不滅の言葉 1964年9号
ヴィヴェーカーナンダの中心思想(承前)
玉城康四郎
第二のバクティ・ヨーガは信愛のヨーガで絶対者すなわち神を愛すること、或いは絶対者を信頼してそれに一切をまかせ切ることがその根本精神であります、絶対者を信愛してどうにかなる、というのでなく、信愛する事そのことが目的なのであります。ヴィヴェーカーナンダは、この絶対者を説明するのに抽象的絶対者と具体的絶対者とを挙げています。抽象的な絶対者と申しますのはブラフマン、これは唯一絶対の実在、全世界そのもの、ふりかえる事もできない、反省する事もできない自己そのものでありますが、これが真の実在、究極の存在であります。その究極の実在を、我々の心の力で出来る限り高く表現したものが自在神(イーシュヴァラ)で、人格的と申しては語弊がありますけれども、即ち神であります。神というのは人格神とはっきり銘打たれたものではなく、真の実在、究極の宇宙そのものを最も高く表現したもので、これが即ち、具体的絶対者であります。
このような絶対者について、ヴィヴェーカーナンダは種々な性格をのべているのですが、例えば「絶対者というのは永遠なものである、全知全能である慈愛深いものである」あるいは「先生の中の先生である」なかでもこの絶対者の根本的性格は「言葉では言い尽せない程の慈愛である」と申しています。
こうした絶対者に対して、我々は、これを信頼しすべてを捧げる、という事が単なる教えではなく自分の具体的な体験として実現するという、これが信愛のヨーガの根本精神であります。こう言って終えば簡単ですけれども、そこに到達するには様々な道があり、様々な条件が要ります。それらを通って、我々は信愛のヨーガの究極に到るのであります。
その条件として例えば、これを教える先生とこれを受ける弟子の資格が述べられています。先生の資格としては例えば「本当に聖典の精神を知っている人でなければならない。単に言葉を解釈し、文典をあさり、言葉の意味をつないで解釈する先生では駄目であって、本当に聖典の根本精神を知っている人でなくてはならない。」或いは先生になる精神的な動機として「名誉や地位を目的に教えるのではなく、純粋な真理を追求するという動機から教えるのでなければならない。」こう云う風な資格を述べており、それに対して弟子の資格としては「目的に到達しようとする熱望、とにもかくにも信愛の根本精神に到達しようという熱意がなくてはならない。」それからまた「強烈な忍耐心、しかも持続的な忍耐心がなければならない。」
この道は非常に困難であります。ヨーガの道、これは信愛のそれに限らず、これを完成するには長い間の辛抱が必要なのであります。とかくすると我々の精神はよろめき、その意志がにぶる。信仰が薄くなって行く、これが我々の習癖ですから、寝てもさめてもこの道を貫き通そうという強固な意志と忍耐心とがなければならない、というのであります。
それから、信愛のヨーガの予備的な手段として、一つには食事が純粋でなければならない、にんにく、ねぎ等の臭いものはさけた方がよい、という様な事から、悪意を以て御馳走してくれる人の食事はやはり不純である、呪われた人の食事もさければいけないという様な事まで述べています。
或いはまた、我々の感情を統制する必要がある、感情は単にさまよい動いているものであって、何かにつけて動揺したり濁ったりするものであります。意志を強固にして感情を統制する必要があります。
また我々は純潔でなければならない。純潔に必要なのは真実と誠実と憐れみ深いことであります。
次に身体も精神も強健でなければならない。肉体だけでなく、精神も常に強健でなければならない。またあまりはしゃいだり、大声で喋ったり、心がうきうきしたりする様な事はさけた方がよい、と一言っております。
こうした様々の手段を通じて始めて、我々は信愛の純粋世界に入ることができるわけであります。すると信愛というものが大変むずかしい様に思われますけれど、実はこれ程やさしいヨーガの行はない、という事を申しております。信愛というのは、最後には絶対者を信頼しこれに捧げ切ることでありますけれども、実は日常茶飯事に起っている現象でありまして、その日常茶飯の愛の現象を通じてその道を辿って行けば自ずから信愛の最後の境地に到達する事ができる、というのであります。ヴィヴェーカーナンダの挙げている例はあまり適切でないかも知れませんが、例えばこういう事を申しております。一人の男が一人の婦人を愛する、そして暫くの後、他の婦人を愛するようになったとすると、前に愛していた婦人に対する愛は自然に消える。また次の婦人を愛するようになると、前のが消えて次の愛が生ずる。或いはまた、一人の人が自分のふるさとの町を愛する、しかしやがて町よりも大きい県というものを愛する様になると、小さな町に対する愛は自然に消える。また自分の国を愛するようになれば地方、県という小さな愛はおのずから消えて行く。やがてその人が全世界、全人類を愛するようになると、今まで熱狂して居た愛国心というものはおのずから消滅して行く。この様にして最後に自分の心の奥底の心霊つまり絶対者に対する信愛が起って来ると、これ迄のすべての人間的、感覚的愛が悉く消える。遂に愛の究極の世界に到達することができる、というのであります、信愛というものは結局は我々の推理の対象でもなく、また信仰の対象でさえもない、議論することではなくて、むしろ知覚すること、感覚することである、とこういう風に申しております。
この様にして、私どもは、神に対する究極の信愛に生きることになるのであります。神は絶対者であり、全宇宙そのものであります。従って、ここでは
もはやいかなるもの、いかなる事がらといえども神のものでないものはない、或いは、神そのものでないものはないのであります。
最後に第三の智慧のヨーガ、即ちジュニャーナ・ヨーガでありますが、これはカルマ・ヨーガより、またバクティ・ヨーガよりもっと高遠なヨーガであり、従って最も困難なヨーガである、と考えられています。然しこの最も困難なヨーガの中に、実は古代インド以来流れて来ましたインド思想の根本が存在しているのであります。ではその要旨はどこにあるかと言いますと、全世界そのものがただ一つの実在である。それは、我々自身の本性をひっくるめて全世界そのものが絶対の実在なのである、いいかえれば、神のみが唯一絶対である。これに対して、目に映っており、また心に描いている感覚的な事物はすべて幻である、という事に徹底することが智慧のヨーガの根本精神であります。
実は、こういう唯一絶対の実在のなかで、現在我々は色々な事を経験し、色々な事を考え、また様々の行動をしておりますが、そうした経験の内容がすべて夢であり幻であると、そう目覚める時にこの智慧のヨーガが完成するのであります。これは非常に難しい事でありますが、ヴィヴェーカーナンダはこれを不二一元論と申しまして、インド思想の最も根本的な世界観がここに現れているのであります。この不二一元の智慧のヨーガを訓練していくために重要な心構えは、自分自身を信頼する、という事であります。これについてヴィヴェーカーナンダは次の様な重要な言葉をのべています、「あなたは自分自身の偉大なる魂に昼も夜も耳を傾け、その偉大な魂があなたの脈はくの中に、またあなたの血液の一滴に浸透するまで、或いはあなたの肉となり竹となり切るまで、昼も夜もその事をくり返せ。そしてあなたの身体全体を次の様な一つの信念で満たせ、すなわち「私は生もなく死もなく、常に栄光にみちている偉大な魂である」と。
そして彼は、「私はこの様な経験をつづけて来て今も尚続けているが、年を取ればとる程この様な自己信頼はますます強くなって来た」と申しております、この事を彼は一つのたとえで説明しております。たとえと言ってもその内容は大変むずかしい事でありますが、意味をよく伝えていると思います。
「一本の木に二羽の鳥がとまっていると致します。一羽は木の上の方に、他の一羽はその下の方にとまっている。上の方の鳥が絶対者であり神である。下の方にとまっている鳥が私どもの現実の心である。この下の方の鳥は、実は実在しているのではなく、上の方にいる神の、絶対者の幻なのであり影なのであります。その影が、即ち私どもの現実の心であります、上の方の鳥はいつも静かでいつも栄光にみちている。幸福もなく苦痛もなく、常に静まりかえっています。これに対して、下の方の鳥は、たえず木になっている甘い果物であるとか苦い果物などを食べて枝から枝へとび回って、楽しんだり憂うつになったりしているのであります。或る時大変に苦い果物を食べて憂うつになっていました。それは何をたとえているかと言うと、我々がみじめな心になって人生に絶望している状態を指しているのですが、その憂うつになっている鳥がふと上の方をみると、静かに光を放っている鳥の姿が目に映って、あの様な状態になりたい、という希望を起します。しかし、またすぐその希望を忘れて、甘い実を食べたり苦い実を食べたりして、暫くするとやがて憂うつになり、また上を見上げて今度は上の鳥の方へ少し近づいて行く。そして、またうっとりとして、早くあの様な鳥になりたいと思い、懸命になってその鳥の方へ歩み寄って行くのでありますが、やがてまたいつの間にかその事を忘れてあちこち飛び歩き、楽しんだり憂うつになったりします。そして最後に、遂にあきらめをつけると、今度はどうしても上の鳥の方へ歩み寄らなければならないと決心して、そちらの方へ向かって行きます、段々近づいて行くと、上の鳥の放つ光にいつの間にか包まれて、やがて自分の精神も肉体も変ってしまっているという事に気づくのであります。やがていよいよその鳥の方へ近づいて行くと、自分の今までのみじめな思いや或いは楽しんでいた心がとけてしまい、ますます上の鳥の栄光に包まれてきて、遂に我々の自我は全く消滅し上の鳥の中に没入してしまうのであります。そうして今まで自分が楽しんだり憂うつになったりして来たこれまでの全生涯は、一場の夢であったという事に気づくのであります。
以上の様にヴィヴェーカーナンダは、たとえを以てこの智慧のヨーガの完成を説いています。どうして三つのヨーガ、即ち信愛のヨーガ、行為のヨーガ智慧のヨーガを説き、どの道を通っても遂には自己の本性にめざめ、神性そのものの真の宗教の世界によみがえる事ができる、と確信しているのであります。
ヴィヴェーカーナンダは種々な活動を続けてまいりましたけれども、その根本精神は、インドの人々の心をよびさまし、また全世界の人々の精神の根底をゆさぶって、すべての人々が真実の宗教の世界、真実の魂の根本に立ち帰って来るという事を願っているのであります。彼自身その様な世界に生き続け、人々も亦その様な世界に参加して来る事を願って、短いが多彩な生涯を終っているのであります。
私どもはここにヴィヴェーカーナンダの生誕百年を記念して、彼の思想を偲ぶよすがとしたいのでありますが、彼が私どもに教えている一番大事な問題は、かれ自身はヒンズー教徒であり、かれのこうした思想もヒンズー教の教えである、という点であります。これは私が申す迄もなく彼自身が正直に告白しているのであります。それぞれの宗教に属する人は、それぞれの井の中にいる蛙にすぎない。自分の井だけを唯一の世界と思い、唯一の真実の宗教と思っているけれども、それは井の中の蛙である、自分も亦、ヒンズー教という井の中に呼吸している一匹の蛙にすぎない。だからそれぞれの宗教の人は、自分のすみかだけを真実の世界という風に考えないで、他の人々の住んでいる井も亦それぞれ真実の世界であることを互に了解し合って、そして本当に諸宗教の協調を計ろうではないか、というのがかれの精神なのであります。従って私どもも、ただかれの教えをうけとればいいというのではなくて、かれの言うように自分の個性をよく見究め、自分自身の能力をよく観察して一体何が自分に適切な道でなるか、本当に自分の足で歩き得る道は何であるか、という事を熟慮し、その道を発見し、そしてこれを実行して行くという事が、ヴィヴェーカーナンダ百年祭の本当の意義ではないかと思うのであります。以上