不滅の言葉 1964年5・6号

山上の垂訓(1)
プラバーヴァナンダ

『山上の垂訓』に寄せて

 キリストの教えの精髄である「山上の垂訓」に関する書物はキリスト教界では珍しいものではないであろう。然しそれがヴェーダーンタとシュリ・ラーマクリシュナの福音の信奉者であるヒンズーの一僧侶によって書かれ、しかもその書物が垂訓を説明しているばかりでなく、自分の宗教に属する聖典でもあるかのようにそれを誉めたたえているのはたしかに普通のことではない。
 見事なその解釈は、スワミ・プラバーヴァナンダによって、多くの西洋人達による読み方がそうであるように到達し難い遥かなる理想としてではなく、毎回の生活と行為の実践可能な計画として呈示されている。スワミによるこの聖典の解釈は実に明快であり、そのおかげで多くのキリスト教徒達は彼等の師の教えを理解するためにいままでに彼等が知っていたどの方法よりももっと簡単でもっと直接的な方法を見出すに違いない。
 ヴェーダーンタは人間の本性は神聖であり、人生の唯一の真の目的はその神性を発揮し実現することであると説く。われわれ西洋人にとって垂訓は完全に到るための教訓、即ち実行不可能なる理想である。神の実現を唯一の目的とするヴェーダーンティスト達にとってはこれは少しもふしぎなものではない。プラバーヴァナンダ師が属しているラーマクリシュナ僧団の僧達は、毎日の生活の中で完全に到る道を辿っている。毎日彼らは瞑想の中で、個我の意識を超えることを、他を裁かぬことを、そしてすべての人に対する愛と同情とを獲得することを祈る。ヴェーダーンティストも自分の心から一切の憎しみ、恨みの念を拭い去るまで瞑想ばかりしているわけには行かぬ。たとえば「ラーマクリシュナの福音」とか、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの著書とか、あの評価できぬ程美しいプラバーヴァナンダ師の小冊子「永遠の伴侶」とかいうようなラーマクリシュナ僧団関係の文書は、われわれの聖書の中の山上の垂訓及びその他の部分と同様の教えによってみたされている。
 「出エジプト記」の中には、モーゼがシナイ山から降りた時「モーゼはその面の己がエホバともの言いしによりて光を放つを知らざりき」と書いてある。プラバーヴァナンダ師はこの書の中で、シュリ・ラーマクリシュナの直弟子であった彼の先輩の一人がちょうどそのように変貌したのを見たことを述べている。彼の全身から光が放射した。プラバーヴァナンダ師がそれを見たばかりでなく、その事が起った寺院の境内の小径に居合わせた大勢の人々がおどろいて、この叡知に照らされた聖者が完全に神の思いに没入しながら歩いて行くのに道をゆずったという。
 この種の現象は数百年数千年前の聖典の中にだけとじ込められているのではない。それ等は現代でも起こり得るし、また起ってもいる。宗教は人間の生活の中に途絶えることのない一つの事実である。山上の垂訓のおきては今日でも生きることができるし、また生きてもいる。それはそれを受けとり信ずる精神にかかっている。プラバーヴァナンダ師と彼の同僚のヴェーダーンティスト達はそれをそのまま受けとり信ずる。ヴェーダーンタの講義をききに来るキリスト教の様々の宗派の人達がしばしば自分の宗教が突然により輝かしい光に充ちたものにみえ、それに対する自分の解釈がより透徹したものとなっていることを発見するのは多分そのためであろう。
 ヴェーダーンタは簡単に言えば、他の宗教にとって代わるために西洋に来たのではなく、求めつつある人にもっと実体のある霊性を示すために来たのである。その目的は改宗させる二とではなく人間の内部に潜む神性を実現するのを助けることである。それは宗教哲学の中の量も実践的なものであると主張するのはもっともなことである。そして、この山上の垂訓の非常に精微で透徹した説明の中にプラバーヴァナンダ師がうまく伝えているのは、この実践性である。(ヘンリー・ジェイムズ・フナァマソ)

    緒 言

 この書物は、私が山上の垂訓について行った講義を改訂し更に拡張したものである。私にとって山上の垂訓はキリストの福音の精髄である。記者がキリストの言葉を順に読むことができて彼の扱えの統一性がはっきり判るように、原文を省略することなく定められた配列に従って掲載した。
 私はキリスト教徒ではない、神学者ではない、偉大な神学者達の書いた聖書の註釈を読んだこともない。私は聖書を、私自身の宗教ヴェーダーンタの聖典を学ぶのと同じ態度で学んだ。インドの聖典の最古のものであるヴェーダから発展したヴェーダーンタは、すべての宗教は人を神の実現という同一のゴールに導くものであるから正しい、と教える。それ故、私の宗教は、すべての偉大な予言者、霊の教師及び他宗教によって崇められている神の様々の姿を、内在する唯一の真理の様々の表現と考えて容認し、かつ敬うのである。
 若い僧侶として私は、私の属する僧団の創立者シュリ・ラーマクリシュナの多くの直弟子達と密接な関係を結びながら暮らした。これ等の聖者達は神の意識の中に生き、ヴェーダーンタでサマーディ(三昧)とよばれる神人合一の、窮極のそして至福の状態に到達する方法を私達に教えた。私がこれ等の聖者達の中に見たものを通じて、また彼等の足下に坐して学んだあらゆるものを通じて、私はキリストの教えを理解しようと努めた。山上の垂訓の真理の説明を助けるために私がしばしばシュリ・ラーマクリシュナとその弟子達の言葉を引用するのはそのためである。これ等シュリ・ラーマクリシュナの弟子達の一人が我が師スワミ・ブラマーナンダであった。彼は聖書の学徒ではなかったけれど自身の霊的経験によってキリストと同じ様な方法で教え、しばしばキリストと殆んど同じ言葉を使った。我が師はかつてキリストの姿を霊視したことがあり、毎年イエスに特別の礼拝を捧げてクリスマスを祝った。これは、ラーマクリシュナ僧団に属するすべての僧院で今日に到るまで守られてきている一つの習慣である。これ等の祭典には、果物やパンやケーキが我々ヒンズーの風習に従って捧げられる。しばしばキリストについての講演がなされ、または降誕の物語や山上の垂訓が朗読されるのである。
 私がはじめて出席したこれ等のクリスマス祝典の一つは、クリスマスが私に対して持つ意味と重大な関係がある。それは一九一四年、我々の僧団の本部のあるカルカッタに近いベルルの僧院で行われた。私はその数日前に僧院に入ったのである。クリスマスイーヴに我々は、マドンナと幼児の絵の置かれた祭壇の前に集まった。古参の僧の一人が花、香及び食物を捧げて礼拝を行った。大勢のシュリ・ラーマクリシュナの弟子達が儀式に加わり、僧団の長であった我が師もその一人であった。一同が沈黙して坐っている時、彼が言った「内在のキリストを瞑想し、彼の生ける実在を心に感ぜよ」と。強烈な霊的雰囲気がホールを満たした。次々の心は高揚し、我々は自分達が別の意識界につれて行かれるのを感じた。はじめて私はキリストが、クリシュナ、仏陀及びその他の我々が尊敬する偉大な霊的教師達と同様に我々自身のものであるということを感じた、ヒンズー教徒として私は子供の頃から、すべての宗教的理想を敬うことを、すべての異なれる信仰の中に同一の神の教示を認めることを教えられて来た。こうして神の一表現としてのキリストをよそのものと感じたことは一度もなかった。然し、生きた人格として彼にふれるためには、あの、忘れ難いクリスマスイーヴの礼拝で得た実体的な意識の高揚が必要だったのである。
 私の僧団とキリストとの密接な霊的結合は、創立者シュリ・ラーマクリシュナの時に始まった。彼は存命中にすでに神として崇められ、一八八六年になくなって以来インドでは神の化身としてますますはっきりと認められてきている。ヴェーダーンタの歴史にのこる多くの偉大な聖者や霊的指導者達の中で、彼は他の誰にもましてつよく宗教の普遍性と調和を説いた人である。彼はヒンズー教内の数多の分派の規定する訓練を受けたばかりでなく、回教やキリスト教の修行をも行った。その何れの途を通じても彼は神の最高実現をとげ、直接経験の権威をもって「数多の宗教、同一の目的に達するための数多の道」を宣言することができた。
 シュリ・ラーマクリシュナがキリスト教に関係したのは一八七四年頃からであった。ダクシネースワル寺院の境内にすむ師をいつも訪ねていた一信者が彼にベンガル語で聖書の説明をしてきかせた。ある日彼は、他の信者の家の客間でマドンナと幼児キリストの絵をみた。没我の状態でこの絵を注視するうちに彼はこの絵が突然生きて光を放つのを見た。キリストに対する無上の愛が彼の心を占め、信者達がイエスの前で香をたき、ろうそくをもやすキリスト教会の幻が彼の前に現れた。三日間彼はこの経験に魅せられたままですごした。四日目にダクシネースワルの木立の中を歩いている時、神々しい容貌の持ち主が彼の顔をひたと見すえながら近よって来るのを見た。彼の心の最深部から「これが人類の贖罪のために自分の心臓から血を注いだイエスだ。愛の化身キリスト以外の何びとでもない」という実感がわき起こった。「人の子」はやがてシュリ・ラーマクリシュナを抱擁し、そして彼の中に入った。シュリ・ラーマクリシュナはサマーディ、即ち超意識の状態に入った。このようにして彼はキリストの神性を確信するに到ったのである。
 シュリ・ラーマクリシュナの没後間もなくある冬の夜、彼の若い弟子達の中の九名の者が、以後僧として神に仕えるという正式の出家の誓いをするために聖火の前に集まった。彼等の指導者スワミ・ヴィヴェーカーナンダは兄弟達にイエスの話をしてきかせ、彼等自身がキリストになることを、自分を世の贖罪のために捧げることを、そしてイエスがしたように自分を否定することを求めた。後に僧達はこの夜が彼等の誓いにとってまことに率先のよいクリスマスイーヴであったことを発見した。
 このように、我々の僧団の発祥の頃からキリストは最も偉大な霊の教師の一人として敬われて来た。僧達の多くが彼の教えとヒンドゥー聖者達の教えとの間に根本的な一致を認めて、霊的真理の説明のためにキリストの言葉を引用する。クリシュナや仏陀のようにキリストも単なる道徳的または社会的福音は説かず、絶対に妥協をまじえぬ霊的福音のみを説いた。波は、神は見ることができる、人は神の完全に到達することができると言明した。人がこの存在の最高目的を成就するために、彼は世俗性を放棄することと神を想うことと神の愛によって心を純化することを教えた。これ等の単純かつ高遠な真理は本書の中にくり返し述べられ、あとで説明するように山上の垂訓の一貫したテーマとなっている。

    山上の垂訓

 山上の垂訓を与えるべく時期が到来する前に、イエスはガリラヤの地をくまなくめぐって説法をした。「その噂さあまねくシリヤに広まり」と聖マタイが言ったように、非凡な教師の噂さがひろまって群集は彼を見ようとして集まった。東洋では幾千年前も今も変わりなく、神の人が現れたと聞くと人々がこのように集まるのである。「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの彼方より大いなる群衆きたり従えり」イエスは群衆に向かって彼等が理解し得るような形で道を説いた。彼の最高の教えである「垂訓」は霊的に準備のできている弟子達のために保留したのである。彼は、より低いものを求めている人々によって煩わされよう、弟子達を或る丘の中腹につれて行った。

 イエス群衆を見て、山に登り坐し給えば、弟子達御許にきたる。イエス口を開き、教えて言いたまう。………
すべての霊的指導者はそれが神の化身であれ一個の悟道の人であれ必ず二つの教えを用意している��一つは大衆の為のもの、他は彼の弟子達のためのものである。象は二様の歯を持つ。外部の困難から身を護るための牙と食物をかむための歯と。霊の教師は、いわば象の牙にあたる一般向きの教訓という説法を用意している。宗教の深い真理は親密な弟子たちだけに示す。なぜなら、宗教は実際に伝達されるべき何ものかであるからだ。真に悟りを得た教師は内在の神の意識を開発する力を我々に伝達することができる。然し、種子が蒔かれる前に畑は肥え、土は耕されていたければならない。
 最も多数の人々から尊敬された近代インドの聖者シュリ・ラーマクリシュナの許に日曜毎に群衆が訪れると、彼は彼等のためになるような一般的な形で説教をした。然し彼の親しい弟子達が集まった時には、私がその弟子達の一人からきいた所によると、彼等に向かって説く聖なる真理を洩れ聞かれるおそれのない事を確かめるのが常であったという。真理そのものが秘密なのではない。それ等は記録され、誰でも読める事になっている。彼が弟子達に与えたのは言葉の教え以上のものであった。神聖なムードの中で、彼等の意識は高揚されたのである。
 キリストが同じ方法で教えた。彼は山上の垂訓を大衆に与えず、心に受ける用意のできている彼の弟子達に与えたのである。大祭はまだ神の真理を理解することができない。私の師スワミ・ブラマーナンダは言った「何人の人々が用意ができているだろうか? そうだ、大勢の人達がやって来る。我々は彼等に与える宝を持っている。それなのに彼等はじゃがいもとねぎとなすびしか欲しがらないのだ!」
 我々の誰でもが心の底から宝を欲し、真理を求めるなら、山上の垂訓の中で与えられている教えから恵みを受けて一人の弟子となることができる。この垂訓の研究の中で理解されることと思うが、キリストは弟子となるために我々が備えなければならない条件について語っている。彼は、我々の内部に神の真理が十分に啓示されるように心を潔めるためにはどのようにすればよいかを教えているのである。

 幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。

 八つの教えの第一においてキリストは、霊の師が示すものを受け入れ得るために弟子たるものが具えなければならない最も大切な特質について語る。弟子は心が貧しくなければならない。言いかえれば謙虚でなければならない。もし人が学問、富、美貌または血統に誇りを持ち、或いは、霊的生活とはいかなるものか、そして自分はどのように教えらるべきであるかというようなことについて先入見を持っていると、彼の心はより高い教えを受けることができない。ヒンズーの福音書であるバガヴァド・ギーターにこう書いてある「真理を実現せるこれ等の魂は、もし汝が彼等の前にひれ伏し、彼等に尋ね、弟子として彼等に仕えるなら、ブラフマンの知識を汝に教えるであろう」と。
 あるインドの説話によると、一人の男が師の許を訪ねて弟子にしてくれと頼んだ。師は霊的洞察によって彼がまだ弟子となる資格を具えていないことを看破した。そこで彼は尋ねた「弟子となるためにどれだけの事をせねばならぬかをあなたは知っていますか?」男は、知らないから教えて下さい、と答えた。教師は言った「よろしい、あなたは水を汲み、たきぎを集め、料理をし、その他数々の重労働をしなければならない。そして学問もしなければならない。」男は更に尋ねた「それでは教師は何をしますか?」「おお、教師はただ静かに坐って霊的指導をします」男は言った「わかりました。それなら私は弟子にはなりたくありません。教師になる道を教えて下さい。」
 我々はみな教師になることを望む。然し、教師になる前に我々は弟子になることを学ばなければならない。謙虚になることを学ばなければならない。

 幸いなるかな悲しむもの。その人は慰められん。

 みずからを物質的にまたは知識において豊かであると信じている限り、我々は霊的進歩をとげることはできない。自分が霊的に貧しいことを感じ、また神の真理を実現していないことを悲しむ時、その時はじめて我々は慰められるのである。勿論我々は誰でも悲しむ��然し何のために? 俗世の快楽や持ち物を失ったことをである。これはキリストの説く悲しみではない。キリストが幸いなるかなと呼ぶ悲しみは非常に稀である。なぜならそれは霊的損失の感じ、霊的な淋しさであるから。それは神に慰められる前には必ず来なければならない悲しみである。我々の大部分は現在送りつつある表面的な生活に十分満足している。多分心の真底では何かが欠けている事を知っている。然し尚この欠乏もこの世の感覚的事物によって充たされ得るという希望にしがみついている。
 シュリ・ラーマクリシュナは常にこう言った、「人は息子が生まれないと言い、或いは富が得られないと言って滝のような涙を流す。然し神を見たことがたいと言って一滴の涙でも流す人があるであろうか?」と。この誤った価値感覚は我々の無知から来ている。この無知の性質について、インドの哲学者シャンカラは言った、「光が闇に対立する様に、主体即ち知る者(自我又は霊)は客体即ち知られるもの(非我又は物質)に対立している。然るにマーヤー即ち不可解な無知の力によって主体と客体とが混同され、人は習慣的に《自我》を《非我》と同一視するに到った」我々自身と我々の着ている着物とが別物であるように、真の《自我》は肉体ではないという事を知的に理解するのはやさしい。然しもし肉体が病むと我々は「私は病気である」と言う。知的には、真の自我は心ではない、ということを理解する。然しながら幸または不幸の波が立つと我々は言う「私は幸福である」「私は不幸である」と。また我々は自身を自分の親類や友達と同一視し、彼等に起った何事かを自分に起った事のように思う。我々は自分と自分の持物とを同一視し、富を失うとまるで自分を失ったように感じる。この無知はすべての人類に共通である。神を直接知ること以外にこれを除くみちはない。キリストが我々に望んだような悲しみを我々が悲しみ始めた時、神を求めてたとえ一滴の源でも流した時、その時に我々は聖なる知識による慰めを受ける用意ができたのである。
 キリストが「幸いなるかな」と呼んだ悲しみは『キリストにならいて』の中に表現されている「おお、主なる神よ、いつ私はあなたと一つになり、自分を全く忘れ去る程にあなたの中にとけ込むことができましょうか? 汝、わが内にあり、我、汝の内にあれ。また我等も常に一つにありてかく住むことを許し給え。」我々は、神の姿以外の何物も自分に平和を与えることはできぬと感じる程の段階に達しなければならない。その時に磁石が針をひきよせるように、神は人の心を引き寄せ、そこに慰めが来るのである。
(中井はる訳)


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