NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan
不滅の言葉 1965年2号

読者の欄
内省的思索

山本穆

 私は過日、或る仕事をすませるために長時間にわたる会議に出席しました。会議も三分の二ぐらい終った頃から幾らか疲れが出て参りましたので、ここらですこし休んで何か飲物でも呑みたいと思いました。幸いその時、会議室の扉が静かに開いて、外から女子社員の方がコーヒーを運んで来てくれました。私はほっとしました。その方は、まず部屋へ入る前に、誰もいない正面に向ってうやうやしく一礼し、それから一人一人にコーヒーを配ってから、入って来た時と同じようにまたうやうやしく一礼して、会議室を出て行かれました。部屋に出入りされる方は他にも多勢おられましたが、その方のように振舞われるものは一人もおりませんでした。私はコーヒーを呑むのも暫く忘れて、その方の去られたあとを暫く見守っておりました。その方の心構えが、まことに奥ゆかしく、美しく、また羨しく思えたからでした。そして同時にそうした気品のある立居振舞から、計算的思考から離れてものごとの意味を深く追求する、内省的思索の余韻とでもいったようなものを連想させられたのでした。私は思いました。その方のしぐさの中に見出されるものが実際にはそうした連想を裏書きするものがない場合でも、それでも尚依然としてそれは此の内省的思索に導くところの一つの段階に通じるのではないか、ということを。そして現代の此の索莫とした社会の中にあって、このような方が尚一人でも多くおられるということは、大変心づよいような気がしたのでした。
 実存哲学の大家であり、ドイツの哲学者であるハイデッガーに依れば、この計算的思考というものは、計算された条件のもとに計算された意図の実現を目指して次から次へと移りゆく思考、換言するなら、ひと所にとどまってものごとの意味を深く問うことをしない思考、或いは省察に身をゆだねることをしない思考であって、思索的存在としての人間の本質を根本から覆えすものであります。こうした思考をもたらしたものは何であるかと言いますと、それは、ヨーロッパにおける、特に近代における、人間の自然に対する技術的接近の仕方にある、と言われております。近代科学が長足の進歩を遂げたのも此の故であり、また此の故にこそ、それとの相関関係において、計算的思考がますます猛威をふるい、遂には原子時代における人類の最大の危機を誘発しているのだとも言えるのかも知れません。
 実際、近代における自然科学の進歩には著しいものがあります。昔は、「十年一昔」とよく言われたものですが、自然科学に関する限り、それは今日では最早通用しなくなり、今から一年後には、否半年後には、どんな進歩や発明がなされるか、予測がつかない位であります。而も、こうした科学の進歩と、それがもたらす技術は、私たちから物理的計算的思考以外のあらゆる機能を抹殺して、それを生み出した私たち人間をも遂には物質的なものに還元してしまう恐るべき危険がないとも言えないのであります。
 因みに、物質的なものは、それが物質的である限り、外部から同種のものを求めて自己を絶えず補充しない限り不安定であり遂には崩壊するという宿命を負わされているのであります。従って、それは必然的に欲望的ならざるを得ません。而も、この物質的欲望には際限がなく、それを満たす物質的手段も誠に果がないので、人間が自己をも物質的存在と見なして、此の物質的欲望に全面的に捕われる限り、彼はいつまでも経っても不幸なのであります。
 このようにして計算的思考というものは、私たちから思索的存在としての人間の本質を奪い去り、私たちを単なる一介の物質に化して不幸な奈落の底におとし入れる恐るべき危険を含んでいるのであります。では、このような危険を防ぐものは何でありましょうか。それは実に私が先にも申上げましたような、ひと所にとどまってものごとの意味を深く省察する思考、つまり内省的思索の絶えざる追求、絶えざる練習である、と申せましょう。何故なら、これのみが私たちをして、内面への道を歩ましめるところの、或いは真実にして無限なる浄福への道を歩ましめる霊性の開発を促すところの、唯一の方法であるからであります。

Core | Top
(c) Nippon Vedanta Kyokai