不滅の言葉 1964年9号
「さいわいなるかな、義に飢え渇く者、
その人は飽くことを得ん。」ヴェーダーンタから見た「山上の垂訓」
プラバーヴァナンダ
キリストがわれわれに向かって「飢え渇き求めよ」と教えるその「義」とは何であろうか? それは旧約聖書に現れる多くの章句の中で実際には「救い」と同じ意味に扱われている「正義」である。つまり悪からの救済、神との合一である。われわれが普通、美徳またはよき性質として考えるようなものではない。悪に対抗する相対的善、または不道徳に対立する相対的な美徳ではなく、絶対の義、絶対の善である。キリストが言う正義に対する飢え渇きは神そのものへの渇望である。
われわれの大部分が心底から神を求めてはいない、という事はすでに指摘された。もしみずからを分析すれば、われわれは、神に対する自分達の興味が凡ゆる種類の世俗の事物に対する興味ほど強くはないということを発見するであろう。然し、もし神の真理を知りたいという露ほどの願いでもあれば、それはわれわれをより高きところに導く端緒である。われわれは自分の努力によって出発しなければならない。祈りを、礼拝を、また瞑想を通じて主なる神に想いを集中することにより、主に対する愛を開発するよう努力せねばならぬ。この様な霊的訓練を実行するうちに、神を知りたいというかすかな願いは次第に強くなり、遂に狂おしい程の飢えとなり、燃えるような渇きとなるであろう。
どの様にしたら神をみることができるか、と尋ねる人々に向かって、スリ・ラーマクリシュナはこう答えるのであった「身も心も捧げて神を慕いながら祈り求めなさい。彼をみることができます。暁のばら色の光のあとに太陽が現れるように、熱望のあとに神の姿がつづきます。吝しょく家が自分の富に対する執着と、生れたての赤ん坊に対する母親の執着と、貞淑な妻のその夫に対する執着。もしあなたがこれら三つを併せた力で神を愛するなら、神はあなたに御姿を示されるでしょう。強く慕い求めることが、神をみるための最も確実な方法です」
われわれは自分のすべての思いとすべてのエネルギーとを神に向けることを学ばなければならぬ。一つの巨大な思想の波が心中におごって、霊的目標からわれわれをそらせるすべての欲望や感情をひっさらってしまわなければならない。こうして心がひたすら神に集中した時、われわれは義に飽くことができるのだ。
「どうしたら神を実現する事ができますか、お師匠様?」と尋ねた弟子の話がある。
「おいで、教えて上げよう」と教師が言った。彼は弟子を湖につれて行き、二人は水にとび込んだ。
突然、師は近寄って弟子の頭を水中に押し込んだ数秒後に彼を放して尋ねた「どの様に感じたか?」
「おお、いきがしたくて死にそうでした」と弟子はあえぎながら答えた。
そこで師が言った「あなたがそれ程切実に神を求めたなら、間もなく御姿をみることができるであろう。」