不滅の言葉 1964年7号

「理性と宗教」上

ヴィヴェーカーナンダ

 ナランダと呼ばれる聖者が真理を学ぶためにサナトクマラと呼ばれる他の聖者のところへ出掛けていった。サナトクマラは彼が今迄なにを学んだかを尋ねた。そこで二人の間に会話が交わされたが、その中でサナトクマラはベーダや天文学や哲学の知識は。すべて二義的なものにすぎない。科学は二義的なものにすぎない、我々にブラフマンを悟らせるところのものが最上にして最高の知識であると述べた。我々はこのような理念をどの宗教にも見いだす。そしてこのことが宗教は最高の知識であるといつも主張してきた理由である。科学の知識はいわば我々の人、生の一部分を網羅するにすぎないが、宗教が我々にもたらす知識はそれが説く真理と同じように永遠にして無限である。不幸にして宗教はこの優越性を主張してこれまでに幾度となく此の世の知識を軽蔑してきた。のみならず此の世の知識の援助を受けて正当化されることを幾たびも拒否してきた。その結果全世界にわたって此の世の知識と宗教的知識の間に戦闘が繰りひろげられてきた。つまり一方は絶対的権威をその指標としながら此の世の知識が主張する如何なる事柄にも耳を傾けることをこばみ、他方は理性という派手な武器をもって宗教が申し立てるあらゆる事柄をことごとく粉砕しようと欲したのである。この闘いはどの国に於いても行われてきた。そして現在も尚行われている。宗教は再三再四敗北を喫し、殆んど絶滅されてしまった。フランス革命の最中に勃発した理性の女神に対する信仰は人類の歴史に現れたそのような現象の最初の兆候ではなかった。それは古代に於いて幾度も繰返えされてきたもののむし返しであって、ただ近代に於いてその規模が更に一段と拡大された見のであった。今日、自然科学は以前より更に一段と装備されているのに反し、宗教はより貧弱になった。あらゆる土台がすべて浸食されてしまった。そして現代人は公には何を云おうとその心の奥底では最早「信ずる」ことが出来ないのを知っている。或る組織された僧侶の団体が信じるというので或る事柄を信じ、ある書物に書かれているというので信じ、人々が信じて貰いたいというので信ずるということは不可能であることを現代人は知っている。勿論、中にはいわゆる人気ある宗教に黙従している者も若干いるにはいるが、我々は彼等が考えることをしないということもよく知っている。信仰に関する彼等の理念は「注意深く考えない」という言葉でよりよく表現できるであろう。この闘いは長く続かないうちに宗教のあらゆる殿堂をことごとく粉砕するにちがいない。

 問題はそのような窮地からの抜け道があるかどうかということである。もっと具体的に云うなら、宗教は他のすべての科学がそれによって自分を正当化してきたところの理性の発見により、自分を正当化すべきであろうか、我々が科学や外部の知識に適用するのと同じような調査方法を宗教にも適用すべきであろうか、ということである。私の考えでは、それはそうされるべきであり、そしてそうされることが早ければ早いほど良いという風にも考えている。もし宗教がそのような調査によって破壊されるなら、それは初めから無用なものであり、価値なき迷信だったのである。そしてそれは早く消滅すればするほど良いのである。私はその破滅はむしろ最も望ましいものであると確信する。不純なものはすべて除去されるであろうことは疑いない。しかし宗教の本質的部分は此の調査の結果、勝利者として姿をはっきりさせるであろう。それは少なくとも物理学や化学の結論の如何なるものとも同じくらい科学的であるのみならず、それは更にもっと偉大なる力を所有するであろう。何故なら物理学や化学は宗教のようにその真理を保証する内面的命令というものを持たないからである。

 宗教に関する合理的調査の効力を否定する人々は私には幾らか自家撞着に落ち入っているように思われる。例えばキリスト教徒は彼の宗教は真実なる唯一の宗教である。何故ならそれは何某にそのように啓示されたからである、と主張する。モハメット教徒も彼の宗教について同じようなことを主張する。
つまり彼の宗教は真実なる唯一の宗教である。何故ならそれは何某にそのように啓示されたからである、と。しかしキリスト教徒はモハメット教徒に対してこう云う。「君の倫理学の或る部分は正しくないように思われる。例えば、マホメット教徒たる僕の友人よ、君の書物は、異教徒は力づくでもマホメット教に改宗してよい。そして彼がマホメット教を受け入れないなら、殺害してもよい、そしてそのような異教徒を殺害したマホメット教徒は誰でもその罪や悪行が過去に於いてどのようなものであっても必ず天国に入るであろう、と述べているからである。」これに対してマホメット教徒はこう反駁するであろう。「僕にとってそうすることは正しいことである。というのは僕の書物はそうすることを命令しているからである。そうしなければ僕が悪いことになるであろう」と。キリスト教徒は「僕の本はそうは云はない」と云う。そこでマホメット教徒はこう答える。「僕には分からない。僕は君の本の権威に、拘束されるものではない。僕の本は異教徒はすべて殺害せよと云っている。君にどうしてどちらが正しく、どちらが間違っているか、分かるだろう。僕の本に書かれていることは確かに正しく、殺害するなど云っている君の本は間違っている。キリスト教徒たる僕の友人よ。君も同じようなことを云う。つまりエホバがユダヤ人に宣言したことを為すのは正しく、禁止したことを為すのは間違いである、と。そのように僕も云う、アラーは僕の本の中で或る種の事は為すべきであり、或る種の事は為してはならない、そしてそれが善悪の基準のすべてであると宣言した、と。」それにも拘わらずキリスト教徒はまだ満足しない。彼は山上の垂訓の道徳とコーランの道徳とを比較することを主張してやまない。しかしどのようにしてこれを決着すべきであるか? 本に依るべきでないことは確かである。何故ならお互いにいがみ合う本が判事になる事は出来ないから。それ故我々はこれらの本よりももっと普遍な或るもの、世間にある凡ての道徳律よりももっと高次な或るもの、相異る民族の霊感の強度を判定し得る或るものがあるということを認めなければならない。我々がそれを大胆にそして明瞭に宣言しようとしまいと我々が此処で理性に訴えることは明らかである。

 さて、そこで此の理性の光は霊感と霊感とを比べて判定することが出来るかどうか、また此の光は、予言者達の間に争いが生じた場合、その規範を維持することが出来るかどうか、そしてまたそれは宗教に関するすべての事柄を理解する力があるだろうか、という問題が生じてくる。もしそれができなければ幾代にも亘って繰返えされてきた書物と予言者との絶望的な争いに何者も終止符を打つことはできない。何故なら、それは凡ての宗教は単なる虚言であり、絶望的に矛盾し大ものであり、道徳律に関する永続的な理念は何も所有していないということを意味するからである。宗教の証明は人間の本性の真理に立脚しており、如何なる書物にも立脚していない。これらの書物は人間の本性の表出であり、結果である。これらの書物は人間が造ったのである。我々は人間を生みだした書物をまだみていない。理性も同様にこの共通の原因、即ち我々がそこに訴えなければならないととろの人間の本性の結果である。然しながら理性だけは此の本性に直結しているので、それは此の本性に忠実に服するかぎり活用されなければならない。私の云う理性とは何を意味するのであるか? それは教育ある男女の誰もが現在したいと欲していること即ち此の世の知識の発見を宗教にも適用するということを意味している。理性的思考の第一原理は個別的なものは一般的なものに依って説明され、一般的なものはそれを更にうわまわる一般的なものによって説明され、そして最後に普遍的なものに至るということである。例えば我々は法則という理念を持つ。何かが起こると、それは斯く斯くしかじかの法則の結果であると信じ、我々は満足する。そしてそれが我々に対する一つの説明である。我々がこの説明で意味することは、我々を困惑させたこの一つの結果は、我々が法則という言葉で命名している出来事の一つの一般的集団の中の特定の一つにすぎないということが証明される、ということである。リンゴが一つ落下したときニュートンは困惑した。併しどのリンゴも落下するのを発見したとき、それは重力であり、彼は満足した。これが人間知識の一つの原理である、私は或る特定の存在、一人の人間を街路にみかける。私は彼を人間というより大きな概念に帰属させる。そして満足する。私は彼をより一般的なものに帰属させることによって人間であるということを知る。このようにして個別的なものは一般的なものに、一般的なものはより一般的なものに、そしてすべてのものは遂に普遍的なものに、即ち我々の所有する最後的概念である最も普遍的なもの、つまり存在という概念に帰属されるのである。存在は最も普遍的な概念である。

 我々はみな人間である。つまり我々の一人一人はいわば人類という一般的概念の或る特定の一部分である。人間も、猫も、そして犬もみな動物である。人とか犬とか猫とかいうこれら特定の例は、動物というより大きくより一般的な概念の一部分である。人間、猫、犬、植物そして樹木はすべて生命という更により大きな一般的概念に帰属する。更にこれらすべてのもの、すべての生きもの、すべての物質は、存在という一つの概念に統一される。何故なら我々はすべてこの存在の中にあるのであるから。以上の説明は、より多くの同類項をみいだすことに、よって個別的なものをより高次の概念に帰属せしめるということを意味するにすぎない。心はいわばそのような一般的概念の無数の分類を蓄積してきた。それはいわばこうしたすべての概念が一個所に集積されている整理棚である。そして我々が何か新しいものを発見すると心は直ちにこの整理棚のどれかにそれと同じ種類のものを探しだそうとする。探しだすと我々はその新しいものを其処にしまい込んで満足する。そしてそのものを知ったというのである。これが知識というものが意味するすべてである。そしてもし我々がそれに類似したものがないのを発見すると、我々は困惑する。そして心の中に既に存在している更に広範囲の分類を発見するまで待たなければならない。従って私が既に指摘したように、知識というものは多かれ少なかれ分類の問題である。しかし分類以外にまだある。知識に関する第二の説明は、或る事柄の説明は外側からではなく内側より来るべきである。ということである。人が石を投げてその石が落下したとき、悪魔がそれを引きずり落したということが嘗ては信じられていた。このように極めで自然な現象である多くの事柄が人々によって奇怪な生きもののせいにされている。幽霊が石を引きずり落したという説明はものそれ自体から由来する説明ではなかった。それは外側からの説明であった。併し重力に関する第二の説明は石の性質の中にあな。つまり説明は内側からなされている。このような傾向は現代の思想界全般に見いだされるであろう。一言にして云えば、科学が意味するところのものは、ものごとの説明はそのもの自身の性質にあり、外部の生物または存在はこの宇宙でおこっている事柄を説明するのに必要ではない、ということである。化学者はその研究している現象を説明するのに悪魔とか幽霊とか或いはこれに類した如何なるものも決して必要としない。物理学者もその熟知している事柄を説明するのにこれらの如何なるものも決して必要としない。他の科学者たちも同様である。そしてこれが私が宗教に適用しようと思う科学の特徴の一つである。宗教は此の点に欠けており、それが宗教の崩壊している理由である。あらゆる科学はその説明を内側から、つまり物事の性質そのものから求める。宗教はそのような説明を供給することが出来ない。宇宙から完全に分離した人格神について。大昔から主張されて来ている古い学説がある。この学説を支持する議論--宇宙から完全に分離した人格神、その意志から宇宙を創造し、各宗教によって宇宙の支配者とみなされている超宇宙神を持つことがどんなに必要かという議論--は、これまでに再三再四繰返えされてきた。これらの議論とは別に、我々は全能の神が慈悲の神として崇められているのを見いだす。しかるに世界には依然として不平等が彌漫している。こうした事柄は哲学者をすこしも心配さはせないが、彼は云う。核心の掴み方が間違っていた、それは外側からの説明であって内側からの説明ではなかった、と。宇宙の原因は何であるか? 宇宙の外側にある或るもの、此の宇宙を動かしている或る存在であるとは! こうした外側からの説明は石の落下現象を説明するのに不充分であったのと同じように宗教を説明するには不充分であった。そして宗教はこれよりもすぐれた説明を与えることが出来ない故に崩壊しているのである。

 これに関連して、あらゆる事柄の説明はそのものの内側から来るという同じ原理の表現である他のもう一つの考え方は進化の法則である。進化の全体の意味は単にものの性質は再生されるということ、結果は他の様式に変化した原因にすぎないということ、結果が有するあらゆる可能性は原因の裡に内在していたということ、そして創造はすべて進化にすぎず、創造ではない、ということである。換言すれば、あらゆる結果はただ環境によってのみ変化されたにすぎないところのそれに先行する原因の再生であり、斯くしてそれは全宇宙内に行われており、我々はこれらの変化の原因を宇宙の外側に求める必要はなく、それは宇宙の内側にある、ということである。外側に如何なる原因を求めるととも不必要である。このことが亦宗教を破壊しているのである、私が宗教を破壊しているというのは、超宇宙神という巨人にして他のなにものでもないものの理念にしがみついて来た宗教は最早自立することができない、ということである。それはいわば引き倒されてしまったのである。

 これら二つの原理を充足する宗教というものはあり得るだろうか? 私はあり得ると思う。第一に我々は一般化の原理を充足しなければならない事を見て来た。一般化の原理は進化の原理と共に充足さるべきであるし我々はあらゆる概念の中で最も普遍的なものであるばかりでなく、それから他のすべてのものが演訳される終局的概念に達しなければならない。それは最低次の結果と同性質のものであろう。つまり、原因、最高次の原因、最終的な原因、第一原因は、進化の一連、却ちそれの結果の中の最も低次の。そして最も遠方のものと同性質のものでなければならない。ベーダーンタのブラフマンは此の条件を充足する。何故ならブラフマンは我々の達し得る最終の総合であるから、それは属性を持たず、存在、知識及び至福-絶対そのものである。存在は人間の心が達し得る最終的概念そのものであることを我々はみてきた。知識とは我々が所有するような知識を意味するのではなく、進化の過程に於いて人間或いは動物の中にそれ自身を知識として表現している知識の本質である。この知識の本質というのは、私にもしこういうことか許されるなら、意識をさえ超越した最終的事実を意味する。これが知識というものの意味であり、我々が宇宙の中に事物の本質的統一体としてみるものである。私の考えでは、もし現代の科学が再三再四何かを証明しているなら、それは我々は精神的、霊的及び肉体的に一体であるということである。我々は肉体的にさえ異っているということは間違えである。例えば議論の便宜上我々が唯物論者であると仮定した場合、我々は此の全宇宙は物質の海であり貴方がたや私はその中の小さな渦巻の様なものである、という決論に達しなければならないだろう。物質の集団はそれぞれの渦巻の中に流入しては渦巻の形態をとり、やがて再び物質として流出している。私の身体にある物質は数年前には貴方がたの身体にあったかも知れない。或いは太陽の中に、或いは植物の中に、物質としてあったかも知れない。このようにしてそれは絶えず流動状態にある。私の身体とか貴方がたの身体とは何を意味するか身体は一つだ、ということである。思想についても同様である。それは一つの思想の海である。そこでは私の心も貴方がたの心も渦巻をなす一つの無限の思想の集団である。貴方がたは今どのようにして私の思想が貴方がたの思想に、貴方がたの思想が私の思想に流入しているか、その結果を目撃しては居ませんか? 我々の生命の全体は一つである。我々は思想に於いてさえも一つである。更により高次の総合へ来ると、物質と思想との本質はそれらに潜在する霊性である。これがすべてのものがそこから現われたところの統一体であり、そしてそれは本来一つでなければならない。我々は絶対的に一つである。我々は肉体的に一つである。我々は精神的に一つである。そしてもし我々が霊というものをいささかでも信ずるなら、我々は霊としても一つであることは云うをまたない。この唯一性は現代の科学に依って日々証明されている一つの事実である。高慢な人間にこのように言われる。君は其処に這っている小さな虫けらと同じである。君は自分をそれとは非常に異った或るものと考えてはならない。君はそれと同一である。君は前世に於いてそうだった。そしてその虫けらが君がかくまで誇りにしている此の人間的状態に這い上ったのである、と。此の雄大なる教え、われわれを存在する凡てのものと一体にする事物の一体性は、われわれが学ぶべき偉大なる課業である。というのは、我々の多くはより高次の存在と同一にされることを喜ぶが、誰もより低次の存在と同一にされることを欲しないからである。人間の無智というものは甚だしいもので、誰かの先祖たちが社会で尊敬されていたものであれば、たとえ彼等が野蛮であっても、泥棒であっても、泥棒男爵であってさえも、誰でもが自分の家系を彼等にまで遡らせようとする。しかし我々の先祖たちの中に、実直だが貧乏な男たちを見つけだすと、誰も自分の家系を彼等にまで遡らせようとはしない。しかし今や我々の眼から鱗がはげ落ち、真理がますますそれ自身を顕現し始めている。これは宗教にとって大きな収穫である。これがまさに私がいま貴方がたに講演しているアドヴァイタ(不二一元論)の教えである。「自我」は此の宇宙の本質である。あらゆる霊魂の本質である。彼は貴方がた自身の生命の本質である。否、「汝はそれである」。貴方がたは此の宇宙と一体である。たとえ髪の毛一本の幅だけでも他のもめと相異していると云う者は忽ち不幸になる。幸福は此の唯一性を知るものに、此の宇宙と一体であることを知る者に属する。
(つづく)(山本穆訳)
(全集第一巻三六六頁)

  


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