スワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祝賀会の講話

一九八八年一月十七日

第1部

   一、偉大な人格

 宗教界全体を見渡しても、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯ほどダイナミックな、力に満ちた生涯は見あたりません。古代の仏教の伝道者たちの後には彼が、海をわたって遥かな国々にヴェーダーンタの普遍的な福音を伝えた最初の、ヒンドゥ僧侶でした。

 三つの要素が彼の人格の成長開発に貢献しました。それらは、彼が若年期に受けた教育、彼がシュリ・ラーマクリシュナのもとで受けた霊的訓練、および彼のインドへの愛と知識でした。西洋の科学と哲学を学び、しかも東洋の叡知を身につけたことによって、彼は、近代科学の発見と、古代インドの賢者たちによって広められた霊性の知識とを調和させました。彼はウパニシャッドの宗教とヴェーダーンタの哲学とを、現代に最もふさわしい形で表現したのです。

 彼はよき師を得、師はよき弟子を得ました。彼らはともに、相手にとってふさわしい人であり、しかも、比類のない人格でありました。やさしく、そして力強いシュリ・ラーマクリシュナの指導のもとに、彼は全霊を傾けて修行に励み、ヴェーダーンタの最高目標に到達しました。僅かに二十三歳のときに、師の恩寵によって、コシポルのガーデンハウスで超越意識の状態を経験しました。亡くなる数日前に、シュリ・ラーマクリシュナはその霊性の力のすべてをこの弟子に伝え、人々を教えよ、と命ぜられました。

 師は直観的に、この弟子が人類の不幸――肉体の、心の、道徳上の、および霊的の苦痛を除くために生まれた七人の賢者たちの一人であることを知っておられました。ですから、この世の福祉のために生涯をささげることを彼に命ぜられたのでした。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダのインドおよびその国民に関する知識は、書物や新聞からとったものではなく、七年以上も大方は足で国中を歩いて獲得されたものでした。彼は社会のさまざまの層の無数の人々と、個人的に、しかも密接に交わりました。彼の、インドおよびその問題に関する理解は実に深いものでした。彼のこの国への愛はたとえようがなく、そのために彼は愛国者の僧と呼ばれました。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、「ヴェーダーンタのかがみ」とか、「神の正義に基づく雄弁家」とか、「新しい摂理の使徒」とか、その他にもさまざまの通り名でたたえられています。この他にも多くの名をもっています。彼がハーヴァード大学のライト教授に、宗教会議に代表として受け入れられるために必要な身元証明書を乞うたとき、この学識ゆたかな教授は、「スワミジー、あなたが身元証明書を要求するのは、太陽に向かって、輝く権利のあることを述べよと要求するようなものです」と言いました。そして紹介状の中に、「ここに、我らの学識ある教授たち全部を束にしたよりもっと学識の深い人がいる」と書きました。

スワミ・アベダーナンダジーの評価

 彼の兄弟弟子のスワミ・アベダーナンダジーはスワミ・ヴィヴェーカーナンダについてこう書きました。

 「いかなる国もいまだかつて、われわれが彼の中に見たような、調和をもって一つの形に結合された多面的な人格を生み出したことはない。偉大なヨギ、霊性の教師、宗教指導者、文筆家、雄弁家、そしてその上に、人類のための最も無欲な働き手、それがスワミ・ヴィヴェーカーナンダであった。

 「私はほとんど二十年間近く、この偉大な霊性の兄弟と共に住み、旅行し、毎日毎晩彼を見、彼の性格を見つめて来た。そしてここであなた方に保証するが、私はこれら三つの大陸の中に彼のような人を見たことはない。誰ひとり、この驚くべき人物にとって代われる者はいない。一個の人間として、彼はいささかの汚点もなく、浄らかであった。哲学者として、彼は東西を通じて最大の人であった。彼の中に、私はカルマ・ヨガ、バクティ・ヨガ、ラージャ・ヨガおよびジュニヤーナ・ヨガの理想を見いだした。彼は、ヴェーダーンタのさまざまの面の、生きた見本のようであった。

 「彼に会い、彼が話すのを聞いた人々は、人をうっとりさせるような彼の人柄、幼児の無邪気な微笑をたたえ、神々しい光に輝く美しい聡明な顔を忘れるこはできないであろう。

 「私はこの国(アメリカ)で、彼の著書ラージャ・ヨガを、最も敬虔なクリスチャンがその聖典を見るのと同じ目で見ている、多くの人に出会った。この書物は、多くの不可知論的な、また懐疑主義的な心にとって啓示である。それは多くの人々の性格を変えている。このおどろくべき書物の一節一節が、いわば、我らの偉大なヨギの純粋な魂という巨大なバッテリーから生じる、魂をゆるがす霊性の力で充電されているのである。このすばらしい書物はいくつかの言葉に翻訳されて、三つの国で出版され、アメリカ、ヨーロッパおよびアジアという、三つの大陸で、知的な教育ある階級と、まじめな真理探求者たちの尊敬を集めている。

 「三つの偉大な民族から最高の栄誉を受けても、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの心は高ぶりもしなければ、うぬぼれもしなかった。また半秒といえども彼の頭は師の淨い御足を離れはしなかった。アメリカに来る前とまったく同じ、子供のような単純さで、同じ謙虚さで、自分に浴びせられる勝利の栄誉のはかなさを知っていた」

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダにとってシュリ・ラーマクリシュナは、彼自身の言葉に従うと、「私の師、私の主、私の英雄、私の理想、私の生きた神」でありました。彼の最も情熱的な宣言の一つの中で、彼はこう言いました。「もし、私の思いか言葉か行為によって何事かが成就したのであれば、もし、私の口から出た一言でもがこの世の誰かを助けたのであれば、それは私のせいではない、彼のせいである。しかし、もし私の口から呪いの言葉が出たのであれば、もし、私から憎しみが出たのであれば、それはすべて私のせいであって、彼のせいではない。すべての弱々しいものは私のものであった。すべての、生命を吹き込む、強化する、浄らかな、神聖なものは、彼のインスピレーション、彼の言葉、彼自身であった。‥‥‥彼の足元で、私は一切を学んだのである」(全集三巻三一二頁、「カルカッタでの講演」)

二、 教え

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは常に、彼のこの世における使命を自覚していました。彼はあるときこう断言しました。「ブッダが東洋に対してある使命を持っていたように、私は西洋に対して一つの使命を持っている」彼がこの意味深い宣言をしたのは、宗教会議で大成功をおさめてしばらくの後のことでした。彼は、あらゆるものが霊において一つであり、それは真であり、善であり、美であるということを悟っていたのでした。彼はヴェーダーンタは現代人の心に合う宗教だということを確信していました。ヴェーダーンタは非常に合理的であり、高度に人間的であり、しかも深く霊的です。それは人生のあらゆる暮しぶりの中で実践することができます。それは人の最高の霊的要求を満足させることができます。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、ヴェーダーンタは普遍的宗教がそなえていなければならないすべての要素をそなえている、ということを見いだしました。それは科学と宗教、理性と信仰の不一致を解消することができるだけでなく、功利主義とミスティシズムとの間に起きる難問を解決することもできるのです。到るところでそれを説くことが、彼の使命となりました。

ヴェーダーンタ

 ヴェーダーンタによると、究極の実在はブラフマンと呼ばれます。それはみずから存在し、至福そのものである純粋な霊であります。それはまたサット・チット・アーナンダ、至高霊、またはパラマートマンとも呼ばれています。それは名も形も体も性質も持ってはいません。それは第二なるもののない一者であり、活動しません。ブラフマンの悟りは、直接の認識および瞑想によって得られるものです。

 ブラフマンの立場からすれば、創造という活動はあり得ません。相対的な立場から、創造という事実は認められるのです。創造を説明して、ヴェーダーンタはこういっています、「ブラフマンの心中に一つの思いが生まれ、

それはひとつである、しかし数多になりたい、と思うのだ」と。どのようにして、またはなぜ、純粋に形のない霊の内部にそのような思いが生まれるのか、ヴェーダーンタは説明していません。これは、人間の有限な心には理解のできないことなのです。

 この創造という現象がマーヤーと呼ばれるものであります。マーヤーはブラフマンに本来そなわっている不可思議な力であり、創造を引き起こす力です。この段階では、創造は思いの領域に属しています。創造主はまず、最初に絵画なり、詩なりを自分の中に思い浮かべる画家や詩人のようなものです。このようにして、属性を持たない霊が属性(創造、維持、および破壊への願望)を与えられるのです。サグナ・ブラフマンは名も形も持たない創造エネルギーです。

 サグナ・ブラフマンの一つの現れはイシュワラと呼ばれており、それは、この宇宙の創造主であり、支配者であり、同時に破壊者です。神の化身すなわちアヴァターラはサグナ・ブラフマンのもう一つの現れであり、彼は、この世に悪がはびこったとき宗教と霊的価値を取り戻すために、ときどきこの世界に下りて来ます。イシュワラすなわち神は、名と形と属性をそなえた人格として考えられています。彼の性質は全知です。つまり彼はすべてを知っており、全能であって、威厳と慈悲をそなえています。イシュワラは完全に浄らかです。彼の中には、怒りとか憎しみとか嫉妬とか不公平とかいうような悪い性質はありません。イシュワラは常に慈悲深く、彼を求めるすべての人を彼の方に引き寄せます。

 イシュワラは、彼自身の中から名と形を放射します。物質の体は彼の存在の低い方の面を形成します。この創造者が、アラーとかエホバとか、天なる父とか、カーリとか、ヴィシュヌとか、シヴァというような、さまざまの名で呼ばれるさまざまの宗教の人格神なのであります。イシュワラ、すなわち神は礼拝と瞑想の対象です。彼は真剣な祈りには耳を傾けられます。彼は信者の願望を叶えて下さいます。

 神からこの多様の宇宙が展開します。最初に五要素(エーテル、空気、火、水、および土)、それからさまざまの世界のシステム、次にもろもろの肉体、最後にそれらを維持するための食物と飲物、というように。神は肉体に入り、それらを生命と意識によって生かされます。

 退化 involution はこれと反対の順序で起こります。宇宙解消のときには、物質的要素と生命とは精妙な状態になり、それから神に、次にサグナ・ブラフマンすなわち宇宙エネルギーに、そして最後に純粋霊すなわちブラフマンに入るのです。

 ヴェーダーンタは右のような進化や退化の学説にはあまり注意を払わない、ということは記憶すべきことです。ヴェーダーンタは人に、彼が至高霊すなわちブラフマンと一体であることを悟るよう、求めているのです。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダに従うと、宗教は完全に実践的なものです。いかなる学説または思弁にも基づくものではありません。宗教は理論の終ったところから始まるものであります。宗教の目的は人格を形成し、魂の神的性質を現すことです。宗教の実践は、人をして霊的世界に生きることを得させるものでなければなりません。宗教の理想は、ブラフマンすなわち真理を悟り、日常生活のあらあゆる行動の中に神性を現すことです。真の宗教は魂がめざめ、ハートに神を意識することです。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダの宗教観は、宗教は内なる霊性の開発である、というものです。それは聖典を読むことや、神学の上の論議などを基礎とすべきものではありません。それは単に、ある教義や哲学を信じるということではありません。宗教の理想は、普遍の真理を悟ることであります。

 人は、宗教に関する書物を書いたから宗教的であるというものではありません。弁舌の才能を恵まれて、高尚な理論や見事な説教を語ることができるから宗教的である、というものではありません。言葉、行い、態度を通じて神的な性質を示したときに、彼は霊的であるといわれるのです。学校にも大学にも行かない、教育のない人が霊的完成の最高境地に達することがあり得るのです。人は、彼の内在の霊の性質を悟ることによって、彼の動物的性質および低い本能を克服したときに、真に宗教的になります。宗教の実践は、その結果として、知識の獲得と、各人のハートに内在する神の認識をもたらします。

 すべての聖典と哲学をマスターした人は、社会からは知的巨人として敬われるでしょう。このような学者は、神を悟り、彼と一体になった無教育の人と並ぶことはできません。目覚めた人は到るところに神を見、常に彼を感じます。彼は神の権化としてこの世に生きます。彼は無限の至福の生活をします。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、世界に向かって次のように力説しました。「もし神が存在するなら、私たちはそれを見なければならない。そうでなければ、私たちは偽善者になるより、むしろ正直な無神論者であった方がよい」(全集一巻一二七頁)

 「もしすべての宗教に普遍の真理が存在するなら、私はそれをここに、神を悟ること、に置く。理念および方法はさまざまであろう。しかしそれが、中心点である。千もの異なる半径があるが、それらすべては一つの中心点に集中する。それが神の悟りである。この感覚の世界、永久に、食べたり、飲んだり、ナンセンスなことをしゃべったりの世界、うその、影と利己主義の世界を超越した何ものかである。すべての書物、すべての教義をこえたところに、この世の空しさを超えたところに、それはあり、それはあなた自らの内なる神の自覚である。人がたとえ世界中の教会を信じても、かつて書かれたすべての聖典を頭に入れたとしても、地球上のすべての河に入って洗礼を受けたとしても、それでももし彼が神を認識していないなら、私は彼を無神論者の一人と見る」(全集一巻三二四頁)

 「人は神を悟ることによって神的になるのであって、偶像や寺院や教会や書物は、支え、霊的幼年時代の助けに過ぎない。しかし彼は絶えず進み続けなければならない」(全集一巻十六頁)

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、人格の円満な発達を欲しました。強さと無恐怖は、彼の教えの二つの主要なポイントです。これら二つの性質は、人格の発達のための大切な要素であります。人間の堕落は、弱さと自信の喪失から起ります。内なる力は人を前進させ、人生のさまざまの難問にひるむことなく直面させます。力強い心はあらゆる挑戦的な境遇によく対処し、人生に成功を収めます。講演の中でスワミ・ヴィヴェーカーナンダは言っています。「無限の力が宗教であり、神である。弱さと奴隷根性を避けよ」(全集七巻十三頁「インスパイヤードトークス」)「人生の最善のガイドは強さである。宗教においては、すべての事柄におけると同様、あなたを弱めるものは、ことごとく捨てなさい。決してそういうものを取り上げてはならない」(全集一巻一三四頁「ラージャ・ヨガ」)

 彼はまた、インドにおける講演の一つの中でこういっています。「人を立ち上がらせ、働かせるものはなにか。強さである。強さは善、弱さは罪である。もしウパニシャッドの中から爆弾のように、無知のかたまりの上に落ちる一語があるなら、それは無恐怖という言葉である。そして、説かれなければならないたった一つの宗教は、無恐怖の宗教である。この世においても宗教の世界においても、恐怖が堕落と罪の確実な原因であることは真実である。不幸をもたらすのは恐怖である。死をもたらすのは恐怖である。悪を育てるのは恐怖である。そして何が恐怖をもたらすのか。自分の本性への無知である」 強さと無恐怖を養う方法について、スワミ・ヴィヴェーカーナンダはわれわれに、各人の内に存在する至高霊すなわちアートマンを堅く信ぜよと教えました。力そのものであるアートマンの栄光への信仰から、人は目的のない弱い人生を高く超越するに足る、強さと勇気を得るでありましょう。彼は講演の中でこういっています。

 「カーストや生まれの如何にかかわらず、強い弱いにかかわらず、あらゆる男、女、子供に、強い者たちの背後にも弱い者たちの背後にも高いものたちの背後にも低いものたちの背後にも、あらゆるものの背後に、みなが偉大になれるだけの無限の能力がひそんでいるのだ、ということを気づかせ、学ばせるがよい、あらゆる魂に向かって宣言しようではないか。起きよ、めざめよ、そしてゴールに着くまで止まるな。起きよ、目覚めよ。自分は弱いという催眠状態からめざめよ。ひとりとして本当に弱い者はいないのだ。魂は無限、遍在、かつ全能である。立ち上がれ。自分を主張せよ。あなたの内に神のましますことを公言せよ。彼を否定してはいけない」(全集三巻一九三頁「ヴェーダーンタの使命」)

 「自らに、そして他のすべての人に、われわれは神的存在なのだと告げること、これがゴールに達するための唯一の道である。これを繰り返すうちに力が出て来る。そして、最初は口ごもっていた者も次第に強くなって、声が大きくなり、ついには、この真理はわれわれのハートを占領し、血管を通って肉体に浸透するであろう」 (全集二巻二〇二頁「魂の自由」)


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