スワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祝賀会の講話
一九九二年二月十六日
人生は、われわれのすべてに対する、大きな挑戦です。われわれが人生からなにを得るかは、大きく、その挑戦をうけとめるわれわれ個人の能力にかかっています。人間が何ものになり得るか、に限界はありません。ある聖典には、「人は、彼自身がつくったところのこの世界に生まれてくる」と書いてあります。
われわれはさまざまの限定にもかかわらず、ほんとうに、自分の運命のつくり手であり、こわし手であるのです。この世でわれわれが何になるかは、各自の力と努力にかかっています。われわれはつよければ強いほど、この人生から多くのものを受け取ることができます。つよさは、世間的成功の秘訣であるばかりでなく、すべての霊的達成の秘訣でもあります。宗教的生活の中では、われわれは、心の中にかくされている潜在能力をひき出さなければなりません。
強さの重要性
スワミ・ヴィヴェーカーナンダはこう言っています、「人生の最良のガイドはつよさである。宗教においては、ほかのすべての事柄の場合と同様、あなたをよわくするものはことごとくすてよ。そいいうものとは関係を持つな。(全集一巻、一三四ページ)宗教、そして神は無限につよいものだ。よわさと奴隷根性はさけよ。(全集七巻、一三ページ)」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダのこのようなことばは、われわれの霊的生活の最善のガイドラインです。人生の目標に達するためには、われわれは力をやしない、肉体的にも心理的にも、道徳的にも霊的にも、もっともっとつよくならなければなりません。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは明快なことばで、力の源泉と、それをやしなう方法を指摘しました。彼はこう言っています、「あなた方が、欲する力と援助のすべては、あなた方自身の内にある。それだから、あなた自身の未来をつくれ。『死んだ者に死んだ者をほうむらせよ』無限の未来が、あなた方の前にはあるのだ。あなた方はまたつねに、つぎのことをおぼえていなければならない。一つ一つのことば、思い、および行為はあなたのために一つの蓄積をつくりつつある、ということと、わるい思いとわるいはたらきがその中から、トラのようにあなたにとびかかろうと待ちかまえているのとおなじように、そこにはまた、よい思いとよい行為は百千の天使たちの力を持って、つねに永遠にあなたをまもろうとまちかまえている、という、はげましにみちた希望もあるのだ、ということを」(全集二巻、二二五ページ、コスモス)
肉体の力の養成
人は、肉体と心とたましいを持っています。たましい、すなわちアートマンは、人の存在の核心です。このアートマンが、いわば、肉体と心でおおわれているのです。力を正しくやしなうことは、人の全存在に影響をおよぼします。実際に力をやしなう、ということになると、第一に肉体の力が問題になります。
肉体のよわい人は一般に、不幸でありまたはたらく力もありません。非常にしばしば、そのような人は人生のあらゆる面でよわくなる傾向があります。一つのよわさを持っているとやすやすと、第二の、そしてつぎつぎにほかのよわさのいけにえとなるのです。インドでは、ある思想家たちはこの基礎的な要因を実にはっきりと見たので、「肉体はまさに、ダルマを得るためのもっとも重要な道具である」とまで言いました。
肉体のつよさの必要を強調して、スワミ・ヴィヴェーカーナンダはつぎのように言いました、「肉体のよわさはすくなくとも、われわれの不幸の三分の一の原因である。……あなた方はギーターを力こぶによって、もっとつよい筋肉によって、もっと深く理解するであろう。身のうちにすこしつよい血が流れていれば、クリシュナの巨大な天才と巨大な力をもっとよく理解するであろう。あなた方がしっかりと自分の足をふまえて立っているときには、そして自分みずからの男と感じているときには、ウパニシャッドをそしてアートマンの栄光を、より深く理解するであろう」(全集三巻、二四二ページ)
シュリ・ラーマクリシュナが弟子たちの中のある人びとを受け容れられるときには、彼らの肉体の力に注目なさいました。スワミ・ヴィヴェーカーナンダジー、ブラマーナンダジー、ニランジャナーナンダジー、ラマクリシュナーナンダジー、サラダーナンダジー、およびトリグナティターナンダジーはすべて、強壮な体格をめぐまれておられました。シュリ・ラーマクリシュナは健康なつよいからだをもっておられて、それによって、きびしい苦行や困難にたえることがおできになりました。スワミ・サラダーナンダジーは、シュリ・ラーマクリシュナは実に健康であられたので、やすやすと肉体意識を超越し、瞑想のときには深く集中することがおできになったのだ、と書いています。
肉体の力の養成は、積極的と消極的の二つの面を持っています。消極的に言いますとそれは肉体のエネルギーの浪費をとめることです。肉体のエネルギーはさまざまの形で浪費されます。そのあるものをここに列挙してみましょう。( 1)不規則な生活、( 2)適当な栄養の不足、( 3)不必要になまけてぶらぶらしていたり、役に立つような仕事についていない、( 4)病気や、休養の不足、( 5)不道徳な習慣、( 6)飲酒と麻薬の使用、( 7)非衛生的な環境に住んでいること、( 8)精神の不安定と混乱、( 9)はたらきすぎ、無意味な仕事、および(10)不必要なおしゃべりの習慣、です。
肉体の力をやしなうには、われわれはまず第一に、正しい方法で肉体エネルギーの浪費をとめるようにつとめなければなりません。人生におけるある立場のゆえに肉体エネルギーの流出はやむを得ない、と思えるときがあるかもしれません。わすれてはならない重要なことは、自己制御と自己訓練が、エネルギーの浪費をとめる、ふたつの正しい制御力だ、ということです。
積極的に言えば、力の養成は、つぎのようなことによってはたされます。( 1)規則的な生活、( 2)栄養のある、適当な食物、( 3)規律のある仕事と休息とレクリエーション、( 4)適当な肉体の訓練、( 5)道徳的な習慣、および( 6)心の静けさ、です。これらをまもることによって、人はかならず、人生の目的達成のための道具として役立つ、つよくて健康な肉体をたもつことができるでありましょう。
心の力の養成の方法
強さ、力ということがは肉体の強さだけをあらわすものではありません。人間の目標は、サイのように肉体がつよくなることではなく、肉体のレベルを高くこえて、神性を得ることです。肉体の力のつぎには、それよりもはるかにすぐれている、心の力の開発に注意を向けなければなりません。
心の力のつよい人が、かならずしも肉体的に非常につよいとはかぎりません。しかし人間として、彼の人生は単に肉体のつよさだけを示している人の人生よりもっと効果的で、目的にみちているでしょう。心の力を開発できないでいるひとは、どこにおかれても植物のように単調な生活をしているのが見られます。しかし心の力の開発に努力してきた人は、あらゆることを、よい方向に持って行きます。
彼は人生に勇敢に立ち向かい、男らしく逆境とたたかって、決して試練や苦難をおそれません。勝っても、謙虚で寛大ですし、負けても、内観的で楽観的です。試練をうけたときには機敏で、手ぎわよく対処します。彼の人生は、心の力を持たない人にはまったく見られない、魅力的な傾向をあらわします。心の力と勇気を開発するまでは、人はけものと同じです。また、単なる肉体のレベルでは、人はどきに、けものよりりっぱだ、と言われるような点を持っていますか。
ですから、人間にふさわしい人生を生きたいとねがう人はだれでも、肉体の力をやしなうと同時に、心の力の開発にもっと大きな注意をそそがなければなりません。心の力の開発もまた、積極的と消極的という、二つの面を持っています。
消極的な面を言うなら、心のエネルギーとつよさの開発とは、心のエネルギーの浪費をとめることです。これをしなければ、当然、心はつよくはなりません。積極的な面と言えば、それは心に健全な思想と理念を与えることです。
われわれはお金をつかう場合には用心ぶかいのですが、貴重な富である心をついやすことはなんとも思っていません。人がもし心を失ったなら、世界の富も彼にとってなんの値打ちがありましょう。心のエネルギーは、つぎのようなさまざまの形で浪費されるのです。( 1)乱読、( 2)目的のないおしゃべりや論争、( 3)他人の問題への好奇心、( 4)他人のあらさがし、( 5)分不相応の願望と、度のすぎたエゴイズム、( 6)節度のない色欲、怒り、嫉妬、憎悪、および高慢、( 7)根拠のない恐怖心、および( 8)理性を欠いた感情の興奮。
われわれ自身の内面のかっとう、および外部とのあらそいは、心中に憎しみ、嫉妬、色欲、怒り、嫌悪、高慢などのわるい感情を生み出します。これらは、心の不純性と呼ばれています。われわれはこのような有害な感情を、適当な手段と内観によってのぞかなければなりません。
パタンジャリは、われわれのエネルギーをうばい去ってさまざまの心の病気をおこさせる心の不純性は、つぎの四つの修行をすることによって除くことができる、と示しています。( 1)幸福な人びとに友情を持つ、( 2)不幸な人びとに同情心をもつ、( 3)よい人びとを見てよろこび、( 4)悪い人びとには無関心。
幸福な人びとに友情をいだくことができるようになればわれわれは、嫉妬と憎しみを根だやしにすることができるでしょう。不幸な人びとへの同情は、謙虚な態度で実践されるなら、われわれのハートをひろげ、心をきよめるでしょう。よい人びとを見てよろこぶなら、われわれ自身のよいところが拡大され、目に見えないわるい傾向がほろぼされるでしょう。悪い人びとへの無関心は、われわれを外から来るわるいことばや行為の影響から、われわれを救うでしょう。これらとともにもし日々の礼拝のときに自分の思いと行為の果実を主にささげるなら、われわれは大幅に、心のエネルギーの流出をふせぐことができるでしょう。
このような訓練を実践すると、心を制御することがらくにできるようになります。心の力の開発は、制御された心においてはじめて可能なのです。心の制御は広範な主題であり、さまざまの方法でおこなうことができます。ここでは、その中の重要ないくつかについてはなしましょう。
われわれはインドリヤ、すなわち感覚の諸器官と、ブッディ、すなわち識別の能力とを持っています。心と識別の能力とが、感覚器官に混乱させられることなく一致してはたらくと、心は制御されます。つぎに、制御された心は、高貴な、純粋は、高い思いによってみたされ、やしなわれなければなりません。あるところで、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、心を偉大な、生命をふき込む理想でやしなう方法を、指摘しています。
彼の言うには、「まさに子供のころから、積極的な、つよい、助けになる思いをあなたの頭脳に入れよ。そのような思いに向かって心をあけひろげ、人をよわめる、まひさせるような思いは入れるな。自分の心に向かって、『私は彼である、私は彼である』と言え。それを昼夜、あなたの心の中に、歌のようにひびかせなさい。そして死にのぞんだとき、『私は彼である』と断言しなさい。それが真理である。この世界の力はあなたのものなのである」(全集2巻、三六ページ「人間の本性」)
弟子たちや兄弟たちにあてた多くの書簡の中で、スワミ・ヴィヴェーカーナンダはくりかえし彼らに、心の力とよい性格を得るためにこれらの諸徳をやしなうよう、求めています。彼の手紙の中からみじかい抜粋をしてみましょう。
「兄弟をみちびこうとするな。ただ彼らに奉仕せよ。けもののような指導きちがいが、たくさんの大きな船を、人生の海にしずめた」(全集五巻、三六ページ、「アラシンガに」)
「着実であれ、嫉妬と利己主義をすてよ。従順であれ、そして真理の運動に永久に忠実であれ。人類とあなたは、世界をうごかすだろう」(全集五巻、一〇七ページ、N・ラオ氏宛)
「悪魔と嫉妬とうぬぼれがひろまっている間は、よい結果な得られない」(全集六巻、三〇六ページ、ラマクリシュナナーンダに)
「偉大な仕事はインチキによってはなしとげられない。……ライオンの勇気をもって、しかし同時に花のやさしさをもって、はたらきつづけよ」(全集六巻、三三三ページ、ラマクリシュナーナンダ宛)
カリフォルニヤでの講演の中で、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、インドを遍歴していた日々に彼の心の力がどのようにして多くの場合に彼の生命を救ったかを語りました。彼は言っています、「いくたびも、私は死のあぎとの中にありました――飢え、足はただれ、つかれはてて、幾日も幾日も、たべるものはありませんでした。そしてしばしば、一歩もすすむことができませんでした。木の下にたおれふし、いのちは去って行きつつあるように思われました。はなすことはできず、ほとんど考えることもできませんでした。しかしついに、心があの思いにもどりました、『私はおそれない。死にもしない。決して飢えも渇きもしない。私はそれ(ブラフマン)だ。全自然界も、私をつぶすことはできない。自然は私の召使いだ。汝の力を主張せよ。汝、主たちの主よ、神々の中の神よ!汝の失われた王国をとりもどせ!立ち上がってあるけ、そしてとまるな!』
「そして私はふたたび活力を得、立ち上がるのでした。そして今日、生きてここにいるのです。このようにして、やみがきたらかならず、真理を主張なさい。そうすれば敵対するものいっさいは、消えなければならないのです。なぜなら、結局それは一場の夢にすぎないのですから。困難が巨峰のように高く見えても、すべてのものがおそろしく、くらく見えても、それらはマーヤーにすぎません。おそれるな――それは消えます。おしつぶせ、するとそれは消えます。ふみつけよ、するとそれは死にます。おそれてはいけない」(全集二巻、四〇三ページ、「オープンシークレット」)
つちかわれた知性の力は、ほかに十分注意がはらわれるなら、心をつよくする要素の一つなるでしょう。それゆえ、知性の力は注意ぶかくそだてられ、それと同時に、心の集中力も養成されなければなりません。思いとことばとおこないにおいて、誠実さときよらかさをまもることは、心の力を大きく増大させます。誠実で心のきよらかな人びとは、たとえ多くの才能をめぐまれていなくても人類のもっとも貴重な宝としてかがやくでしょう。彼らのことばは大声ではないかもしれません。しかし彼らのささやきが、いつわりを破壊するでしょう。彼らをそしる者たちさえ、彼らを信用するでしょう。
神のおん名をくりかえすこと(ジャパ)は、心の力を得る方法の一つです。神は、すべての力の源泉であられます。神とそのおん名は、別ものではありません。ですから、神のおん名は力の源泉です。神のおん名を、信仰と愛をもって規則正しくくりかえす人、彼の心の力は徐々につよまるでしょう。そのわけは、心がジャパによって、まさにこの世のすべてのつよさと力の源であられる神とつながるからです。「神はわが力、神はわが力」とくりかえすことにより、人の心は大きな力にみたされます。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、バクティ・ヨーガに関する彼の講話の中で、肉体の力と心の力をやしなうことの必要を非常に強調しています。彼の言うには、「激情の制御は、つぎに留意しなければならないことである。感覚器官(インドリヤス)が感覚対象の方に行かないよう、抑制すること、それらを支配して意志のみちびきのもとにおくことは、宗教的教養の中のまさに中心的な徳である。……肉体のつよさは絶対に必要である。故意にからだをよわめるようなことをるのは、実は霊性のさとりのための処方ではない。……心のよわい人びとは、アートマンをさとることはできない。……マーヤーを脱して、自分の道を切り開くという、もっとも困難な仕事は、巨人の意志のためにのみ残されてあるのだ。(全集八巻、六六−六九ページ)
霊性の力の養成
心の力が肉体の力よりすぐれていると同時に、ここに心の力よりさらに高い力があります。それは霊性の力です。霊性の力より高い、もしくは偉大な力はありません。ですから、霊性の力は究極の力である、と言ってよいでしょう。人の内部の、不滅の、真実の要素はアートマンです。アートマンは、すべての力と光輝の貯蔵庫です。ですから、アートマンの自覚から生まれた、または自分の神との関係を経験することによって生まれた力は最大の、そしてもっとも長つづきのする力です。それはひとたび得たら、失われることはありません。むしろ増大するばかりです。肉体の力と心の力は、アートマン、または神のさとりから生まれる力にくらべたら無にひとしいものです。ウパニシャッドはおしえています、「アートマンは、力を持たない者にはさとれない」(ムンダカ・ウパニシャッド、三−二−四)、また、ケナ・ウパニシャッドはこう言っています、「アートマンのさとりによって人は力を得る」(ケナ・ウパニシャッド、二−四)ウパニシャッドのこのような教えに立脚して、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、真の霊性は力であり、真の力は霊性である、と言っています。
人がこのような霊的な力を与えられるとき、彼は人生の思考の善を得るのです。彼は、神の力、知識およびよろこびの通路となります。彼は肉体の上では病気であるかもしれません。社会的地位は高くないかもしれません。学問はないかもしれません。しかしその霊性の力によって、強壮なだけの肉体を持つ人や大権力者や知識人のなし得ないことをするでしょう。彼の生涯は、全人間社会への祝福です。
無恐怖の育成
力の概念は無恐怖の観念と密接につながっています。力がないと、おそれを感じます。恐怖ほど、人を堕落させるものはありません。あらゆる罪、犯罪は、人が恐怖心からおかすのです。
恐怖は猜疑心となり、うたがいは怒り、怒りは暴力、暴力はわざわいとなります。恐怖は、われわれの頭脳とハートのもっともうつくしい性質をぬすみとることができます。われわれの、正しく考え、正しく行動する能力を破壊することができます。恐怖は、われわれの生活の中に、かぞえきれぬほどのさまざまの形で姿をあらわし、われわれの心をよわめるのです。それゆえ、ほんとうに強さを育てようとするなら、われわれは自分の心から、恐怖を消し去るようにしなければなりません。
ヴェーダーンタによると、恐怖の根は、われわれが自己の真の性質を知らないところにあります。われわれの存在の核心は、無限で不死で不滅であるアートマンです。われわれはこのことを知りません。それで死をおそれるのです。アートマンはひとつ、不可分で、同質で、一切所に遍満しています。われわれがアートマンの性質を知らないために、他者の概念が生まれ、差別の感覚が生じます。差別の感覚から、さまざまの種類の恐怖の観念が生まれるのです。死の恐怖の原因は、自己の真の性質と、存在はひとつであるということをさとったときにはじめて、除かれるでしょう。自己以外に何びとの何ものも存在しないのであれば、そこにはもはや恐怖の原因はないのです。
悟りの人として、スワミジーは死の恐怖を克服していました。自発的なヨーガの行為によって、着古した衣服のように肉体をすて去り、マハーサマーディに入ったのです。スワミジーの生涯と教えの、支配的な特徴のひとつはつよさ、肉体の、心の、そして霊性の力です。彼は、この三重の力の権化でした。彼の前にいると、すべての恐れとよわさは人びとのハートから消えて行くのでした。