不滅の言葉 1964年7号

「さいわいなるかな柔和なる者その人は地を嗣がん」

--ヴェーダーンタから見た「山上の垂訓」--

プラバーヴァナンダ

 無知と迷妄は、霊による生れかわりをとげていない心の特徴である。この無知は、われわれの自我の感覚(自分達が互いに離ればなれであり、神からも離れている、という考え)によって強められ支えられている。もし心が迷妄を脱しようとするなら、エゴーテイズム、自分勝手は克服されなければならない。それ故、さいわいなるかな柔和なる者というわけである。然し、なぜキリストは、その人は地を嗣がんと言うのであろうか、一見理解しにくい様に思われるが、パタンジャリによるヨーガ(神との合一またはこの合一に到る道)の格言の中に、この教えに符合するものがある。「不盗戒をまもること堅固なるものはすべての富の主となる。」「不盗戒」と一は何であるか? それは、われわれが物を所有することができるとか、ものが個人としてのわれわれに専有されることがあり得るとかいう自分本位の迷妄を捨てよ、という戒めである。われわれはこう思うかも知れない。「私達は善良な人間だ。何も盗みはしない--持っているのは全部、働いて稼いだものばかりだ。それらは当然われわれに所属するものである」と。然しほんとうは、一物といえどもわれわれのものはない。一切は神のものである。この宇宙間の何物であれ、もしそれを我が物と見なすなら、われわれは神の持ち物を横領しているのだ。
 それでは柔和とは何であるか? それは「私に」とか「私の」とかいう感覚に縛られず、みずからを神に任せきって生きることである。これは、富や家族や友達を捨ててしまえという事ではない。それらがわれわれの持ち物であるという考えを捨てよという意味である。それらは神のものである。われわれは、自分が神の召使いであり、神からその創造物と持ち物とを委ねられたのであると考えるべきである。この真理を理解して迷妄にもとづく個人的要求を放棄するや否や、われわれは最も真実な意味において、結局一切のものはわれわれのものであるという事を知るのである。
 武器の力で世界の主になろうとする征服者は、悩みと煩わしさと心配以外の何ものをも相続しないであろう。巨万の富を蓄積する吝薔家は、黄金につながれているだけであって、決してそれを所有しているのではない。執着心を捨てた人は、持つことが惹きおこす悩みを知らずに所有物のもたらす利益だけを受けることができる。
 多くの人々は、柔和な者は何事を成就することもできないと信じているので、キリストのこの言葉を好まない。彼等は、人は攻撃的でなければこの人生で幸福を獲得することはできないと考えている。彼等は、自我を放棄せよ、柔和であれ、と言われると一切を失うのではないかと恐れる。然しそれは間違いだ。スワミ・ブラマーナンダの言葉の中に「感覚的な生活をしている人々は、自分達が人生を楽しんでいると考えている。彼等が楽しみについて何を知っているというのか? 浄福の歓喜に満たされた人々だけが、真に人生を楽しむのである」というがある但しこの真理は、議論で証明することはできない。あなた方はみずからそれを経験しなければならないのである。その時はじめて、あなたは納得するであろう。
 もし霊の求道者がまじめにキリストの柔和の教えを実行するなら、彼はその教えがまことに実際的なものであるという事を知るであろう。怒りや恨みが柔しさと愛に征服され得ることを知るであろう。支那の哲人老子はこの真理を次の様に表現した。「世に軟かく弱きものの中で弱きこと水に如くものはない。然るに、固く強きものに打ちかつ力これに優るものはない。軟かきものが固きものにかつ。硬直は死の伴侶、柔軟は生の道づれである。」真実こめて自我を神に捧げ切ることにより、即ち柔和であることにより、われわれはあらゆるものを得るであろうわれわれは地を嗣ぐであろう。
(中井はる訳)

 


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