何々を」という長いリストを提出しました。泥棒はこのことを知って大層怒り、「この坊さんは大うそつきだ、私はこのおんぼろ毛布一枚をとっただけなのに、そんなにいろいろなものをぬすんだかのように言う」と言いながらそのやぶれ毛布を僧に投げつけました。すると僧は喜んでそれを受け取り、「いや、私はうそは言わない。私はこの毛布を、ときには着衣として、ときにカーテンとして、また時には枕として使っていたのだ、と言ったそうです。(笑い)信者にとって神はそのような存在です。神は一つ、信者は修行にあたって彼と様々の形の関係を結ぶのです。その関係は大別して五つあります。第一はシャーンタ、これは息子の父親に対する関係。つぎはダーシヤ、召使の主人に対する関係。つぎはヴァーツサリヤ、母の幼な子に対する態度、つまり神を子供と見る関係。つぎはサキヤ、友人同士の関係、神をわが友と見る態度。そして最後がマドゥラ、神を恋人または夫と見る態度です。これらの態度のすべての例が、聖典にでてきます。これらの中で最高の、そして最も強烈なのが、マドゥラ・バーヴァです。この場合、神ひとりが the Lover 恋人(男性)、または夫、他のすべての魂は the beloved 愛される女性、または妻です。
そして、最後の最高のさとり realization の中では、もはや信者とイシュタ(神)とは別個の存在ではありません。両者の区別はなくなるのです。その意味で、ギャーニ(知識の道の修行者)の究極の境地と、バクタ(信仰の道の修行者)のそれとは全く同じものです。ですから、信仰の道は二元論ではじまり、やがて神と信者の間の愛が深まって両者はひとつになる、愛がセメントの役を果たすわけですが、もうそこに二つのレンガの区別はありません。あるものは一つなのです。
ここで、バクタがおちいりやすいある危険についてのべ、この話を終わることにしましょう。信者が一つの神像の礼拝をつづけるうちに、彼は、神はこの像の中にのみ、おられる、と感じ、この神は唯一の超越的実在の現れの一つである、と言うことを忘れることがあります。そしてまた、自分のイシュタを愛し礼拝すればよいと考えて、他の神々を無視し、彼らを尊敬しないのです。これは狂信であって、この狂信は、自分の信仰生活に害を与えるばかりでなく、他者をもきずつけます。それから第三の危険は、信仰の名のもとに度のすぎた装飾、過剰な供物をし、(供物はおさがりとして自分が食べるのだから)宗教行事を感覚的享楽の道具とすることがあります。日本ではあまり見ないけれど、インドにはよくその例が見られます。第四は、感情的になりすぎること。涙を流したり踊ったり、このような感情は強い道徳的感覚によって守られていないと、堕落の原因となります。歌ったり踊ったりによる感情の高まりから起こる、クンダリニの突然の上昇は、強い道徳的感覚によって制御されないと、反動的な堕落をもたらすのです。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは言っておられます。スワミジーの講演は常に観衆を高いレベルに引き上げました。そしてときには、感情の爆発が起こりました。後に経験されたことですが道徳的に用意のできていない人は、そのようなときに起こった突然の霊性の目ざめに耐えることができず、中には売春宿に行った者がある、と言うのです。ですから霊性の修業に最も望ましいのは徐々なる、しかも堅固な進歩であって。他人は泣いているのに自分は涙がでない、などと思う必要はありません、放棄の精神にもとづく、ゆるやかな、しかし堅実な進歩をめざすべきです。