不滅の言葉 1964年10号
無執着的行作道
木村日記
家庭も社会も国家も世界も大きな車の如く各人の義務的行作の貢献によって廻転するのである。故に其の中止は混乱の起る原因であり、相違を起す原因である。如何となればそれは宇宙が規定する一部分であるからである。生存は凡ての合作であるから世界にあって一切を助ける可き義務を果さず、個人的自己満足のみを見出し得るものでない。従ってそれに向かって自己を犠牲にせぬ者は全く罪人である。聖雄クリシュナの斯る偉大なる教訓は社会的に政治的に「出離道」によって滅亡せんする印度を救済したのである。又救済されるであろう。高き哲学のみにふける人よりもその義務を尽す事がより以上に神へ接近する事を教訓された印度の武士は、正義の戦に於て敵を殺す事を決して捨てないでけう、正義の戦は神の命による戦いであって、勇敢に戦う人に対して天の門戸は自然に開かれるものである。
修定即ち禅定をする事は決して活動や行作を排斥するものでなく、同時に活動や行作は又修定を排斥するものでもない、世界を只無常変化であるとのみ考えて「山離道」へ進む者は思考深い者でなく、又自我の存在のみを認めて個人主義に走り欲望を充たさんと欲するで又思考勝れた者でない。世の無常変化を考えるは高貴人として避くべからざるものであるが、然し我の不滅であるという思想も思考者の持つべきものである。其処で修定より来る「出離道」思想と社会に対する義務的活動主義の行作とは如何にして調和し能ふや? この点に就て婆伽多讃歌は「無執着の努力」という教訓を与へている。それは福なる行作活動に対しても報酬のみを目的として働くべきものでない事を示した真理である。行作に於て自我を犠牲に供する者はその行作より来る結果に対して無関心でなくてはならぬ一般人は常に欲望に燃えつつ行作に対して或程度の報酬を要求して自我の解脱を失す。