印度史に輝くヴィヴェカーナンダの三つの功績
木村日紀
印度国民の多くは、ヴィヴェーカーナンダは聖者ラーマクリシュナの弟子として、師たる聖者を、亦聖者の修行方法とそれによって到達せる師の解脱の真相を印度国内は勿論、全世界に紹介するを以て彼の使命としたと考えるであろう。またヴィヴェカーナンダその人も斯く考えてその生涯を終ったのであろう。然し印度史に輝く彼の功績を数えると吾人は其処に三大功績を認めるのである、その(一)は師の聖者とその修行、その教を世界に紹介し、その教団を海外各地に設立したことであり、その(二)は彼の各地に於ける講演に師の聖者の教えとして印度古代精神文化の凡てを世界に紹介せしことである。してその(三)は第一第二の問題を世界に紹介せんとして叫んだ彼の叫びそれ自体が印度第二革命運動の指導精神と化し、印度国民特に青年を奮起せしめたことである。第二印度革命それ自体は正しく失敗に終ったが、この革命が直ちにガンジーを中心と守る第三独立連動を起し、その結果遂に印度独立を実現したのである。この意味に於て印度青年国民を奮起せしめガンジーをガンジーたらしめた遠因はヴィヴェカーナンダの叫びであったことを知る。
ラーマクリシュナは一八三二年カルカッタを去る近村の貧家に生まれ、幼少より父母の保護下に教育を受けたが、彼はそれを好まず、只遊芸三味に月日を過した。然し彼は熱烈な敬神的性質を多分に具えていた。彼の兄は学者で、当時の教師であった関係で、彼を指導すべく教育の任に当ったが彼は直ちにそれをも打捨て、顧みなかった。その理由は「俗界の智識は凡夫の学才を養うにすぎない」と悟ったからである。彼はこの決心の下に、学堂を去って禅三昧の修行に一身を投じた。然し父は既に逝き母は老いて彼を養う力なく、特に貧困の家なれば生活の方法がなかったのである。そして彼は止むを得ず十八歳で近付の寺房の番僧となった。婆羅門階級では斯る番僧職を極めて卑賎に見傲したものである。ここにいう寺房とは仏教寺院とは全くその趣を異にしたもので、或る富豪が自ら信仰する神童を設け、そこへ神像を安置して現世の幸福を祈願するのである。これを守護するため番僧を置くのが習慣である。彼は斯る寺房の番僧となるもそれを卑賎と考えず、寧ろ神聖と信じ、神の霊は必ず此処へ宿るものと深く信じ、朝夕の修行を怠らなかった。彼の寺房の神は女神カリの崇拝からその性力を崇拝するに至った性力派の神であったが、彼の信仰は当時の時代思潮に影響されたものか、ウパニシャドの一神教的思想を有し、彼のカーリ女神の像を通して、その一神に接せむとしたのである。彼を広く世界に細分したマクスミューラー博士は、次の如く述べている。「彼は女神カーリの像を天地宇宙の母と思い、その像が血も通い、息も通って、彼の手から食物を摂りつつあるものと信じた。常に定めの礼拝供養が終ると彼は女神の前に坐し、幾時間となく礼讃を述べ、小児が母に対する如く女神と語り、いつとはなしに、世間的意識を失い、無我の境地に入る」と、マクスミューラー博士の如き世界的印度学者を感化した彼の宗教力は実に偉大であった。彼は結婚した妻女とさえ絶対に同棲を避け、後にはその妻をも彼と同様の禁欲生活に入らしめたのである。彼は仏陀の如く階級的差別を打破し、全く平等主義であった。彼の無我の人格、無差別の人道主義は当時の一般を深く感化したのである。彼は解脱の方法として採用した禅三昧は全く方法として熟修し、過去の印度聖者の如くそれを目的化せず、修定主義を排斥した処にこの聖者の特殊性があり、それによって彼は真の聖者となったのである。この聖者の弟子たるヴィヴェカーナンダは彼の師聖者の特殊性を世界に紹介し、この教団をして世界的存在としたのである。