不滅の言葉 1964年11号
働きとその秘訣 (上)部分
ヴィヴェーカーナンダ
私がこれまでに学んだ偉大なる教訓の一つは、仕事の目的に対してと同じく手段に対しても同じだけの注意を払う、ということであります。私がこの教訓を学び取った相手は立派な人で、彼自身の生活がこの偉大なる原則の実際的な確証でした。私はいつも此の一つの原則から数々の教訓を学んで来ました。そして成功のすべての秘訣はこの点、即ち目的に対してと同じく手段に対しても充分な注意を払うというところにあるように、私には思われるのであります。
人生における我々の大きな欠点は、我々が理想というものに強く惹きつけられるために、また我々の心の視野の中で目標というものがきわだって魅惑的であり、誘惑的であり、大きいために、全体の姿を全く見失ってしまうということであります。
しかし失敗がくるたびにもし我々がそれを精密に分析すれば、それは十中八九まで我々が手段に対して注意を払わなかったからである、ということを発見するのであります。我々が必要とするのは手段の仕上げやその補強に対する適切なる注意であります。手段が適切であれば、目的は達せられるのであります。我々は結果を生ぜしめるものは原因である、ということを忘れております。結果は自分でやって来ることはできません。原因が正確適切かつ強力でないならば、結果は生まれないでありましょう。一たび理想が選ばれてその手段が決定したなら理想は殆んど放置してよろしい。何故なら、手段が完全であれば、それは必ず実現するからであります。原因がそこにある時には、もはや結果については困難はありません。結果は来るにきまったものであります。もし我々が原因を大事にすれば、結果はみづからを大事にするでありましょう。理想の実現は結果であります。その手段は原因であります。それ故手段に注意を払うことは人生の偉大なる秘訣であります。我々はまたこのことをギータの中でも読み、我々は働かなければならぬ、全力を捧げて絶えず働かなければならぬ、ということを、また我々のしている仕事がたとえ何であろうとそれに全霊を注がなければならぬ、ということを、学びます。それと同時に、我々はとらわれてはなりません。つまり、我々は他の何ものかに惹きつけられてその仕事からはぐらかされてはならないし、而も尚、必要あるときには随時その仕事から離れることができなければならないのであります。
我々がみづからの生活を検べてみると悲哀の最も大きな原因はこれであることを発見します。即ち、我々は何かを取りあげてそれに全力を注ぐがそれは或いは失敗かも知れない、それでもなお我々はそれをあきらめることができないということであります。我々はそれが自分を傷つけていることを、それにいつまでもしがみつくことは自分に不幸をもたらすだけであることを、知っております。それでもなお我々はそれを放棄することができないのであります。蜂が飛んで来て蜜を吸いました。しかしその足が密入れにへばりついて離れるごとができなくなりました、幾度も我々はそのような状況にいる自分自身を発見します。これが存在の秘密のすべてであります。我々は何故ここに居るのでしょうか? 蜜を吸うためにここへ来たのであります。そして我々は自分の手や足が蜜にへばりついているのを発見します我々は捕えるために来たのに捕えられている、楽しむために来たのに、楽しまれている、支配するために来たのに支配されている、働くために来たのに働きかけられているのであります。いつも我々はこのことを発見します。それは我々の人生の一々の事実にあてはまります。我々は他の者の心に働きかけられております。そして我々はいつも他の者の心に働きかけようと奮闘しております。我々は人生の快楽を味わいたいと欲します。しかもその欲望は我々の活力に喰いこみます。我々は自然からすべてのものを得たいと欲します。しかし結局は自然が我々からすべてを奪うことを、我々を洞渇させることを、我々を捨て去ることを、発見するのであります。...............