不滅の言葉 1964年10号
理性と直観(上)
カマクシ・ダサ・R・ソマスンダラム・アイヤー
無数の星、太陽、月、遊星及びその他の巨大な天体達から成るこの広大な宇宙の中で、我々のすむ地球は幾何学上の一点にすぎない。それでは人間は何であるか? 人間は宇宙の微小な点である。宇宙における人間の地位はゼロだ。
時間的にも、人間の生存期間は宇宙のそれに比べれば実に電光の一閃である。地球が地軸を中心として自転しながら太陽の周囲をまわり、月が地球の周囲をまわっているので便宜上人間はその生存期間を年月日に分割するのだ。ほんとうの事を言えばそれは、月曜日に生れ、火曜日に洗礼を受け、水曜日に結婚し、木曜日に病気になり、金曜日に容態悪化、土曜日に死亡、月曜日に埋葬される、というソロモングランディの文句どころのさわぎではない。この瞬間に生れて次の瞬間には死んでいるのが実情である。時間における人間の地位もまたゼロである。
因果関係についても、哀れな人間は何も知らない。人間は木が種子から生じ、種子が木から生じることは知っているが、そのどちらが先に生じたかを知らない。原因不明の様々の結果にも、彼は行きあたる。ここでも人間の地位は大きなゼロである。
彼の「存在」についてはどうであるか、と言えば、これは非常に不安定であり、そして全く従属的である。彼は「自然力」の慈悲の下に生きている。もし自然がすこし眉をひそめれば、人間はもうそこにはいない。数度暑すぎてもまたは寒すぎても、彼は耐えることができない。彼は洪水嵐、地震、雷、ベスト、伝染病等のたえざる脅威にさらされている。人間の生存そのものが外界の空気、水、食物及びその他のものに依存している。その上、人間は常に侮辱されている。もの事は彼の鼻先で、彼のまわりで、否、彼自身の肉体の中でさえ起り、それについて彼はいささかの相談も受けないばかりか全く無視された無力な傍観者となっていなければならない。
この短い不安定なそして全く従属的な生存期間中でさえ、あらゆる方面における重い制約に苦しんでいる。彼は中の心、知性及び五官に制限をうけている。強度の思考の後には心は順々空虚になり、極度に激しい知的探求の後では頭脳はひどく疲れる。視覚聴覚嗅覚味覚及び触覚の五官については、ある種の動物、鳥類及び昆虫は人間に優り、ますます人間を完全に圧倒する。飢えという根本的で共通な欲望をみたすためにも、彼等は人間よりもっと賢くて簡単で直接的な手段を持っている。彼等も同様に持っているところの心と知性については、我々は彼等のそれらを充分には知っていないので人間と彼等とを比較する権利を持たない、然し、知識を集め、体系づけ、計画する能力、真理を探求する能力を持っている点では、人間は他の被造物に優っている。
更に人間は幾つかの事柄、例えば生命、心、知性、感覚等々がどの様にして生れ、また誰がそれを造ったか等の事柄について全く無知である。
この世の事物についての無知を除くために人間はまじめな努力をつづけている、毎日科学者達は、空間時間及び因果律の世界の中で捕らえられる事実について思考しながら、物質の構造及びこの世界の事物のあり方と原因についての知識の追求に余念がない。この世界中の事物の解決のためならば、まだこの世界の持つ目的のためならば、人間のその努力は合法的であり、その思考は充分に所を得ている。然し人間がその思考能力を超越的な問題、即ち霊の問題に適用しようとする時、困難が生じる。彼は自分の限られた心と知性によってこの世界に見出された事実及び原因対結果、真対偽、現象対真実等々の関係などを用いて、剃匁の様に鋭い理性と目のくらむような論法とにより、「絶対者」つまり「偉大な不可知者」に関して多くの哲学を生み出す。要するに彼は尺棒で天空を計ろうとするのだ。然し、これらの哲学がいかに独創的であり、またいかに優れた頭脳の産物であろうとも、それらは空間時間因果律の中で得た不完全な知識に基いているのだから、決して科学的ではあり得ない。彼等は肥えた頭脳による単なる思弁であり、そういうわけだから、今まで破ることが不可能だと思われいていた哲学が次々により鋭い知性によって粉砕されている。我々は、現在までに東洋または西洋で生れた凡ゆる哲学に向かって鋭い思考による効果的な質問を出してそれらを完全に打ちのめしている書物に出あう。この様にして、宗教、精神の問題について多くの思想上の流派が生まれ、まじめに真理を探求する人を惑わせてきた。これらの流派の中のあるものがもたらした害悪は量り知れない。健全な哲学の真の目的である筈の人類の統合の代りに、人類の多くの部族が常に戦い合うことになった。宗教の名によってこの世界に多くの血が流された。各宗派は、自分の哲学こそ神から授かったものであると主張し、たとえその教義が常識を他れていて理性により改善する余地があっても、考え直すことは許されない。各派は各々自分自身のカテゴリを持ち、それを真実究極のものと主張する。
ここで空間の観念がどの様にして生じたかを考えてみよう。視力が不完全であるために、対象は我々の眼に個別的なものと映じる。もし我々がX光線より深い透視力を持っていれば、対象物の個別性は消滅してすべては一つの虚空であろう。最も鋭敏な視力は、おそらく一様な原子の巨大な集団だけを見る筈である。
時間の観念は、我々の肉体を含むこの世界の事物の変化を観察することから生じている。だから、それは実際には空間の観念に依存している。因果の観念もまた空間の観念から生れている。有限な視力が生み出した空間時間及び因果の観念から真の哲学が生れる筈がない。
思考が安全なガイドであり得ないことは、次の事実からもまた明らかである、それは、目がさめている間の経験だけを取り扱い、それが完全であるかの様に論じる。それは人間の夢及び深い眠りの状態についての考慮を全く欠いている。これらの哲学は、夢の経験は嘘のものであり、深い眠りには無知のみが充満しているのだから、これらの状態は全く考慮する必要がない、とあたまから決めてかかっている。この様な重要な状態に対する考察を省くことは大間違いであり、従ってその様な哲学は無視しても差支えないであろう。我々はやがて、これら二つの状態が覚醒状態よりどれ程重要であるか、またいかにして、それらの状態を分析できた時にのみ哲学が真に完全なものとなるのであるか、を考えるであろう。
理性に立脚したこれらの哲学は、心とは何か、それはどの様に働くか、という考え方そのものに於て互いに異っている。或るものは心は霊であると主張し、あるものはそれは物質にすぎないと主張する。これは、精神と物質とは二つの異ったものである。という仮定の上に立っているのだヒンズー族のウパニシャドは、ブラフマン、即ち霊のみが存在し、次なるものは存在しない、存在するものは霊のみである。とはっきり断言している。現代の科学もまた同一の見解に傾きつつある様だ。
さて、人間の三つの状態について考えてみよう。目ざめている状態では、心は有限な五官、即ち視覚聴覚嗅覚味覚及び触覚によって世界を見、経験する。心は、肉体の制約を含む凡ゆる制約のハンディキャップの下で働く。当然その経験は有限であり部分的である。心は全面的に活動することはできない。
然し夢の状態では心はその全貌を明かにする。その偉大な力を発揮する。それは覚醒時の様な制約は一つも受けない。一時この厄介な肉体をぬぎすてて、新しい敏捷な、ゆう通のきく、必要があれば重力に逆らって宇宙を飛ぶこともできる軽やかな肉体をつくり、その肉体に自我、心、知性、五官を与え、それを楽しませるために人間、鳥獣、山川、空、星、太陽、力及びこの世界にある他の様々のものから成る一つの世界、時にはめざめている時の世界よりももっとすばらしい一つの世界を創造する。心は通常は我々が平素この世界で出会っているもの事を経験するが、時にはもっと新しい、もっと高貴な事物をも経験する。その新しくつくられた夢の身体はまたそれで自分自身の覚醒状態、夢の状態及び熟睡状態を持っていて、夢の中の夢という現象もおこる。夢の状態の中で、心はめざめている時と同じ強さで苦痛と快楽とを感じる。夢は多くの出来事を予言し、覚醒時に気づかなかった多くの事物を発見させる。夢は、覚醒時以上に多くの強烈かつ永続的な体験を聖者や修業者達に与えるし事実、聖者達のために、カルマは覚醒状態の中でよりも夢の世界の中で多く果たされるのである。覚醒状態で経験したことの記憶と、覚醒、夢中両状態の中で生じる単なる心の想像とを除外しても尚、夢の状態の中には独特のしかも重要な何ものかが残る。それは、より高い状態の心の働きである。心に関する限り、それはほんとうにより優れた状態である。まだ誰も、このすばらしい夢の現象について納得の行く解りやすい説明をしない。多くの哲学者達は、夢の経験は嘘であるとして簡単に払いのけ、誇らし気に彼等流の思考をおしすすめる。彼等は、夢の世界は覚醒状態の中では否認されるから、そして覚醒の世界の事物はもっと長もちがするし他の人々によっても立証されるから、夢の方が嘘に違いない、と主張する。多分、もし夢が何年間も続いて覚醒状態が数時間しか続かなかったら彼等は覚醒状態が嘘であると主張するのであろう。それだから、時間の感覚だけがこの二つを区別する鍵だということになる。ところが、既に述べたように、時間の観念は不完全な視力に基づく空間の観念から導き出されたものである、それ故、我々は夢を嘘だと主張する充分な根拠を持っていない。もし否定が決め手であるなら、覚醒状態は夢の中では否定され、その両方が深い眠りの中では否定され、それ故凡ゆる状態が嘘だということになりその様に主張する哲学者も少くない、言うまでもなくそれは、彼等の哲学も嘘だという結論に達するのである。
或る哲学者達は、深い睡眠状態の中では心は働かず、それは無知に支配されている、と考える。実は心はもっと完全な姿、即ち世俗性が消え、自我が消え、知性が消え、そしてすべての多様性が消えてそこには浄福のみがある、という姿を成就するのである。心は無意識状態ではない。心は完全なる自覚状態である。そこには自我の感覚はなく、すべての不幸の原因である多様性に通じるところの時間空間因果律の不完全な観念もなく、覚醒状態の世界にみられる善悪真偽等の対立観念もない。覚醒世界の太陽または月もそこでは光を失う。心は、不幸の原因であるこの世界のすべての対立、その他のあらゆる制約の束縛からのがれてただ浄福を楽しむ。深い眠りの中では罪人はもはや罪人でなく、泥棒は泥棒でなく、王は王ではない。一切は浄福である。この点はあとでもう少し説明しよう。ここではただこの二つの輝かしい心の状態がこれらの哲学者達によって歎かわしくも見落されている、という事を指摘すれば充分である。理性は恥じ入り、敗北してこれらの分野から戻って来る。理性は超越的な絶対者を知るには不向きなのである。(つづく)
(三橋剛訳)
訳者註=筆者アイヤー氏はマドラスに住む一弁護士。