不滅の言葉 1964年7号
ヴィヴェーカーナンダの中心思想
玉城康四郎
(昭和三十八年十月十日、学士会館において行われた「ヴィヴェーカーナンダ生誕百年記念会」主催の公開講演会にて録音)
一八六三年、ちょうど百年前に近代インドの聖者といわれるヴィヴェーカーナンダが生れて、僅か三十九本の働き盛りの年令で一九〇二年に亡っています。短い生涯ではあったが、かれの凡ゆる方面における活躍は非常に着目すべきものがあります。最近ようやく、この会等の御尽力により、我国に於てもかれの思想が次第に明らかになって来つつあるのは大変喜ばしい事であります。
ヴィヴェーカーナンダの思想を考えて行く上に、ちょっと一言かれの先生であるラーマクリシュナについて申し上げて参りたいと思います。この人は一口に申しますと、宗教体験の非常に深い人でありました。まだもの心が十分つかないうちから宗教的な霊感に打たれる事があったようであります。ベンガールの百姓の家に生まれ、十分な教育を受けることができないで大きくなったのでありますが、成長するにつれてかれの宗教的な天性の力というものが段々強く出てまいりました。例えば友達と神について話をしている時、突然霊感におそわれて自己の存在意識を全く失って神と一つになり、神そのものになる、そういう風な、没我の世界と申しましょうか、こういう宗教体験をくり返して生涯を通した人であります。また夕の祈りをしている時、或いは神像の前に一人静かに冥想している時、突如としてこうした没我の霊感におそわれたのであります。
かれのそういう風な徹底的な宗教体験の世界、いいかえれば宗教そのものの本質を受けついだのがヴィヴェーカーナンダであります。ラーマクリシュナは殆ど教養がなく、極めて単純な表現で宗教の世界を弟子達に語っていたのですが、それに対してヴィヴェーカーナンダは豊かな教養を身につけ、しかも宗教の本性を深く体得してその世界を近代的な表現によって当時の人々にうったえ、並びに百年後の我々に向かっても語り伝える様になったのであります。
ヴィヴェーカーナンダの中心思想は何かということを考えます時に最も重要なことは、教えというものは言葉や文字によって伝えられるものであるけれども、そういう現れたものを通じて形を超えている世界、宗教の真実の世界を味嘗していくことであり
ます。その真理そのもの、宗教そのものというのはすべての表現を超えており離れている。その全く何ものの形も離れ切っている純粋そのものの世界というものを我々自身が体得して行く、我々自身がその内に入って生きて行く--これがとりもなおさず、ヴィヴェーカーナンダの精神が現代世界在を体得しようとする方法です。
この四つの方面を自分自身の傾向のなかで考えてみますと、実は四つとも我々はその性能を持っているものであります。我々は日常行動しており、自分の業務に励んでおります。これはカルマヨーガにつながって参ります。また我々は心の奥底では絶対者にあこがれ絶対者を求めております。これは信愛のヨーガであります。同時にまた我々は自分の本性をみがいて智慧の輝きを生み出そうとも願っているのであります。従ってこれらのヨーガは実は私達一人一人の内に十分そなわっているものであります。然しそれぞれ個性や特徴はいちいちこれを規定してとり上げる事はできないのであって、無数にいろいろの方面に働いているのであります。その働いている精神に即して教えは開れて来る」だから我々の心や性格や気質がどう云う傾向や特徴を持っているかということによく注目して、それに応じて道は開かれて来るわけであります。
そうしますとその教えというのは無数であり、いちいち規定する事はできませんけれども、ヴィヴェーカーナンダはそれを一応四つの方面に分けてこれを示しています。
この四つの方面のうち三つは、インドの最も有名な古典であるバガヴァドギーターの中に説かれているのであります。第一はカルマヨーガであります。カルマは行為であり、我々が行為を通じて究極のさとりに到達しようという方法であります。第二はバクティヨーガ、即ち信愛のヨーガであります。絶対者を信愛するだけで同じ真理に達しようとする方法であります。第三は智慧のヨーガ、我々の智慧をみがき道理を弁えること.によってさとりを得ようとする方法であります。
ヴィヴェーカーナンダは、右の三つに加えてラージヤヨーガを主張しております。これは実際に姿勢を正し呼吸を整え精神を統制して、その様な形式を通じて最高の実在を体得しようとする方法です。
この四つの方面を自分自身の傾向のなかで考えてみますと、実は四つとも我々はその性能を持っているものであります。我々は日常行動しており、自分の業務に励んでおります。これはカルマヨーガにつながって参ります。また我々は心の奥底では絶対者にあこがれ絶対者を求めております。これは信愛のヨーガであります。同時にまた我々は自分の本性をみがいて智慧の輝きを生み出そうとも願っているのであります。従ってこれらのヨーガは実は私達一人一人の内に十分そなわっているものであります。然しそれぞれ個性や特徴がありまして、筋骨逞しく神経のエネルギーが豊かに恵まれていて常に社会の中で大きな働きをしている人もありましょうし、或いはまた情操の方面が非常に豊かで音楽を愛好し、自然に親しみ、文学に心を魅せられる、そういう性格の人もおりましょうし、また冥想的で智慧の輝きに憧れる、という性格の人もあるわけで、従って自分の個性に応じ傾向に随って、或いはカルマヨーガ、或いは信愛のヨーガを進み、ある人は智慧の道をとる。然し各自の道は異りましても、結局行き着くところは同じさとりの世界であります。我々の進むべき道はまだこの他に無数にあるわけでしょうが、ひとまづ右の四つの方面に分けてヴィヴェーカーナンダは示しています。この四つのヨーガがかれの中心思想をなしているのであります。
そこで先づカルマヨーガから少しづつ説明していきたいと思います。カルマという事は先程も申した様に行動、行為、はたらきを意味します。ところがヴィヴェーカーナンダはこれを大変広い意味に解釈しております。例えば人間のあらゆる働きというものがカルマであります。いま私は皆さんに話をしている、これもカルマであります。また私は語りながら私の頭の中ではいろいろなイメージが現れたり消えたりしています。それも亦カルマです。皆さんが私の話をきいておられる、これもカルマです。外を眺めると電卓が走り草が奉り、また山や野には草木が生成発展しています。これもカルマであります。ですからわれわれ人間の精神や身体のありとあらゆる働きから、動物界自然界におけるすべての働きに到る迄、カルマでないものはありません。
それでカルマの世界が尽きて終っているかという。と、実は極めて重要なカルマの意味がもう一つ残っています。これは多分最も大切な意味であります。即ち、我々が何かを考える、行動する、語る、するとその行動、思惟言語の結果が何かの形で我々の人格に痕跡をのこすのであります。良い事をすればよい結果がのこり、悪い事をすれば悪い、結果が痕跡としてのこる。その痕跡が潜勢力として貯えられ、やがて色々な形で発現して来るのであります。その力がやはりカルマであります。我々はこの世に生れる前無限の過去からそうしたカルマをし続けて現在の時点に到っているのでありまして、その潜勢力といつ観点から眺めると、こうして今皆さんの前に現れている私という具体的な人間は、無限の過去からなし続けてきたカルマの結果ということになります。だからその点だけから言えば絶対必然論、絶対宿命論という事になります。然しいわゆる宿命論と根本一的に異なるのは、今の見方は物の一面であって、別の一面ではそういう過去のカルマの結果を全面的に引き受けつつ而かも今、現にカルマをなしているという事であります。そして今なしているカルマが未来の私をひきおこして行く。過去の結果を全面的に引き受けている、という点では絶対必然論ですが、その中にあって現にカルマをなす、という点からは絶対自由であります。行動の主体性は常に私自身に在るのであって、絶対の必然を全面的にひき受けるということに於て始めて、絶対自由の現在のカルマが果たされるのであります。
カルマのこうした法則が宇宙のあらゆる事象を貫くところの鉄則である、とヴィヴェーカーナンダは考えております。そういうカルマの無限の働きへ中で、人々の中から一人のイエス、一人の仏陀が生れるためにはそれ以前に無数の小さなイエス小さな仏陀が人々に向かって真理を語り伝えて来た、そうしたカルマがつみ重なって遂に偉大な一人のイエス、一人の仏陀を生んだ、と言っております。
では我々はこういう世界の中でどうすべきであるか、というのがカルマヨーガの中心であります。それは極めて簡単であります。「我々の行動の結果がいかにあろうとそれには関心を持たず、いま与えられている仕事に全力を尽せ」これがその根本精神であります。大変やさしい様で難しく、難しい様でまた誰にでもできる事であります。
これについてヴィヴェーカーナンダは、次の様な譬え話を以て説明しております。彼は書を持ち出して説明する傾向がありますが、それによってその精神がよくわかると思います。
ある山の中で一人のヨーガの行者が……。(この物語、紙面の都合で省略させていただきます。「生きる秘訣」六八頁をご参照下さい。編者)
これはヴィヴェーカーナンダが一つのエピソードを以てカルマヨーガの精神を伝えようとしたものであります。自分に与えられた仕事をただひたすら果たしていくことによって解脱の境地に達する、というのがその根本精神であります。(九月号につづく)