不滅の言葉 1964年11号
理性と直観(下)
K・D・R・ソマスンダラム・アイヤー
それでは不可知論におちいるのだろうか? 自己、世界及び絶対者についての真理を知る道はないのか? 人間は真理を知ることなしに死ななければならないのか? 人間の目的は永久に未完成に終るのであろうか?
幸いにも十分な希望がある。それを知ればあなた方が一切を知ることのできる「それ」、それの知識に達する立派な道がある。勿論それは理性ではない。あなたはその知識を「直観」と呼ばれるものによって護得する。心が自我や知性や感覚によって世事にふける事なくその純粋な統一状態を得る時、理性の働きのためにあなたに知性を供給する心と同じ心が、あなたに直観を与えるのだ。古代の聖者達はこの能力に驚く程すぐれており、彼等の直観力によって彼等はヴェーダの真理をみた。努力さえ惜しまないなら、熱心な真理探求者は誰でも、その力を持つことができるのである。
この直観は神話ではない。それは、目にみえなくても人間のために利用する事のできる磁気や電力と同様に一個の事実である。この直観もまた目にはみえないが生み出され、人間の用に供せられる。それの一面から神聖な霊感に溢れた詩が生まれる。それはあらゆる分野に於て天才を生み出す。実際、理性によって解決できない一切の現象は、その原因を尋ねればことごとく直観に到達する。理性は直観の前では弱小にみえるが、然し直観によって宣言された真理はできる限り理性に順応するであろう。世界のあらゆる場所で聖者達が直観によって把握した真理は大体同一である。それはまた普遍的であり全人類に適合させることができる。直観の真理は決して理性によって置き換えられることはできないし、説明によってより良くなるということもあり得ない。但し、現象的な世界について聖者達の述べるところは必ずしも正確ではないかも知れない。それらは科学的真理とは逆の場合さえあるであろう。その様な言明は断固として切り離すべきだ。説明しようとしたり、あやしげな神聖性や神秘性でそれらを包んだりして無理に抵抗をつづける必要は少しもない。それは石から糸をとりだそうと試みる様なものだ。この様な頑固な心が多くの思想上の学派とそれに伴う弊害とを生み出した。実は宗教の創始者達がその聖典を書いたのではない、後にその信奉者達が編集したものである、ということを指摘すると、この際何かの参考になるであろう。あらゆる聖典を読むにあたって世俗の立場で述べられた言葉から真理をより分ける仕事がすでに直観力を必要とする。
前述のように、ウパニシャドはリシ達即ち聖者達に与えられた多くの啓示の記録である。彼等はその感覚を世俗的なものから引き退かせて心を内面世界に集中し、狂乱の群集から遠く離れて住んだ。いかなる分野の真理でも、勿論科学の真理であっても、世俗性から引退して目的とする対象に心を集中した時に始めて獲得することができるのである。ウパニシャドは、ブラフマンと呼ばれる唯一つの知性ある本体または霊が存在すること、ブラフマンのみあって次なるものは存在せぬこと、を明確に述べている。ブラフマンは遍在し全知全能であって、生物であれ無生物であれ、この世界に存在するものはすべてブラフマンである。原初の純粋性をみる時それは「絶対の実在」またはニルグナブラフマンと呼ばれ、この世界を通してみる時それはサグナブラフマン、または神、またはイシュワラと呼ばれ、人間に関して語られる時それはアートマンと呼ばれる。この世界は丁度、火から火花がとび散り、くもが体から糸を吐き、大地に草木が繁り、毛髪が人間の肉体から生じる様にブラフマンから生じる。これらの簡単な説明によって二つの事が明かになる。即ち(1)この世界はブラフマンと同一の要素からできているという事と(2)この世界は毛髪が肉体から生じる等々と同じ様に極く自然にブラフマンから生み出されるという事である。これらの、極めて簡単なウパニシャドの宣言は、多くの註釈家達のかみそりの様な鋭い知性と目のくらむ様に精緻な弁証とによって様々に解釈され、その結果として真理は冗舌の中に姿を没し、幾多の宗派が生じて真理の探究者達を途方にくれさせた。
議論の余地のある説明は暫くおいて、もっと馴染み深く、そしてまさに議論の余地のないポイントを突いている一つの説明に頼ろう。我々は心が夢の状態の中で一つの肉体及びその心と知性と自我と五つ感覚を創り、またそれが楽しむために、人間達や獣や鳥や昆虫などが住んでいてそれ自身の時間空間及び因果の法則を持つ一つのすばらしい世界を創る、ということを発見した。これらすべての夢の中での心の創造物は単に心だけを材質としている。それらは心と異らない。然らば心のみが能動的な状態で存在し、夢の世界は心から出て来たものである。なぜ心は夢をみるのか?それは夢をみることがその性質だからだ。同じ様に、この世界はブラフマンの夢である。なぜブラフマンは夢をみるのか? 夢をみるのがその性質だからである。丁度夢の中の人間が夢みる力を親なる心からうけついでいる様に一心は夢をみる性質をその親であるブラフマンから受けついだのである。その性質である、ということ以外にブラフマンがこの世界を夢みる原因はない。熱烈な求道者が真理を知るのにこれ一冊で用の足りるマンドウキヤ・ウパニシャドは、アートマンもしくはブラフマンは四つの状態を持つ一と述べている。即ち(1)めざめている状態(2)夢みる状態(3)深い眠りの状態及び(4)本然の状態である。めざめている状態、夢をみている状態及び深い眠りの状態の三つは実はアートマンもしくはブラフマンの夢の姿である。この三つの状態が全宇宙を構成する。それ故、宇宙はブラフマンの夢である。ウパニシャドは「これすべてブラフマンなり。」と無条件に宣言している。過去、現在及び未来に存在する一切のものはブラフマンである。
ウパニシャドは更に、ブラフマンから偉大なプラナ即ち「生命の力」即ちサグナブラフマンが生じた、それは即ち宇宙の最高神である、それはチット(意識)と共に人間の心臓に宿っている、と述べている、人間にあって、プラーナとして心、知性、自我及び感覚等々を現わしているのはアートマン、つまりブラフマンに他ならない。心はプラナによってしっかりと心臓に保持されている。心自身は四つの方法で働く。即ち(1)それは通常の「心」として自我と知性と五官と共にこの世界の中で働く。(2)「知性」として物事を決定し、また感覚を追う通常の心を統御する。(3)「自我」として一切の経験を自分及び自分の肉体のために我がものとする。(4)「チット」(意識)として自我、知性及び世俗の心を脱脚し、それみずからの純粋な状態にある。神がプラーナとして心臓の中に宿る、というのはこの純粋な心、即ちチットに宿るのである。これが即ち神の王国である。心は丁度紙凧が糸によって揚げる人につながれ、小牛が杭につながれ、子供が母の前掛の紐に結びつけられている様にプラーナに結びつけられている。事実プラーナは心に対して母の様な働きをする。めざめている間は心は自我、知性及びその仲間である五感と共にこの世界をさまようことを許されるが、夜のとばりと共に手綱は引き寄せられ、母のプラーナは心を眠りに誘いこみ、また五感をも休ませる。夢の状態に於ては心は自分だけで自由に遊ぶことを許される。心はそれからプラーナの居室である心臓に更に引き寄せられ、彼女(プラーナ)の膝の上で深い眠りに入らせられる。眠りの間中彼女は心のためにその玩具である肉体とその記憶とを永遠の不寝番をし、めざめた時に返してやる。それを知ると否とにかかわらず、すべての人間は深い眠りの中では神の天国に入り神と共にすごすのである。但しこの事ははっきり憶えておかなければならない。即ち、心は、その輝かしさに於て自分にまさる自分よりも優れている或る力の圧迫や強制の下に、我が意志によらずしてこの状態に達するものだから、その時に得た知識を覚醒状態の中で利用すべく持ち帰る、ということはできないのである。然し、もし心が自発的に働けば、そこには奇蹟がおこる。心は自発的に、今まで五感によって執着していた世俗的な対象から自分をひき離すべきである。次に心は、一切物はプラーナ即ち神として母の愛を以て我がハートに住み給う「彼」である、ということをよく知り、また一切物は「彼」のものである、ということを知り、そしてまた、自分は自分という存在をこの世界という芝居の中に持ち込んで何物かを我が所有物とみなすような権利は持ち合せていないのだ、ということをよく知って、自分を自我の感覚つまり「私は」とか「私の」とかいう意識からひき離さなければならない。その次に心は、神のすむ心臓の中で純粋な「チッタ」(意識)となり、一切のものを「彼」に委ねなければならない。すると、プラーナとして心臓部に宿る神が一切の知識を恵み、そこで直観が生れる。この様な訓練を重ねるに従って、あたかも磁場にある物体が磁化されるように心は神の恩寵にみち溢れ、直観が第二の天性となる、かくして一切の知識、か徐々に明らかになり始めるのだ。心をこの様な純粋な状態に戻らせる方法は二つある。ヨーガの方法か、または心臓に宿る神への信仰である。信仰の道の方がやさしい。
直観と知的な思考との相異は次の様である、則ち知性は脳で働くのに対して直観は心臓部から生れる。直観には疲労や弛緩は決してないが脳髄は時々つかれる。直観によって得られた真理は普遍的であるが理性によって捉えられた真理は、ある種の人々は重視するかも知れないけれど、局限的なものである。直観は堅固で安全な基礎に建てられるが、理性は不確実で有限な道具によって軟弱な砂の上に建築をする。神の恩寵に裏づけられている直観は永久的であるか、人間的な錯誤に立つ理性は変りやすい。
この世の悩みから脱するために、人は自分の心臓に宿る神に心を集中してその恩寵を得、その中から与えられる必要な直観に頼る他に道はない。しばらく夢の場合をふりかえってみよう。かりに我々が夢の中で遭遇した人々の中の一人が他の一人に打たれているか、または夢の中の虎に襲われている、と想像せよ。その人はこの苦難から逃れるためにどうすればよいか? 彼は、夢をみている我々にすがりついて、どうぞ自分のために目をさましてこの苦難に終りを告げさせて下さい、と懇願すべきだ。その様に、この世界に束縛されている我々も、自分達のこの苦難を終らせるためには神に依り頼むべきである。我々の心が神と一つになったなった時、彼は我々のために目をさまして光まばゆいブラフマンを示す。我々はブラフマンの中に存在し、ブラフマンの中で働く。そして我々の周囲はことごとくブラフマンによってまもられているのである。
このブラフマンは心臓部で働く心によって、人格神即ちサグナ、或いは非人格的絶対者即ちニルグナとして把握される。然しギーター第十二章第五節にあるように、姿かたちある存在者がニルグナブラフマンを把握することは極めて困難である。それ故、人格神または「オーム」という響き、またはその他の象徴かマントラに心を集中することをおすすめしたい。また日、月、人の形を写した像か絵画、その他心がたやすく想いを集中できる聖物なら何でもよい、とにかく、その様な外の事物に集中することもできるであろう。誠実さ、神についての必要な概念及び精神集中は、勿論基礎的な必要条件だ。礼拝には高低、文明と未開、有効と無効などの区別は全く存在しない。誠心をこめたものなら一切の礼拝が同一のゴールに到達する。むしろ神は信者のまごころはよく知っておられて、彼がどの道を来ようとも、「彼自身」のもとまで高め揚げて下さる。偶像崇拝を非難する人々は、みずからは教養ありと自負するかも知れないが、ほんとうは無知なのだ。ラーマクリシュナ・パラマハンサの様な最も偉大な聖者達が、この信仰の道を辿って最高の真理に到達した。スリ・アディ・シャンカラ自身も、数多の神々に捧げる讃歌をうたった。
もし人が熱意と信仰とを以って神を礼拝しつづけるなら、彼は遂には真理、大実在、ブラフマンに到達するのである。(終)