不滅の言葉 1964年5・6号
生と死と運命
サムサーラ(再生)カルマの教えニルヴェーダーナンダ
ヒンズー語の辞典の中のサムサーラという言葉は、非常に深遠な意味をもっている。我々はみなこの言葉には慣れているが、その言葉のもつ精確な意味を殆んど知っていない。ただ漠然とこれを現世または現世の生活の意味に用いている。これはサンスクリット語の過ぎ去りつつあるという意味のシュリからきており、その接頭語サムは激しいという意味である。さてヒンズーの教典によれば、我々はこの世界とより精妙な、より高い世界とを幾度も幾度も通り過ぎて行かなければならない。この魂がくり返しくり返し通り過ぎて行くこと(サムスリチ)がサムサーラという言葉のもつ本来の意味である。
ヒンズー教のすべてはこのサムサーラの考え方に立脚している。それはヒンズー教の人生観全体への手がかりである。なぜ我々は死んだ肉親に供物をそなえるのだろうか。それは我々が、彼等が精妙ないづれかの世界で、或いはこの地上で他の肉体の中に生きていると信じているからである。何故ヒンズー教徒の婦人は夫の死後寡婦の誓いを立てるのだろうか。それは彼女が死んだ夫に貞淑でさえあれば死後彼に再会できると信じているからである。ヒンズー教徒は道徳的行為(ブンヤ)を行うが、それはその事によって死後大きな楽しみがえられると信じているからである。彼等は死後の恐ろしい苦しみをさけるために、邪悪な行い(パーパ)を出来るかぎり避けようと努める。このような、また他の多くの信仰や儀式はヒンズー教の再生の観念に由来している。この考えは単なるつくりごとではない。それはヒンズーの予言者達が認識した事実に基づいている。
そのように、この再生の観念はヒンズー教徒の人生観の中で非常に重要な地位を占めている。それ故、我々はヒンズー教の研究を進める前にまずこの考え方を明確に把握する必要がある。
我々は死後といえども存在しなくなることはない。我々はみなこの世に誕生する前に無数の生を経てきている。『ギーター』(ヒンズーの聖典)の中で、主シュリ・クリシュナはアルジュナに向かって言っている、「おお、アルジュナよ、あなたも私もこの世に誕生する前に多くの生を経てきた。ただ、あなたは何も知らないが、私は前主のすべてを知っている。」彼はまた言っている、「生は必ず死に至り、死はまた必ず生に至る。」実に人はみな内部神性を完全に実現するまでは幾度も幾度もこの世に生まれてくるのである。その度毎に人は新たな肉体を持って生まれてくるが、それはしばらくの間だけでやがて脱ぎすてられ死ぬのである。然しその肉体に宿っているものは永遠に新しく存続する。それは朽ちて無用となった肉体を去り、しばらくの間、もっと精妙な別の世界に移るにすぎない。その後で再びこの世に帰り、新しい肉体に生れかわるのである。このより精妙な別の世界は強度の楽しみ或いは苦痛の世界を意味する。それ故その世界はボーガブーミ(思いの国)と呼ばれる。すべての人が自己を完成するために生まれて来なければならないのはこの世である。それ故この世はカルマブーミ(活動の世界)と呼ばれる。人間は自己を完成するまではくり返しくり返し生まれ替わらなければならない。その時の至るまでは人間は束縛(バッダー)されている。幾度も幾度もこの世界(サムサーラ)に生まれ替わらなければならないことそれ自体が束縛なのである。
生まれ替わる度に我々は新しい肉体を得る。この肉体は物質で出来ており、ストゥーラ・シャリラ(物質的な肉体)と呼ばれる。この肉体は食物として摂取された物質から出来ているので、アナマヤ・コーシャ(食物からつくられた被い)とも呼ばれる。この物質的な肉体は我々の一番外側の披いであり、人は家の中に住むの、と同じように、この肉体の中に住んでいる。住居が荒廃すれば人はその家を去り、新しい家を建てて住む。そのように、この物質的な肉体が使えなくなった時、人はその肉体をすてて新しい肉体をつくり上げる。『ギーター』では肉体は布片にたとえられている。衣服が古くなって使えなくなると、人はそれをすてて新しい
衣服を手に入れる。そのように肉体が使用できなくなると、人はそこからぬけ出て新しい肉体に再生する。この老朽化し、使えなくなった肉体をすてることがわれわれの死と呼んでいるものであり、新しい肉体の中に再び現れることが再生といわれるものである。このように死と再生によってわれわれは使い古された肉体を新しい肉体にかえるにすぎない。われわれはみな現在の生を受けるまでに無数の生を経てきている。この真理を知っている人々にとっては、恐れたり悲しみ欺いたりすることは何も存在しない。この物質的な肉体の内側にはより精妙でより強靱な体があり、その中にわれわれは住んでいる。これはスクシュマ・シャリラ、精妙な体と呼ばれる。病気も老齢も死もこの精妙な体に触れることはできない。それは過去の無数の誕生において、われわれの常住不変の道づれであった。
この精妙な体は十七の部分からなっている。即ちブッディ(知性)マナス(心)五つのプラーナ(活力)及び十の感覚雰宮に対応する十のより精妙な器官である。物質的な肉体を形づくり、それを活動せしめるのはこの精妙な体である。このような精妙な体を通してわれわれは感じ、考え、欲求するのである。実にこの精妙な体がわれわれの存在の活動する部分なのである。
しかしこの精妙な体もそれ自身によって活動するのではない。それはこの物質的な肉体に活力を与え、活動せしめるものではあるが、物質的な肉体と同様に生気のないものである。それは他の何ものかによって生気を与えられ、活動せしめられている。この何ものかが人間の真の「自我」である。これが彼のアートマン(霊、魂)である。
アートマンはすべての生、活動、知覚、意識(チャイタニヤ)のもとである。月が太陽に照らされてこの地上を照らすように、アートマンから生命を与えられてこの精妙な体が物質的な肉体に生命を与えるのである。このように精妙な体はアートマンによって生命を与えられて物質的な肉体をそれが使える間は働かせるが、やがてそれをすてて新しい肉体をつくり上げる。このようにしてわれわれは誕生から誕生へと進みゆくのである。
カルマの教え
しかし人間は何故幾度も幾度も生まれなけれなならないのだろうか? この点に関してはヒンズーの教典は極めてはっきりしている。人間の内部にある神性は心が一点の曇りもなく清められたときはじめて姿を現す。しかしそのためには長い長い時間を必要とする。一個の物質的な肉体は長くはつづかない。われわれの生涯はこの仕事をなしとげるためにはあまりに短い。これがこの仕事をなしとげるまでに無数の誕生を経なければならない理由である。
この世の中にはわれわれの感覚を喜ばせたり不快を感じさせたりするものがたくさんある。そこでわれわれはあるものを得たいと欲し、他のものを避けたいと欲する。われわれの心はそのような欲望にいつも充されている。これらの欲望を充すためにわれわれは努力する。われわれの人生はそのような努力から成り立っている。しかしその欲望は決してつかい果たしてなくなるようなことはない。それらは益々増大しつづける。われわれが一つの欲望を充すと、快楽を求める感覚の渇望はますます激しくなる。そして多くの新しい欲望の発生を促す。こうしてわれわれは終なき欲望を充すために働きつづける。
さて、こうしてわれわれの行うことはすべてその結果として快楽か苦痛かの何れかをますことは間違いない。いかなる行為(カルマ)も早かれ晩かれ結果(カルマパーラ)を生むことは必定である。善行或いは価値ある行為(シュバカルマ)はその結果として喜びをまし、悪行(アシュバカルマ)は苦痛をます。人間は一般に善悪両方の欲望を持つ。その欲望が価値のある行いと悪い行いの両方を行わせ、その行為の結果(カルマ・パーラ)として喜びと苦しみを積み重ねてゆくのである。
それぞれの生涯においてわれわれは過去のカルマ・パーラの一部分を使い果たしているにすぎない。この一部分をプラーラブダーという。未来の生において経験する残りの部分はサムチタとよばれる。われわれの現在の行いの結果はクリヤマーナとして貯えられる。そこでわれわれは自らの行いの結果を刈りとるために誕生から誕生へと遍歴して行かなければならない。
ある子供は盲目として生まれる。その盲目はたしかに何らかの肉体的原因によっている。けれども彼の盲目による精神的な苦しみはヒンズーの教典によれば、彼の前主のいずれかにおいて行ったある特殊の要事に基因している。われわれが最善の努力をつくしたにもかかわらず、その努力が挫折するとわれわれは自分の運命(アドリシュタ)を呪うのが普通である。また努力もせずに期していなかった成功をかち得るとその幸運(アドリシュタ)を喜んで歓迎する。しかしこの日には見えないアドリシュタ(幸運・不運)はわれわれ自身の過去の行動の結果(カルマパーラ)以外の何物でもない。われわれはそれを呪うことも喜ぶこともない。それはわれわれの過去の行いのまちがいのない結果として当然の道筋をたどっているのである。過去の生において蓄積した行い(カルマ)によってもたらされる快楽や苦痛をさけることはできない。われわれがそれをつくり出したのである。われわれはベッドをつくった。そこにわれわれは横たわらなければならない。われわれは自分の悲しみや煩いの故をもって他の何者をも他の何人をも呪う権利を持たない。(三橋剛訳)