不滅の言葉 1964年9号
霊魂と神と宗教(上)
ヴィヴェーカーナンダ
遠い過去の記憶を通して幾百年の声が我々のところへやって来る、ヒマラヤ山脈の聖者たちや森の隠者たちの声が、セム族に伝えられた声が、仏陀やその他の精神的巨人を通して語られた声が、この地球のはじめに人間とともにあった光(人間の行くところには何処にも輝き、彼と共に永遠に生きるところの光)の中に生きるものたちから来る声が、今も尚我々のところへやって来る。この声は山並を流れる小さな渓流に似ている。いま消えたかと思うと次の瞬間にはより強力な流れとなって再び姿を現わし、最後に一つの力強い雄大な大河に合流する。予言者たち及びもろもろの宗派や民族の聖なる男女たちから我々のところへやってくるすべての教えもその力を合流して過去のらっぱの声と共に我々に話しかけてくる。そしてそれがもたらす最初の伝言(メッセージ)は、貴方がたに、そしてすべての宗教に平和あれ、ということである、それは反抗の教えではなく、一つに結ばれた宗教の教えである。
我々はまづこの伝言(メッセージ)を研究してみよう。今世紀の初頭、宗教はその終焉に達したのではないかと懸念されたほどだった。科学的調査の恐ろしい大打撃を受けて古い迷信は陶器の山のように崩壊しつつあった。宗教は単にひとたばの教条と無意味な儀式とにすぎないと思っていた人々は絶望した。彼等は途方に暮れてしまった。あらゆるものが彼等の指の間からすり抜けていった。一時は不可知論と唯物論の大波がその行手をさえぎるすべてのものを一掃するのが避けられないように思われた。自分たちの考えていることを思い切って発表し得ない人々がいた。多くのものが事態は絶望的であり、宗教の主張は永久に敗北してしまったと考えた。しかしやがて事態は逆転して救いの手をさしのべたものが--それは何であったか? 比較宗教学の研究であった。相異る宗教を研究することにより我々は宗教というものがその本質においては同一であることを発見する。私が少年だった頃、この懐疑論が私にとりつき、一時は宗教についてのあらゆるのぞみを放棄せねばならぬように思われた事があった。けれども私にとって幸いなことに、私はキリスト教、マホメット教、仏教及びその他の宗教を研究した。そして私の宗教が教えている基本的な原理が他のあらゆる宗教にも教えられていることを発見したとき、私はどんなに驚いただろう。それはこのように私に訴えた。真理とは何か?、と私は尋ねた、此の世界は真実であるか? その通り。何故であるか? 私がそれを見るからである。我々がいま聞いたばかりの(声楽や器楽の)美しい音は真実であるか? その通り。我々がそれを聞いたからである。人間には肉体と眼と耳があり、そして我々に見ることのできぬ霊性があることを我々は知っている。そして彼はその霊的能力によってこれらの相異る宗教を研究し、それがインドの森やジャングルの中で説かれようとキリスト教国で説かれようと、すべての宗教はその本質においては同一であることを発見することができる。このことのみが宗教は人間の心にとって本質的に必要であることを我々に示すのである。一つの宗教の証明は他のすべての宗教の証明に依存する。例えば私に六本の指があって他の誰にも六本なければそれは異常であると云えよう。これと同じ論法をひとつの宗教のみが真実であり他のすべての宗教は虚偽であるという議論にも適用することができる。ただ一つだけの宗教は、世界でただ一組だけの六本指と同じように不自然であろう。それ故我々は一つの宗教が真実ならば他の宗教毛真実でなければならないことを理解する、本質的でない部分には相異があるが、本質においてはすべて同一である。私の五本指が真実ならばそれは貴方がたの五本指も真実であるということを証明する。人間は何処にいようと、信仰を開発。しなければならない。その宗教的本性を開発しなければならない。
世界のさまざまな宗教を研究することによって私が発見する他のもう一つの事実は、霊魂と神については三つの異る理念の段階があるということである第一に、すべての宗教は、消滅する肉体とは別に肉体のように変化しない或る部分または或るものが一つまり決して死滅しない不変にして永遠なる部分があるということを認める。しかし後に現われた宗教の或るものは、我々の内部には死滅しないあるものがあるけれど、それには始めがあった、と教える。だが、始めのあるものには必然的に終りがなければならない。我々には--我々の本質的な部分には、決して始めがなかった。それ故それには決して終りがないであろう。そして我々すべての上に、この永遠の自然の上に、終りのない他の永遠の存在-神がある。人々は世界の始めについて、人間の始めについて、云々する。しかし始めという言葉は単に周期の始めを意味するにすぎない。それは決して全宇宙の始めを意味するものではない。創造に始めがあり得るというととは不可能である。貴方がたは始めの時というものを想像することは誰もできない、始めがあるものには終りがなければならない。「私が存在しなかったことは決してなかったし、貴方がたもそうであった。今後存在することをやめる者も一人もないであろう」と聖典バガバート・ギータは云っている。創造の始めが云々されるところでは何処でもそれは周期の始めを意味する。貴方がたの肉体は死に逢うだろう。しかし貴方がたの霊魂は決して死に逢わない。
こうした霊魂の概念と共に我々は霊魂の完全に関連して他のもう一つの概念のグループを発見する、霊魂はそれ自身完全である。ヘブライ人の新約聖書は人間は始めに完全だったことを認めている、人間はかれ自身の行為によってかれ自身を不純にした。しかし彼はその古い天性--その純粋なる天性をとり戻さなければならない。或るものはこうしたことを比喩や寓話や象徴の形で語っている、我々がこうした声明を分析し始めるとき、それらの声明はあらゆる人間の霊魂は本来は完全であり、人間はその本来の純粋性をとり戻さねばならぬことを教えているのを発見する。どのようにしてであるか? 神を知ることに依ってである。丁度ヘブライ人の聖書が「なにびとも『子』による以外に神を見ることができない」と述べているのと同じである、このことはどういうことを意味するのであるか? 神を見ることがあらゆる人間の生涯の目的であり目標であるということである。我々が父と一体となる前に、子としての資格が来なければならない。人間がかれ自身の行為によってその純粋性を喪失したことを想起せよ。我々が苦しむとき、それは我々自身の行為の結果である。神はそのために非難されてはならない。これらの概念と密接に関連しているのが、ヨーロッパ人がそれを切断する前には世に広く信じられていた教え-輪廻の教えである。
貴方がたのある人々はこの教えを聞きながらそれを無視してしまったことがあるかも知れない。この輪廻の概念は人間の霊魂の永遠性の教義と平行している。或る一点で終止するものは始めのないものであり得ず、或る一点で始まるものは終りのないものではあり得ない。我々は、人間の霊魂の始まりというような恐ろしく途方もないことを信ずることはできない。輪廻の教えは霊魂の自由を主張する。たとえば絶対的な始まりというようなものがあったと仮定せよ。すると、人間のこの不純性の重荷はすべて神の上にのしかかってくる。世界の罪は無限の慈悲なる父の責任になる! 罪がこのようにしてやってくるなら何故ある人が他のものよりも余計に苦しまなければならないのか? 罪が慈悲の神からやってくるなら何故そのような不公平があるのだろうか?
何故数百万のものが足の下にふみにじられるのだろうか? 何故身に覚えのない人々が餓死するのだろうか? 誰に責任があるのだろうか? もし人々に関係ないならまぎれもなく神に責任がある。それ故(こうした説明よりも)もっと良い説明は、人が自分の不幸に対して責任がある。ということである。私が車輪を動かすならば私はその結果に対して責任がある。そしてもし私が不幸を招くことができるなら、私はそれを停止させることもできるはずだ。ここに我々は自由であるという結論が必然的に生れる、運命というようなものはない。我々を強制するものはなにもない。我々がしたことを我々は元へもどすことができる。
この(輪廻の)教えに関連して提起される一つの議論に対して私は貴方がたの辛抱づよい注意を喚起したい。何故ならこの議論はすこしばかりこみいっているからである。我々は(我々の)すべての知識を経験を通して獲得する。どれが唯一の妻である。我々が経験と呼ぶものは我々の意識の領域にある霊を挙げよう。一人の男がピアノで或る曲をひいている。彼は各々の指を各々の鍵に意識的にのせる。彼は指の運動が一つの習慣になるまで此の過程を繰返す。然る後に彼は個々の鍵に特別の注意を払う必要なしに曲を演ずる。同様に我々は我々自身について、我々の(現在の)性向は我々の過去の意識的な行為の結果であることを見いだす。子供は或る性向を持って生れる。その性向は何処から来るか? 如何なる子供も白紙の心で生れて来ない。ギリシヤやエジプトの古代の哲学者たちは如何なる子供も空虚な心を持って生れては来ないと教えた。一人ひとりがその過去の意識的な行為によってかもしだされた数百の性向を持って生れてくる。子供はそれらを此の世に於いて獲得したのではない。それ故我々は子供がそれらを彼の前主に於いて獲得したにちがいないということを認めざるを得なくなる。最も醜悪な唯物論者でさえこれらの性向を過去の行為の結果であることを認めなければならない。ただ彼等は、それらが遺伝を通して現われる。ということをつけ足す。つまり我々の両親や、祖父母や、曾祖父母がこの遺伝の法則を通って我々のところへやってくるのである。しかし、遺伝のみがこのことを説明するなら霊魂を信ずる必要はなくなる。何故なら勿体がすべてを説明するからである。我々は唯物論や唯心論に関する他の議論や討論に深入りする必要はない。今迄のところ個々の霊魂を信ずるものには進むべき道は明らかである。我々は合理的な結論に達するには自分には前生があったことを認めなければならないことを理解する。これは過去や現代の偉大なる哲学者達や聖者達の信条である。この教えはユダヤ人の間で信じられていた、イエス・キリストはそれを信じていた。彼は聖書の中で「アブラハムの生れる前から私はいるのである」と云っている。そして他の個所には「これは現われたといわれているエリヤである」と書かれている。
さまざまな環境や条件のもとに相異る国々で成長したすべての宗教はその源をアジアに発した。そしてアジア人達はそれらをよく理解している。(しかし)それらが母国を離れたとき(それらは)多くの誤謬と入り交ったのである。キリスト教の最も深遠にして高尚な理念はヨーロッパでは決して理解されなかつた。何故なら聖書の筆者が用いた理念や表象はヨーロッパにありては異質のものだったから、例として説明のためにマドンナの絵を挙げよ。どの芸術家もマドンナを彼自身の先入観に従って描く、私はキリストの最後の晩餐の絵を数百も見てきたが、どの絵もキリストをテーブルの前に坐らせている、しかしキリストは決してテーブルの前には坐らなかった。彼は他の者達と共にあぐらをかいて坐り、一同は一つの鉢を前にしてその中にバン-今日貴方がたが食べているようなバンではない-を浸して食べた。どの民族にとってもなじみのない他民族の習慣を理解することは難しい。ヨーロッパ人達にとって、数百年に渉る(様々な)変化とギリシャ、ローマ及びその他の源泉からの添加物とを伴うユダヤの習慣を理解するのは更にどれほど難しいことだったろう! それを取り囲む多くの物語や神話を通して、人々がイエスの優れた宗教を僅かしか理解することができないのは不思議ではない。彼等がそれを現代的な小売り用の宗教に仕立ててしまったのも不思議ではない。
要点に移ろう。我々はすべての宗教は霊魂の永遠性を説くことを、そして霊魂の光輝はにぶくなってしまったことを、そしてその太古の純粋性は神の知識によって取り戻されねばならないということを、発見する。これらの相異る宗教に於ける神の理念は何であるか? 原始的な神の理念は非常に漠然としていた。最も古い古代の諸民族はさまざまな神-太陽の、大地の、火の、水の神-を持っていた。我々は古代ユダヤ人の間にお互いに狂暴に戦うこのような多くの神々を発見する。それから我々はユダヤ人やバビロニヤ人が崇拝した神-エロヒムを発見する。
我々は次に一つの神が最高の高さに聳えるのを発見する。しかしその考え方は相異る種族によって異っていた、彼等は各自の神が最も偉大な神であると主張した。そして彼等はそのことを戦うことによって証明しようとした。最もよく戦うことができるものがそのことによってその神が最も偉大であることを証明した。それらの民族は多かれ少かれ蛮族であった。しかし徐々により良い理念が古い理念にとって替った。それらのあらゆる古い理念は消えてしまった。或いはがらくた小屋に送りこまれている。それらのあらゆる宗教は数百年かかって育成されたものであった。そのうちのどれ一つも空から降ってきたものではなかった。一つ一つがすこしづつ生みだされねばならなかったのである。次に一神論の理念がやってくる。全智全能である唯一神、宇宙の唯一神に対する信仰がやって来る。この唯一神は宇宙の外にいる神で天に住んでいる。彼はその創作者によって粗雑な概念を与えられている。例えば彼には右側と左側がありその手には鳥がいるというような按排である。しかし、我々は一つのことを、すなわち種族神は永遠に消え去り、宇宙の唯一神-神の神がそれにとって替ったことを発見する。けれども彼はまだ単に宇宙の外にいる神にすぎない。彼は及びがたい存在である。なにものも彼の傍に近づくことはできない。しかしこの理念もまた徐々に変化して、その次の段階では我々は自然に遍在する神を発見する。
新約聖書では「天に在します我らの父」が--人間から切り離されて天に住む神が説かれている。我々は地上に住み神は天に住む。それから更に進むと我々は彼が自然に遍在する神であるという教えを発見する。彼は天における神であるのみならず地上における神でもある、我々はヒンズー哲学においても神の我々に向かっての同じような接近の一段階を見いだす。しかし我々はその段階で止まってしまわない。すなわち不二論という段階があってそこでは人間は、彼がこれまで崇拝してきた神は天における神であるのみならず地上における神でもあるが「私と父は一体である」、ということを悟る。彼は魂の中で彼自身が神であり、ただ神のより低い表現であることを悟る。私のうちに実在するものはすべて神である。神のうちに実在するものはすべて私である。神と人間とのへだたりには斯くして橋がかけられる。かくして我々は神を知ることにより、我々のうちなる神の王国を見いだす方法を発見する。
(つづく)
(山本 穆訳)
全集第一巻三一七頁