NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan |
不滅の言葉
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1996年5号
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インド史に輝くヴィヴェーカーナンダの功績(二) | ||
会長 木村日紀 | ||
印度古代文化中最も発達したものは精神文化である。これは哲学、宗教、道徳の三つに分類される。これを開拓した人種について見ると、ヴェーダ文化を開拓したヴェーディック・アーリアン族と、これとは別に文化を開拓した非ヴェーディック・アーリアン族との二系統に分類できる。印度の文化は両アーリアン族の聖者達により開拓され、また共通的に「修定」を中心として開拓されたので、ここに印度精神文化の特性がある。元来、文化の開拓とは真理の開拓を意味するのである。真理の開拓は、人間精神の根底にある真理性が天地の真理と相通ずるところに始めて成立するものである。これには心の集中を司る「修定」がなくてはならぬ。この修定が印度独特の風習であるから、ここに印度精神文化の特殊性がある、と言ったのである。両アーリアン族の聖者達はこの「修定」を通じて真理の感得すなわち文化の開拓をしたのである。 さてその真理は聖者の人格を通じて教化するのであるが、この場合真理は聖者の人格を代表する智、情、意を通して表現される。「智」を通して哲学教法が現われ、「情」を通して宗教的教法が現われ、「意」を通して道徳的教法が表現されるのである。 そこで何れの宗教の教えてもその当面の目的はどこまでも道徳の建設である。印度の宗教の哲学が目的とする「解脱」は要するに実践的な道徳の建説に他ならない。ところでその実践道徳の背景には、必ず哲学的すなわち理論としての教法がなくてはならぬ。それがないとその道徳は実現しない。なぜなら道徳は理論の実践化に他ならないからである。またたとえ哲学的教法が道徳の背景にあるとしても、それを実践道徳化するだけの宗教的情熱(信仰)がなくてはならぬ。かくの如く以上の三つが融合して始めて、宗教の当面の目的たる道徳が実現するのである。従って右の三方面を具備せるや否やによってすべての宗教の浅深段階がきまる。印度の精神文化が世界の何れの国の精神文化にも勝る所以はまさしくここにある。 十八世紀末印度に起った宗教的ルネサンスによって両アーリアンの真の宗教哲学が印度国民に新たに再認識され、種々に註釈されはじめた時代、ラーマクリシュナ・パラマハンサーは、「修定」を通して過去の聖者の文化の開拓すなわち真理の開拓を自から体験し、かつその体験を通して真理表現のあり方、即ち哲学と宗教と道徳との融合を女神カーリーの神像の上に現わせる大偉人であった。その弟子ヴィヴェーカーナンダは、師が体験を以てのみ示した古代文化を組織的に合理的に、凡ゆる面を微細にわたり、而も欧米思想を附加して全世界に紹介し、縦横無尽に筆をふるい言論に叫んだ。その叫びをアメリカにおける講演「吾が師」の中にみると、「凡て人類の活動には精神と物質の二面がある。従って吾人の発展の方向にも要求しつつあるものにもこの二面がある。物質と精神、この文化の二面に於て、従来物質文化の完成発達は欧州の天地においてなされ堅実な基礎を作った。精神文化は歴史が示す如く東洋に於てその基礎を固めたのである。今日世界の傾向をみると、わが東洋に発した精神文化の復活を要求しているかの様にみえる。これは当然のことである。何とならば、現代過半以上の人類が物質文化に生命を奪われ、物質文化がなくては人生に永久の幸福を与えるものがないかの如く思い、天地の不思議や人生の無意義を忘却している時代であるからである。要するにこの両者は共に真理の表現である。彼に肉体の文化あれば吾に精神の文化あり、彼に外界の光明あれば吾に内面の光明がある。彼にとっては物質が生命の活動を持ち、吾には精神が生命の活動を持っている。彼の特色に彼の価値現われ、吾が特色に吾が価値が現われている」と、互いに真理二面たることを示している。 |
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