NIPPON VEDANTA KYOKAI
Vedanta Society of Japan
不滅の言葉 1965年1号

読者の欄
宗教からみた科学
小薗井正信

 科学は、その方法を使って、さまざまな現象の間の関連を探し、その本能に従って統一的な原理を求めて行く。冷静な第三者として、これに反し、宗教は、第三者としてではなく、現在生きつつある者として、生の価値を求め、普遍的な生の真理を求めて行く。
 このように、科学と宗教とは進み方が全く異なり、本質的に違ったものだが、ふたつのものの間に少しも矛盾はない。もともと矛盾するはずのないものなのだ。もし両者の間に矛盾があるようにみえたとしたら、どちらかが、又は両方に、それぞれにとって本質的でない、誤った考え方があるからだ。
 真の科学は宗教を攻撃するものではない。又、真の宗教は、科学に対して偏見をもつものでもないし、科学が新しい道を拓いて行くのを恐れるものでもない。
 宗教からみたとき、科学はむしろ現在の己れの中にあり得る、本質的でない、不純な要素をとり除いてくれるものとして、その進歩を歓迎しなければならないものなのだ。
 もちろん科学は、その進歩によって宗教につけ加え得るものをひとつももたらしはしない。正しい信仰をもっている人にとって、科学は全く無関係なものでしかない。なる程、科学は現実の活動にさまざまな便宜を与えてはくれるだろう。しかし、宗教は、個人の心の奥底にしか存在しないもので、そのような便宜は、真の宗教に何も加えるものではない。
 それなのに、このふたつは何と憎み合っていることだろうか。お互いに何と誤解し合っていることだろうか。
 中世において、地動説はキリスト教の根本をゆるがすものとして恐れられた。だが結果として、地動説はキリスト教をいっそう純粋なものにしたし最近における進化論もそのようなものだった。人類と猿類が共同の祖先をもつということは、キリスト教においては人間の神性を否定するものとして、仏教においては、三世とか、輪廻転生の教えを否定するものとして激しく攻撃された。だが、無数の物質的な証拠を根拠として述べられた進化論は、そのために少しの影響も受けなかった。科学の仮説は、科学的な方法によってのみ批判され得るものであり、宗教的な方法によってではない。逆に宗教は、進化論のおかげで古い言葉が、現象的に理解されるべきものではなく、ある表現し難い体験が、その時代としては止むを得ざる方法で表現されたものであり、その云い難い体験こそ求められねばならないのだということを知った。
 現代の物理学や天文学は、地球だけが特別なものではなく、たまたま無機物から生命と呼ばれるものが発生し得る環境が与えられたので生命体が発生したにすぎないことを教えている。そして、すべての生物は進化(というよりは変化)するものであって、それぞれの種属は、発生し、繁栄し、やがて環境がふさわしくなくなったときに衰退し、滅亡するものであることを教えている。人類もまた例外ではない。これらの事実によって宗教は、又もや己れのものならざる不純な衣をぬぎすて、更に純粋なものとならざるを得なくなっている。
 唯物弁証法についても同じことだ。宗教者はともすると「唯物論」とか、「唯物主義者」という言葉によって、これを非難しようとするが、これはまとはずれだ。歴史はいつも人間の欲望によって支配されて来たし、これからも変ることはないだろう。第三者として客観的にみる場合は、否定することはできない。だが、真の唯物論は、「己れの欲望のままに生きよ」とか「人間は野獣だ」などといっているのではない。宗教が生の真理や価値を追求するのを少しもさまたげるものではないのだ。
 われわれは生の真理の追求者として、不純な、本質的ならざるものを脱ぎ捨て、ますます純粋に進んで行くだけである。

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