NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan |
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不滅の言葉 1965年3号
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ヴィヴェーカーナンダの思い出
(ジョセフィン・マクレオド嬢の回想記から) 「私はその冬中、週三回午前十一時からのこの講義を欠かさず聴いた。彼と直接話したことはなかったが、私達が決して休まないものだから最前列の二つの席はいつも私達のために空けてあるようになった。或る日夜は私達の方を向いて尋ねた。『あなた方は姉妹ですか?』『はい』すると彼は言った『遠方から来られるのですか?』『いいえ、それ程でも。ハドソンを三十マイル程上った所です」「そんなに遠くから? それは素ばらしい事だ。』これが私が彼と交した最初の言葉であった。」 その年の春の或る日、妹の婚約者サー・フランシス・リゲットが講義をききに来て師に握手を求め、姉妹を正式に紹介しました、やがて師はパリで挙げられる彼らの結婚式に立会うという名目で招待を受け、ヨーロッパに旅行します。 「彼は八月にリゲット氏と共にパリにやって来た。妹と私はオランダ館という宿に泊っていたが二人は別に宿を取った。我々は毎日会った。この時リゲット氏は一人の従者を雇っていた。彼はスワミを『モン プリンス!』と呼ぶのである。スワミは言った『私はプリンスではない、ヒンズーの僧である。』すると従者が答えた「あなたは御自分を何と呼ばれてもよろしうございます。私は多くのプリンスにお仕えしてきましたのでほんとうのプリンスは一目で見わけるのでございます』と。」 パリからロンドンに渡り、ここで師の講演が大きな反響を得たことは周知の事実、一度アメリカに戻って再び米英、更にヨーロッパ各地を旅行して一八九七年一月に四年ぶりで故国に帰りました。この時彼に従ってインドに渡った三人のイギリス人は、ヒマラヤに僧院を建てたシーヴィヤー夫妻と若い速記者J・J・グドウィンでした。 「グドウィン氏はスワミジーの講演を記録するために一八九五年人ニューヨークで雇われた速記者であった。彼は法廷速記者で一分問に二百語を取った。従って非常に高給であった。然し私達はスワミジーの講演を一語も洩らしたくなかったので彼と契約を結んだ。最初の一週間がすぎると彼は金を受け取ることを拒んだ。その理由を尋ねると彼は言った『もしヴィヴェーカーナンダが命を与えるなら、私にできる最も小さな事はこの奉仕です。」彼はそれからスワミに従って世界中をまわり、その結果として今日我々は彼の口から流れ出た儘の全集八巻を持つのである。」グドウィン氏は師に先だつこと四年、一八九八年にインドで若くして亡りました。この時筆者は師と共にヒマラヤに滞在中でした。「我々がここにいる時、彼がウータカムンドで死んだ、という知らせが入った。スワミジーがこれをきいた時、彼は無言で窓外の雪を頂くヒマラヤ連峯を長い長い間みつめていた。そして『私の公開講演はもう終った』と言った。実際その後講演の機会は殆ど無かった。」 筆者は明治三十三年日本を訪れています。 「私は日本で日本美術院の創立者岡倉覚三と知り合った。彼はスワミを日本に招待したいと熱望したが彼が断ったので、彼に会うために私と一緒にインドに来た。ベルールに来て数日の後、岡倉氏が私に厳そかな調子で言った「ヴィヴェーカーナンダは我々のものです。彼は東洋人だ。あなた方のものではない。一両日後、スワミが私に言った「まるで長い間別れていた友に再び回り会ったような気がする。」私はこの二人が真に理解し合っていることを知った。そしてスワミが『私達の仲間に入りますか?』と尋ねた時、岡倉氏は『いいえ、私はまだ此の世の仕事を終っていません』と答えた。それは非常に賢い返事であった。」 「一九〇二年(入寂の年)の或る日、ベルール僧院でシスタ・ニヴェーディタが何かの運動競技の賞を授けているのを私はスワミジーの寝室の窓辺に立って眺めていた。すると彼が私に言った。『私は四十才までは生きないだろう。』私は彼が三九才なのを知っていたから『けれどスワミ、仏陀の偉業は四十年では成りませんでした。』然し彼は言った。「私は使命を終ったから行かなければならない。』私は尋ねた。『なぜ行くのですか?』すると彼は言った、『大木の陰には小さい木々が育たない。場所をつくるために私は去らなければならないのだ。』」
紙面の都合でやむを得ず、今月はラーマクリシュナの生涯を休載いたします。 |
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