スワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祝賀会の講話

一九八九年二月二十六日

緒言

 偉大な霊性の指導者の生涯は、彼らの教えの最善の注釈であり、最も重要な説明です。その中にわれわれは、思いと言葉と行為の一致を見いだすのです。あるサンスクリットの詩がそれを美しく表現しています。「聖者たちは、心と言葉と行いが一つ」この定義は非常に簡単に見えますが、そこには、広大な意味が含まれています。

 この定義は、人が考えることのできる最高の諸徳のすべてを含んでいます。そこには誠実、淨らかさ、素朴さ、非利己性、かたよらぬ愛、およびその他多くの道徳的性質が内在し、また現れているのです。ですからわれわれは、霊性の悟りの非常に高い境地に達している人には、ごくまれにしか会わないのです。シュリ・ラーマクリシュナはくり返し、真剣に神を求める人びとは思いと言葉とを完全に一致させなければならないと強調しておられます。

スワミ・ヴィヴェーカーナンダの教えの基調

 スワミジーはマドラスの弟子にこう書き送っています。(全集五巻三八ページ、アラシンガ宛)「聖らかで純粋であれ。火がやって来る」 これは、彼の教えの基調音の一つであります。スワミ・ヴィヴェーカーナンダから発せられて、この言葉は莫大な効果を発揮しました。それは彼の活力を運び、読者の心に非常な情熱を与えました。それは単なる励ましの言葉ではなく、彼自らの経験から生れた信仰と確信の産物でした。

 彼は、これらの徳を養うことの重要性を相手に印象づけるべく会話の中であれ、手紙の中であれ、この言葉をくり返して倦むことを知りませんでした。ある手紙(全集第五巻五七ページ。アラシンガ宛)の中で、こう述べています。「骨の髄まで淨らかで、堅固で、そして誠実であれ。そうすれば一切がうまく行く。もし君がシュリ・ラーマクリシュナの弟子たちの中に何かを注目したとすれば、それはこのこと、彼らは骨の髄まで誠実だ、ということである」

誠実の徳の位置

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは誠実の徳を、非常に高い位置に置きました。それは、彼の師と同様、彼にとっても、まさに霊性の生活の基礎なのでした。彼は書いています。「勇気を失うな。真理の一言は、決して失われることはない。それは幾百千年、ゴミの下に埋もれているかも知れない。それでも、おそかれ早かれ姿を現す。真理は不壊である。徳は不壊である。淨らかさは不壊である」(全集五巻五七頁)

 スワミジーはどうして、これらの言葉をこのような確信をもって書いたのでしょうか。彼自らが真理に満ちていて、それ以外の何ものでもなかったからです。真実性(誠実さ)は彼の天性、子供のときからの性質でありました。その全生涯、彼はそれのために努力し、たたかっています。その種の衝動の一つが、彼をシュリ・ラーマクリシュナのもとにつれて来たのです。そのことが何という驚嘆すべき結果を、東西両洋において、思想および活動の世界にもたらしたことでしょう。

 外国を旅行中、たとえ最良の友を失うかも知れない危険を犯しても、彼がどのように確固と、真理に定住していたか、ということを示す一つの例があります。あるとき彼は一人の長老派に属する紳士に会いましたが、この人は議論の間に大層興奮、立腹し、彼をののしりました。スワミジーは、彼の最も堅固な支持者の一人であるミセス・ブルから批判されました。彼女は、そのような態度はただ反感と悪意を買うだけだと思ったのです。

 このでき事にふれて、スワミジーはミス・ヘイルにつぎのように書き送っています。「私はミセス・ブルから厳しく責められました。こういうことは私の仕事の邪魔になる、というのです。私は、優しくしていることが世間的にはどんなに有利であるかということは知っています。私はすべてのことを優しく行なっています。しかし、ことが内なる真理の恐るべき妥協となると、止まるのです。普通の人の義務は、彼の「神」、つまり彼の社会の命令に従うことですが、光の子供たちは、決してそうはしません。「世論」の崇拝者たちは、たちまち滅亡に至ります。光の子供たちは、永遠に生きるのです」(全集五巻七〇〜七一ページ)

 真理の道には花がまき散らされているわけではない、ということは確かに本当です。しかし霊性の指導者は、社会の気まぐれに追随してそれを破滅に至るに任せようとしてやって来るのではありません。彼は果たすべき使命を持っています――社会を彼のところまで引き上げる、という使命です。霊性の指導者たちは、富や美名や評判の空しさを知っています。ですから彼らは虚偽を弾劾し、それと戦い、それを暴露します。

 同じ手紙の中に、彼は書いています、「残念ながら私は、自分を人ざわりよくし、あらゆる暗い偽りに妥協させるようなことはできません。それはできません。私はできる限りの努力をしました。しかしできません。つい

に私はそれをあきらめました。主は偉大である‥‥真理なる神よ、おんみだけがわが導き手であれ。何の理由で私に、自分をとりまく世間のものずきに迎合し、内なる真理の声に従わない、などということができましょう」

 スワミジーの真理への執念は、これほどのものでした。彼は真理の象徴です。スワミジーの生涯には、このようなできごとは沢山ありました。しかし彼は決してゆずることはしませんでした。彼の心は本能的に真理ならざるもの、偽りには反発しました。

非利己性

 さて、スワミジーの手紙にある言葉、「火」はどういう意味であるか、考えてみましょう。それは火です。活力です。ひるむことなく活動に挺身する情熱とエネルギーです。高貴な仕事のためには敢然と困難に直面し、生命をも捧げようという決意です。それは奇跡をも行なう、聖らかさと非利己性という火です。

 スワミジーはまたあるとき、こう言いました、「しかし、よくお考えなさい。これは生命の経験です。もしあなたが本当に他者の幸せを欲するなら、たとえ全世界があなたに反対しても、それがあなたを傷つけることはできません。もしあなたが真摯であり、本当に非利己的であるなら、それは、あなたの内にある、あなたの主の力の前にくずれ去るにちがいありません」

 彼はよく、つぎのようなサンスクリットの詩句を引用しました、「賢者は、他者のためには富を、そして生命をさえも捨てるべきである。‥‥死ぬことが確実であるのなら、よい事のために死ぬ方がよい」 彼はよくこの言葉をくり返しました。これが、われわれの人生を最も有効に使う方法であるからです。

 あるとき、有名な思想家、インガソルが、スワミジーと会いました。彼は会話の中でつぎのようなことを言いました、「私は、この世を十分に活用するがよい、オレンジはカラカラになるまで絞りとるがよい、と思います。この世界だけが、われわれにとって確実なものなのですから」

 スワミジーは答えました、「私は、この世というオレンジの汁を絞りとる、あなたのよりもっと良い方法を知っています。またあなたよりも沢山しぼりますよ。‥‥私は、そこに恐れるものはない、ということを知っています。ですから、絞ることを楽しむのです。私には義務もなければ束縛もありません。私は、すべての男女を愛することができます。人を神として愛する喜びを思ってごらんなさい! あなたのオレンジを、この方法で絞ってごらんなさい! 一万倍も多くの汁が得られます。最後の一滴までお絞りなさい」

 インガソルは知的理解だけに基づいて語っていたのであって、結果についての確信は持っていなかったのでした。スワミジーは、彼自身の真理の自覚による確信を持っていました。ですから、彼の唇をもれる言葉は、彼の存在の核心から生れたものでした。それには権威のスタンプが捺されていました。

 またあるとき、彼は言いました。「無私であるということ、完全に無私であるということはそれ自体救いである。内部にいる人が死に、神だけが残るのだから。‥‥

私たちが自分という思いを持たないとき、最も良い働きができ、最も大きな影響が生じるのだ」と。彼のアメリカ人の友達の一人はあるとき、スワミジーは自分というものの意識がないようだ、と言いました。彼の関心は他の人にあったのでした。

  人類への愛

 無私であるためには私たちは、人類へのハートと感情と愛を持たなければなりません。スワミジーはそれを、溢れるほど持っていました。彼の渡米の理由の一つは、苦しんでいるインドの大衆の状態を改善する手段を探し求めることでした。彼にとって、宗教的である、ということは難しい顔をしていることでもなく、人びとを見下すことでもありませんでした。彼は言いました、「全人類への愛と慈善、それが真の宗教性の証である」と。彼は私たちに、自己満足におちいるなと警告しています。私たちの多くは右のような性質を十分に持っている、と思っていますが、真の愛とは何であるかということを判断するには、多少の分析が必要です。

 多くの人びとが、すべてが順調にゆき、兄弟たちが自分の行く手を妨げない間は、兄弟たちを助けることをいといません。しかし彼らの利益がそこなわれるや否や、愛はことごとく消えます。これは、人類を愛する、ということではありません。それは、慈善という形で忍び込んでいる利己性です。

 他者に奉仕する場合に、いささかでも高慢や自己尊重の感情があってはなりません。スワミジーは書いています。「すべては常に自然によって助けられている。そしてたとえわれわれの幾百万がいなくなっても、やはり同じように助けられて行くだろう。あなた方や私などのために自然の営みが止まる、などということはないのだ。私たちが他者を助ける、という形で自分を教育することを許されているのは、あなた方や私に与えられた恩典であるにすぎない。

 「自分は世のために何かをせねばならぬ、というような考えは、心から追い払いなさい。世界はあなたからの助けなどを必要としてはいません。誰であれ、自分は世を助けるために生れた、などと考えるのは、その人にとって全くのナンセンスです。それは高慢に過ぎません。徳のような形で忍び込んで来ている利己性です」(全集一巻八九頁)

 ここに、ジャーナリストであり詩人でもあったエラ・ホゥイーラー・ウィルコックスの手紙の抜粋をご紹介しましょう。スワミジーの講演の聴衆の一人であったこの通信員が、スワミジーの人格からどのような感銘を受けたかを示しています。彼女はこう書いています、「私はけさ、一時間、彼の講演を聴いていました。この偉大な魂に奉仕することを許されたなら、あなたはご自分を非常な幸運に恵まれたものとお感じになるに違いありません。私は、彼は、ある偉大な霊――多分、仏陀かキリスト!――の生れ替わりであると信じます。実にシンプルで、実に真摯で、実に淨らかで、実に非利己的です。この冬中、彼の講話に耳を傾けることができたのは、私が今生で得た最大の恩典です。

 「もし私が、仏陀やキリストがとるに足らぬ小人たちによってどんなに迫害され、誤り伝えられたか、ということを知らなかったなら、人びとがこのような魂を、誤解したり悪口したりするのを見て驚いたことでしょう。今朝の彼の講話は、この上もなく深く、心を高めるものでした。彼がそこにいる、というだけで、私たちは高められます。彼には全くエゴが見られない、というのが、私の好きなところなのです」(「ニュー・ディスカバリーズ」一六頁)

 一九〇一年、、ベルル僧院で起った、スワミジーの生涯のあるでき事が、彼の貧しい人びとへの愛を感動的な形で示しています。そのとき、何人かの辺境民族の労働者たちが境内で働いていました。スワミジーはよく彼らを訪れて、彼らの生活苦の物語に耳を傾けました。 ときどき、聞いているうちにスワミジーの目には、涙が溢れ、話し手は話すのをやめて、スワミジーに、あちらにおいで下さいと頼むのでした。あるとき、スワミジーが彼らと話をしているときに、富と地位を持つ何人かの訪客がありました。取り次ぎを受けると彼は、「いまは出られない。この人たちを大変に楽しく話し合っているところなのだから」と言いました。

 別の日に、彼はこの人たちに菓子とごちそうを振舞い、彼らが十分に満足したとき、弟子の一人に向ってこう言いました、「私はほんとうに、彼らの内に主ご自身を見た。彼らのなんと素朴で、正直であることか!」 少しあとで、僧院のサンニヤーシンやブラマチャーリたちに向かって、彼は言いました。「この貧しい、無学な人びとのなんと素朴な心をしていることか、見てごらん! 君たち、少しでも彼らの苦しみを和らげてやることができるか。もしできないなら、ゲルアを着ても何の値打があろう」

  動機の純粋性

 人類のために働くための動機力は内なる犠牲の精神から生れて来ます。仕事の前であれ後であれ、仕事中であれ、そこにいささかでも打算的な動機があってはなりません。これが、動機の純粋性です。このような動機は、この選ばれた道は人生のゴールに到達する、という真実の確信から生れます。真実の確信と、動機の純粋性が、霊性に至るすべての道の土台を形成しているのです。いかなるのものであれ、超能力への願望は、宗教生活の大きな妨げです。奇跡追求者は真の宗教からはかけ離れた存在です。

 私たちは、ふさわしい努力もしないで速やかに結果を得ようとします。しかしこれは不可能です。スワミジーは書いています。「忍耐、純粋さ、および不屈の精神が勝利するのだ。誠実、純粋性および無私の精神、これらのあるところには決して、日の上にも日の下にも、それらを持つ人を押しつぶす力はない」(全集五巻六二ページ)

スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、諸徳の権化

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダはヴェーダーンタの福音を説きました。寛容の、霊性の、福音を説きました。彼は決して、自分が実践していないことは教えませんでした。彼は彼が教える最高の諸徳の具現者でありました。 このことは、彼の詳しい伝記を読んだ人にはよく分ります。彼と近く接触する機会を持った批評的な西洋人や、インド人の信者たちによる多くの報告があります。人は彼の教えを実践することによって、莫大な恩恵を受けます。これが、スワミジーを尊敬する最善の方法です。

シュリ・ラーマクリシュナの役割

 スワミジーはシュリ・ラーマクリシュナの中に、神を見た人だけでなく、神自身を見ました。シュリ・ラーマクリシュナは、神の生き証拠でした。神と議論するために来た人が、崇拝し始めたのでした。スワミジーの真理探求は、終りを告げました。

 シュリ・ラーマクリシュナは、彼に神のヴィジョンを与えました。スワミジーはもはや、神の存在を疑うことはできませんでした。彼はもはや、神なしでは生きることができませんでした。スワミ・ヴィヴェーカーナンダがシュリ・ラーマクリシュナの中に、彼の神の探求の成就を見たのであれば、後者は、前者の中に彼の神聖な使命の成就を見たのでした。それは相互協力であり、完成でした。シュリ・ラーマクリシュナは、彼の神を、彼とわかち合ったのでした。スワミジーは、彼の神聖な使命遂行に携わるべく、みずからをシュリ・ラーマクリシュナに捧げきりました。

 スワミジーは、シュリ・ラーマクリシュナの第一の使徒でした。彼は自らを神の中に没入させたいとねがったのですが、シュリ・ラーマクリシュナは強く彼に、地上において彼に与えられている使命のことを思い出させました。それは、人びとに、神の栄光と、人間の魂の神性を自覚させることなのでした。シュリ・ラーマクリシュナは彼に、この世界は神の現れである、という悟りを授けました。それゆえ、人類に与えられるあらゆる奉仕は、神に捧げられる礼拝なのです。シュリ・ラーマクリシュナは、彼の運命を定められたのでした。

 将来なさねばならぬ彼の仕事に備えて、シュリ・ラーマクリシュナはこの弟子の持つさまざまの可能性を強力な表現にまでめざめさせただけでなく、彼みずからの霊性の力を、彼に移し与えました。このことによってシュリ・ラーマクリシュナの役目は終り、現代の男女のために宗教を復活させるという、彼らが共有する使命の中の、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの役割が始まったのでした。

 ここに、シュリ・ラーマクリシュナがスワミジーをどのように見ておられたかの一部をここに伝えますと、「ナレンドラは、非常に高い序列に属する少年だ。彼は声楽、器楽、およびもろもろの学問、あらゆるものに卓越している。彼は自分の感覚器官を統御し得ている。彼は誠実であって、識別力と離欲の力を持っている。彼はごく幼いときから、神を信仰している。彼の場合には宗教上の修行は不要だ‥‥ナレンドラは私からさえ独立している。彼は無知と迷妄を克服している。彼は束縛されていない。彼は偉大な魂だ。彼はさまざまの善い性質を持っている。一人の人の中にこれほど多くの徳が具わっているとは! これは並々ならぬことではないか!」


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