スワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祝賀会の講話
一九九一年一月二十日
緒言
今年はスワミ・ヴィヴェーカーナンダが生まれて一二八年、彼が亡くなって八九年になります。彼は、偉大な教えと、偉大な生き方の手本をあとに残しました。幾千の信者たちによって「スワミジー」と愛称されているスワミは、多岐にわたる人柄の方でした。彼は霊性の巨人であり、みずからのさとりに満足はせず、すべての人の幸せのために努力しました。
彼は、慈悲ぶかいハートを持っており、全人類の苦しみをするどく感じとりました。彼は、高い理想にきびしくしたがい、この世のいっさいのものを放棄した、まれな僧でした。しかし彼はまた、かつて人類への愛を忘れたことはありませんでした。
彼はインド、すなわち彼の母国の向上を説き、世の不幸を除く道を説きました。その上に、人間各自が自己に内在する神性を自覚する方法を教えました。ですからスワミジーの教えは、一時代のためのものではなく、すべての時代のものであり、一国のためのものではなくて、すべての国のためのものであり、人間生活の限られた一面のためのものではなく、その全面的なあり方を教えるものです。
彼のあとに、人類の幸福のために、彼ほどに感じ、思い、そして懸命にはたらいた人がもう一人出たかどうか、疑問です。スワミジーは一つの大きな強みを持っていました。世界が前よりもっと緊密に交流して、孤立した国や民族はない、という近代に生まれた、ということです。
霊性の人の一つの確実なしるしは、彼の愛は信仰や、人種や地域のいかんにかかわらず、すべての人におよぶ、ということです。非常に高く啓発された霊的な魂でしたから、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは全世界をわがものと見るようになったのでした。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダと近代性
それまでの時代には、人の持つ、全世界という概念は非常にかぎられたものでした。一国が持っている、他国についての知識は、大したものではありませんでした。科学の進歩につれて、人間知識の地平線は次第にひろがってゆきました。
彼は約一世紀前に生きていた人ですけれど、世界の前途をはっきりと見通していました。彼の思想と教えはまさに、今日われわれが直面している、また明日直面するであろう難問に関するものでした。
彼の存命中には、さしせまった問題は、一種類でした。根本的な問題はつねに同じなのですが、われわれの目の前によこたわる問題は、さまざまの形をとっています。今日は、彼の生きた言葉がどのようにわれわれの現在および将来と関係しているかを理解するよう、つとめましょう。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダとインド
彼の時代には、スワミジーは、インドがイギリス支配者たちの経済的搾取の、非常に悲しい犠牲となっているのを見ました。彼は、支配者たちの唯物的な思想の影響をうけて、インドの人びとが自分たちの貴重な文化と文明への信仰を失いつつあるのを見ました。誰も、インドが世界において彼女の地位と信望をとりもどすであろうことを期待してはいませんでした。世間は闇につつまれていました。
インドの歴史とヴェーダの伝承によく通じていましたから、五千年あまりのインドの過去の姿は、彼の心にはっきりとうかびました。それは、彼の眼前にあらわれた、生きた現実でありました。さとりの人であった彼にとって、宗教は哲学的論議の問題ではなく、直接の経験でした。シュリ・ラーマクリシュナの弟子として、すべての宗教の中に同一の真理を見ることはスワミジーにとってごく自然なことでした。
彼は、身分の高下、教育のあるなし、または貧富のちがいを問わず、広範囲のインドの大衆と接触するようになりました。そして彼らのつよさと、彼らの弱点とを知りました。しかしその上に彼は、大衆の生活のみじめな有様を見てふかく心をうごかされました。なさけぶかい彼のハートは、彼らのために血を流しました。しばらくの間、この大衆の苦しみはかれの心を占める第一の思いでした。スワミ・ヴィヴェーカーナンダのような見方でインドを見た人はいなかった、と言っても誇張ではないでしょう。
彼は、インドの栄光にみちた過去をこの上もなくほこらしく感じました。彼はインドの栄光にみちた将来を確信していました。しかし彼は、人びとの不幸な有様を見て、苦悩に身をもだえました。このようなムードの中で、彼は一八九七年、同胞に向かってこのようにいいました、「つぎの五十年間、『われらの偉大な母インド』、これだけをわれらの基調としましょう。その間、ほかのすべてのむなしい神々は、われわれの心から消しましょう。これが、目ざめている唯一の神‥‥他のすべての神々は眠っています」(全集、三巻、三〇〇ページ)
彼は、外国の支配者にたよるようなことをせず、教育を振興し、社会正義を確立することによって貧困をなくすよう、勇気を出して努力せよ、と同胞をはげましました。ここでは僧としての彼より、もっとはっきり、愛国者としての彼を見ることができます。
スワミジーは、彼の深い洞察力と直接の経験によって、みずから、この難問に解決策を与えました。彼は、インドのたましいは、宗教の中にある、もし、それに手をつけることができたら、インドはかがやかしく目ざめるであろう、といいました。彼は、社会慣習と真の宗教とをはっきりと区別しました。真の宗教は社会の習慣や行事とはまったくちがいます。
彼の理想と見解は、宗教を生きたものとすることでした。宗教によって、インドは、眠ったレビヤタンであったものを生きからせることができるでしょう。宗教は、まさに全民族の血の中に流れているのです。あらゆることは、宗教に生きることによってなされるべきです。
後におこったできごとが、この偉大な予言者が完全に正しかったことを示しています。彼が亡くなって五十年たたぬうちに、インドは外国の支配をはらいのけたのです。このことに、宗教が大きな役割を演じました。真理と非暴力によって独立を得た、ということは、世界史上、画期的なできごとです。
インドについてのスワミジーのある発言をここに引用しましょう。彼は言いました、「我らの聖なる母国は、宗教と哲学の国である−霊性の巨人たちの生まれたところ−放棄の国である。ここでは、またここにおいてのみ、最古の時代から今日にいたるまで、人生の最高の理想が人びとに向かってひらかれて来た。
「これは哲学の、霊性の、そして倫理の、甘美さの、やさしさの、そして愛の母国である。‥‥インドはなお、これらの点において世界のすべての国々の中の第一人者である」(「スワミ・ヴィヴェーカーナンダの教え」、一五九〜六〇ページ)
西洋からインドに帰って来て、スワミジーは、政治的活動とは決して提携はしない、という決意をしました。彼はしばしば、自分は躊躇なく、自分の組織に政治的動機は介入させないようにする、とくり返しました。彼はコロンボで印象的な講演をしましたが、その中で、貧しい人びと、病める人びと、弱い人びとに奉仕することによって、神を礼拝すべきであろうと主張しています。
彼は、インドに、霊性の真理をとき、宗教を基盤とした教育をひろめて、強さとエネルギーの源泉としての宗教を復活させるためのセンターをつくって、彼の理想を実行にうつしました。
彼は単なるおしゃべりや論議ではない、人をつくる教育と人をつくる宗教を欲しました。彼は、四つのヨーガの一つまたはそれ以上を実行するなら、人間生活のあらゆる面が宗教の一部となり得るのだ、と言いました。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの世界
インドでは、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは愛国者の僧、と呼ばれました。彼のインドに向かっての教えは非常に意味ぶかいものではありますが、彼の全集八巻から得られる彼の教え全体のほんの一かけらにすぎません。
スワミジーの教えのもっとも主要な点は、霊性の開発です。彼は、人間の本性を強調することによって、人類をより高い水準に引き上げました。声高々と彼はこのように宣言しました、「あなた方、地上の神たちよ、人を罪びとと呼ぶことが罪なのである。‥‥それぞれのたましいが神聖である」と。他の国々の人びとは、スワミジーの、希望と力と勇気にみちた霊性の教えが彼らに新しい展望を与えるので、彼の方にふり向くのです。
彼の時代、アメリカは物質的成功の頂点を代表していました。アメリカで見られることは、大なり小なり他のすべての西洋諸国でも見られる事実でした。しかし彼は、この種の文明が霊的理想を欠いていることに注目して残念に思いました。彼は、西洋の社会生活は表面は笑いにみちているけれどそのかげにひそむのは不幸ななげきである、ということを知りました。
彼はこれを見て、この上なく心を痛めました。ある西洋人の弟子にあてた手紙に彼はこう書きました、「世界は不幸に燃えています。あなたは眠ることができますか。世界のもろもろの宗教は、生命のないものまねになっています。この世界に必要なのは、人格です。世界は、その生命が一個の無私の燃える愛であるような人を必要としています。その愛が、その一語々々を雷鳴のように語らせるでしょう。大胆な言葉と、もっと大胆な行為が、われわれの欲するものです。めざめよ、めざめよ、偉大な人びとよ!」(全集七巻四八九ページ)
またあるとき、彼は言いました、「西洋世界全体は、いつ爆発して全世界を破壊するかわからない、火山の上にのっている」と。彼はこの警告を前世紀の終りごろに発言しました。そのあとで、二つの大戦争がたたかわれ幾千万の生命と家々が失われたのです。
この危険への防護策は何でしょうか。スワミジーの考えは、人がもっとよいタイプになり、彼らの生活が霊的な理想主義に根ざしたものになるのでなければ、いくら物質的に進歩、成功しても、人類に平和と幸福は来ないし、この世界が人にとって安全なすみかとはならない、と。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダと宗教
スワミジーは、宗教の解釈にあたらしい意味をあたえました。彼によると、何であれ人を強くするものが宗教、人を弱くするものが非宗教です。何であれ、あなたを大胆にし、勇気ある者たらしめるのが宗教です。もし罪というものがあるなら、それは、恐れることです。ですから恐怖は大きな罪です。
これらは、単なる一雄弁家の激励の言葉だったのではありません。偉大なスワミはそれらを、深い霊的経験から発したのです。真の宗教は、あらゆるたましいによる、内なる神性の自覚です。その神性はわれわれ一人ひとりの内にひそんでいるのです。宗教の実践がそれを、われわれの意識の面に引き出します。
そのような人は、誰に対しても、少しの憎しみも悪い感情も持たないでしょう。そのような人は、彼の人間としての難問をすべて解決したのです。彼は、人生の目標に到達したのであって、他の人びとに平安と幸福と力を与えるでしょう。
ロンドンで行なったある講演の中で、彼は言いました、「世界が今日必要とするのは、自分は神のほかに何も持たない、と断言することのできる、二十人の男女です。‥‥こう断言することができるなら、他に何の問題があり得ましょう。それができなければ、生きていることが何の役に立ちますか」
また他の場合に、彼は言いました、「それぞれの国に一ダースのライオンのたましいがいればよい。−自分の束縛をたち切ったライオンである。無限者に触れた、そのたましいがブラフマンのもとに行ったライオン、富も力も名声をもかえるみないライオンである。それだけで世界をゆり動かすに十分だ」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、彼が言ったことの、かがやかしい実例でした。シカゴの宗教会議でおこなった講演で、彼は世界的に有名になりました。この奇跡を演じたのは、彼の知性でも学識でもありませんでした。彼をあれほど力づよい、圧倒的な存在たらしめたのは、彼の霊性のさとりであり、内なる神性の自覚でした。
「マドラス演説」に答えて、彼は書きました、「この霊の無限力は、物質の上にはたらけば物質的発展をもたらし、思考の上にはたらけば知性を発達させ、それみずからの上にはたらけば人から神をつくります」と。(全集、四巻、三五一ページ)
彼の理想は、人類に向かって彼らの神性を説き、彼らに、その人生の各瞬間にそれをあらわす方法を、教えることでした。彼は言いました、
「まず、われわれが神であろう、そしてそれから、他の人びとが神であるように助けよう。
「『そうであれ、それから他を助けよ』、これをわれわれのモットーとしましょう。‥‥人は罪びとである、などとは言うな。あなたは神である、とおっしゃい。たとえ悪魔がいたとしても、つねに神を心にえがき、悪魔のことは思わないのがわれわれの義務です。もし部屋がくらくても、たえず暗さを感じてそれを心にくり返すことは、やみをのぞいて光を入れる方法ではないでしょう。‥‥こう言おうではありませんか、『われわれは神である。シヴォハム、シヴォナム』、と。そして進みましょう。物質ではない、霊である。これが、シュルティ(ヴェーダ)が説く不滅の真理なのです。‥‥ヴェーダーンタというライオンをしてほえさせよ。‥‥この思想をひろくふりまけ、そして結果は、なるにまかせよう」(全集、四巻、三五一ページ)
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの教え(二六一〜二六五)
人びとは子供のときから、彼らは弱いもの、そして罪びとである、と教えられている。彼らに、彼らはすべて、たとえもっとも弱い者のように見えていても、実は不死の子たちなのである、ということを教えよ。まさに、子供のときから、積極的な、つよい、助けになる思いをその脳裏にたたきこめ。このような思いに向かって、自分の心をあけ放て。よわくする、まひさせる思いを入れてはいけない。あなたの心に向かって言え、「私は彼である、私は彼である」と。それを夜ひる、歌のように心中になりひびかせよ。そして死のまぎわには、宣言せよ、「私は彼である」と。それが真理である。この世の無限の力はあなたのものである。
ヴェーダーンタは言う、この世のすべての不幸の原因をなすものは、よわさである、と。よわさは、苦しみのたった一つの原因である。われわれは、弱いから不幸になるのだ。われわれはうそをつく、ぬすむ、ころす、その他の罪をおかす。なぜならよわいから。われわれは死ぬ、なぜならよわいから。われわれをよわくするものがなければ、そこには死もなければ悲しみもないのだ。われわれは妄想のゆえに不幸なのである。妄想をすてよ。いっさいは消滅する。
つよさは生命、よわさは死−これは偉大な事実である。強さは至福、永遠、かつ不滅の生命、よわさは不断の緊張、不幸、よわさは死である。あなたが必要とするつよわと助けのすべては、あなた自身の内にあるのだ。それゆえ、あなた自身の未来をおつくりなさい。