不滅の言葉 1964年10号
「ヒンズー思想の手びき」その五(部分)
放棄の道(ニヴリッティ・ブルガ)
ニルヴェーダナンダ
人間が真に欲しているのは永遠の浄福(ツュレヤス)である。ただ彼はそれを何処でどのようにして獲得すべきかを知らない。感覚的な快楽を純粋の浄福と見あやまっている。彼が現世及び来世での魅惑的な事物を追い求めているのは、そのような理由によるのである。
富、子孫、名声その他幾百という此の世界の魅惑的な事物が彼を惹きつけ、彼はそれらを追いかける。そしてその幾らかを捕らえて暫くの間それらを楽しむ、然しその中のあるものが彼の手からすべり落ちると彼は不幸だと感じる、またそのあるものは暫くの間彼の手中にとどまるが、やがて突然消え失せる。そのような損失は彼を傷つける、それからまた、彼が欲しがっていたものを手に入れるや否や、次なる欲望が現れて彼から落つきを奪う。彼は感覚は快楽では満たされないことを発見して落胆する。むしろそれを満たすことによって欲望は益々烈しくなっていく。そのようにして彼の生涯はこれらの空しい快楽を追い求める果てしない競走となる。この道では彼は決して満足を味わうことはできない。満たされない慾望と欲しいものとの別離から生じる不幸が、彼の一歩一歩につきまとう。そしてこれは誕生から誕生へと続く。何故なら彼はそれを好まなくても、幾度も死に直面せねばならないからである。
純粋な快楽が得られるより高き、より精妙な世界さえ、彼に永遠の浄福は与えない。善行を積んだ人は死後そこに行って強烈な快楽を楽しむことができるであろう。然しそれはほんの暫くの間である、その後、彼は降りてきて再びこの地上に生まれなければならない。
実際、人間が欲望に支配されている間は、此の世は勿論来世といえども彼に永遠の浄福を与えることはできない。欲望はまさに人間をサムサーラに縛りつける鎖である。
然し人は欲望と別れることを嫌悪する。感覚的対象への渇望が彼を支配する、ラクダは口を傷つけ血を流し乍らも棘のあるかん木の若芽を好んで食べる。丁度その様に、これらが誕生と死との果てしない循環の中で言葉につくせぬ程の不幸を彼にもたらすにもかかわらず、人は感覚的快楽を嬉しそうに眺める。
そのような人々の数は実に多い。彼等にとって第一歩はプラヴリッティ・マールガ即ち願望成就の道をふむことである、彼等は欲望のすべてをあきらめる必要はない。ただ経典の命令(ヴィディ)と戒律(ニシェダ)に忠実に従って欲望を制御すべきである。これを行なう人々は現世及び来世の良きものを楽しみつつ、しかもその心もある程度まで浄化される。より高い世界で強度の楽しみを味わった後彼等は此の地上に再び戻り、今まで以上に熱心に願望成就の道を実践する彼等の善行は、彼等を死後更に高い世界に導く、この過程は彼等の心が非常に純粋になるまで、幾度もくりかえされるのである。..................