スワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祝賀会の講話
一九八六年二月十六日
緒言
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯と教えは、さまざまの形で幾万の魂を感銘させ、霊感を与え、変容させました。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは多くの人によって偉大なる組織家、雄弁家または偉大な愛国者と見られています。ある人々からは、現代における、ヴェーダーンタ哲学の高遠な教えの優れた解説者として尊敬されています。またある人々からは、東洋と西洋の間に、また信仰と理性の間に架け橋を造った知的巨人である、と見なされています。しかし、これらすべての背後にある、彼の生命の根本的な霊感は、彼自身の霊性の自覚でありました。彼の生涯の使命は何にもまして霊的なものだったのであります。
スワミジーが年若い青年としてシュリ・ラーマクリシュナのもとに来たとき、シュリ・ラーマクリシュナは、彼はヨギの眼を持っていると言われ、他の弟子たちに向かって、ナレンは非常に高い序列に属する霊的な人格である、とおっしゃいました。またこうもおっしゃいました、「私は彼の眼が内に向いているのを見た。心の半分は内にある何ものかを見つめており、あとの半分だけが外界を意識している」と。彼はまた、スワミジーは子供のときから瞑想の熟達者であり、ある神聖な使命をおびてこの世にやって来たともおっしゃいました。シュリ・ラーマクリシュナの足元にすわって、スワミジーは宗教を学び、かつ実践しました。ついにスワミジーは偉大な宗教指導者となり、霊性のダイナモとなったのです。
今日は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの言葉により、宗教は何であるのか、ということを理解することに努め、彼の見解による、世界のさまざまの宗教の、ある共通の基盤というものを論じてみましょう。
宗教
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、「神からの光をわれわれにもたらす探求ほど、人のハートにとって親しい探求はない」と言っています。この「神の探求」が宗教なのであります。
また、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは言っています、「この全宇宙の総計が神自身である。この宇宙知性がわれわれが神と呼んでいるものなのである。それを他のどういう名前で呼んでもよろしい。この宇宙知性が内在し、それが顕現し、自らを外に現す。‥‥それから、それがそれ自身の源に戻るのだ。」(全集一巻三七四)
ここでスワミ・ヴィヴェーカーナンダは、多者として現れている、唯一の、非二元的な意識的実態をさしています。これが最高の実在なのです。これがまた超人格神と呼ばれているものであります。
最高神の三つの面
この最高実在を理解しようとする努力の中で、人はさまざまの困難に直面して来ました。第一の困難は、人にこの超越的実在を理解させない、彼の感覚の力と思考の能力との限界でした。それで人は、それを物質、つまり、見える世界に求めざるを得なかったのです。自然界は、まず最初に人に畏敬と崇拝の念を起こさせた、ある、より高い存在の、眼に見える創造物でした。
神の初歩的な概念は、自然の力の人格化されたものでした。これは、自然崇拝へと進みました。崇敬の中に見られる次の概念は、神は非常に優れた存在である、というものです。彼はこの眼に見える世界のかなた、天上に住み、外からこの世界を支配しておられる、というものです。彼は悪人を罰し、善人に賞を与えます。この考えはやがて、人格神の観念に発展しました。
人格神の観念はもっと深い知性を持ち、もっと熾烈な探求心を持つ人々にとっては最終的なものではあり得ませんでした。究極実在の探求が更に続けられました。スワミジーは言っています、「人格神を最高とする神の総括は決して普遍的ではありえない」と。内在の霊の観念が、超人格神の観念から生まれて来ました。希なる直感力を持つ少数の個人たちが更に深く入って、絶対存在としての神を悟ったのです。それは平安です。それは知識です。それは至福です。それは非二元の存在です。
これらが、ヴェーダの時代にインドで発達した宗教思想の三つの姿であります。スワミジーは言っています、「われわれは、それが人格神、宇宙外の神に始まったのを見た。それは宇宙外の存在から内在の宇宙的存在、宇宙に内在する神に発展し、魂自体をその神と一つものと見て、一個の魂、宇宙間のさまざまの現れのすべての結合体をつくることに終ったのである」(全集二巻二五二頁)このようにしてわれわれは、この唯一の霊がこの現象界の背後にある、至高の実在であることを見るのであります。
さまざまの宗教は、方法や儀式においては異なっているけれど、宗教の大部分は、共通の教義や信仰を持っています。すべての宗教は、同一の至高実在の現れなのです。スワミジーいわく、「これらさまざまの宗教の中で一つの事実がはっきりしている――そこに一つの抽象的な理想があって、それが人格の、または超人格的存在の、またはおきて、またはエッセンスの形でわれわれの前に提示されるのである」と。
宗教は悟り(自覚)である
これらの教説の何れを認めても、人は宗教的になるわけではありません。知的な同意や哲学的論議は宗教ではありません。
スワミジーは「宗教は悟り(自覚)である」と言っています。宗教は神の直接経験であります。祭祀や儀式によって人格神を礼拝することも宗教のゴールではありません。
スワミジーの言葉に、「言葉の普通の意味で知るのではなく、知的理解ではなく、単なる実在の合理主義的な解釈ではなく、単なる暗中の手探りではなく、この世の事物がわれわれの感覚に訴えるよりもっとリアルな、強烈な悟り(経験)である」とあります。
神との再結合
さまざまの宗教のゴールは異なるものではありません。すべての宗教のゴールは本質的には同じものであります。スワミジーは、こう宣言しています、「すべての人類の究極のゴール、すなわち宗教の目的はたった一つ――神との再結合、すなわちあらゆる人の本性である神性――」
人の魂は至高の霊と一体であります。この一体性のゆえに、人は感覚と心の限定を超える力をもっているのです。霊性の修行を完成することによって、人は超感覚的境地に達し、至高霊との一体を自覚するのであります。
自由の探求
人生の束縛からの解放への願いはすべての人間に共通なものです。この、解放への努力がすべての宗教の共通の基礎なのであります。自由になりたいという願望は、宗教に向かう心の最初の衝動です。自由の探求が、人を霊的行為、および霊的成長に導くのです。罪人から聖者にいたるすべての人がこの自由の呼掛けを感じています。この呼掛けは人を悲しみ、苦しみ、死およびすべての対立の境地を超越するよう、うながしているのです。ごく少数の、ある人々は、至高の実在すなわち超人格神を悟って、「私はすべての闇を超えて太陽のように光輝く偉大な存在を悟った。人はこのものを悟ることによってのみ、死を超越するのだ。生死の輪廻を超える道はほかにはない」と宣言するのです。
象徴、名、および神人
この偉大な存在すなわち究極実在を知る人は完成された人です。どこの国にも、どの宗教にも、完成された人々がいました。彼らはすべての求道者の灯火です。このような、悟りを得た人々の崇拝は、すべての宗教に共通の姿です。これと共にわれわれは、名の崇拝とシンボルの崇拝を見ます。神の御名は非常に神聖なものと見なされているのです。スワミジーはこう言っています――
「ほとんどあらゆる宗教で、これらは、われわれが神を礼拝する場合に持つ三つの主要なものである――形すなわち象徴、名、および神人」と。
書物の尊重
宗教的予言者および覚者たち、聖者や見神者たちの言葉や教えは、どこの国でも書物に記録されています。それらはまさに神の言葉であると見なされ、非常に神聖なものとされています。すべての宗教がある書物に忠実に従うことを求められています。これらの書物が宗教生活において、その信者たちを導くのです。ヒンドゥイズムはヴェーダに、キリスト教はバイブルに、イスラムはコーランに、仏教は三蔵経に、そしてゾロアスター教はゼンダアヴェスタに忠誠を求めています。これらの書物は、聖典と呼ばれています。聖典は霊的成長を、そして悟りを助けるものです。聖典を権威として、また聖なるものとして尊敬することは、すべての宗教の特徴であります。
哲学、神話および儀式
あらゆる宗教は三つの部分を持っています。哲学、神話、および儀式です。哲学は、特定の宗教の全貌を提示します。それは基礎原理、ゴールおよびそれに到る方法を示します。哲学は、神話によって具体化されます。神話は、人物や超自然的存在の想像的な生涯を描いた伝説です。儀式は、花、香など、感覚に訴える物を供えて行われる祭祀です。
神話と儀式は宗教を分かりやすく、実践しやすくするもので、より高い段階に到るために必要な段階です。これら二つの礼拝様式の故に、さまざまの神の概念、あまたの宗派、聖典、賛歌、および祈りが現れました。これらの助けによって多くの求道者たちが、神の人格的、超人格的両面を経験することができたのです。
スワミジーは言っています、「進むに従って、われわれは、自分たちが準備段階において、どんなに避けがたく、具体的な助けを必要とするか、ということを痛感するであろう。実に、宗教の、神話と象徴という部分は、道を求める魂たちの必然の願いに答えるものである」と。
哲学は、宗教のエッセンスを含んでいます。もし哲学が霊性の探求として理解されるなら、宗教は直ちにその霊性の自覚をもたらし、哲学はまさに宗教の土台となるでありましょう。
スワミジーは言っています、「哲学のない宗教は迷信に走り、宗教のない哲学はドライな無神論に陥る」と。(全集七巻三四)「インドでは、哲学とは、神を見るための方法である。宗教の理論的基礎である。具体、総括、抽象が哲学の過程の三段階である。その中で一切のものが調和する最高の抽象は、一者である。宗教の中でわれわれは第一にシンボルと形、次に神話、そして最後に哲学を持っている。最初の二つはしばらくの間のもの、哲学がすべての基礎をなす究極のものであある。(全集七巻四七)
表現はさまざま、しかし実質は一つ このようにして、われわれは、世界のあまたの宗教の中に、さまざまの点で大きな類似性を発見します。スワミジーは言いました、「ときどき、この類似は驚くほどであるので、さまざまの点で、多くの宗教が他の宗教の内容をコピーしたのではないか、と思わずにいられない。‥‥魂の言葉は一つである。民族の言葉はさまざまである。彼らの習慣や暮し方は大きく異なる。宗教は魂のものであって、さまざまの民族、言葉、および習慣を通して表現されるのだ。それだから世界の宗教の違いは表現の違いであって、実質の違いでないのは当然である。そして、類似点、統一点は魂のものであり、本質的な点である。いかなる民族に、またいかなる環境の中に現れても、魂の言葉は一つなのであるから。ちょうどさまざまの楽器で奏でられているように、そこにも同じ甘美なハーモニーが響いているのだ」
宗教の必要性
スワミジーはまた、宗教の必要性についても実に合理的な説明を与えています。宗教の研究は、人間の心の、最も高貴な追求なのです。それは自然神学またはその他のいかなる知識の分野の研究よりも高尚です。宗教は、自分自身の心の内なるはたらきを研究します。それは人を、無限者に到達せよ、と強くうながします。他の人間の活動のいかなる分野の努力も、無限性の概念でわれわれをインスパイヤすることはありません。
スワミジーは、宗教は科学として、研究として、人間の心が行うことのできる最も偉大かつ健康的な営みである。無限者の追求、無限者を把握しようという努力、この感覚の限定を超えようとする、いわば物質を超えようとする、そして霊の人間を生み出そうとする努力、――無限者をわれわれの存在と一つにしようとする昼夜を分かたぬ努力――この努力それ自体が人のする努力の中の最も壮大な、最も栄光に満ちたものである。‥‥こういうわけで、宗教は私には学問として絶対に必要なものだと思われるのである」
偉大な力
宗教は人々を結合させる偉大な力です。それは個人にも社会全体にも、より高い結果を成就させます。それは、限りない内部エネルギーを獲得し、高貴な性格を形成するための原動力であります。真に宗教的な人のハートからは愛と慈悲と同情が流れだし、他者に平安を与えます。
スワミジーは言っています、「人類の運命を形成するために働いてきた、そして今も働きつつあるすべての力の中で、実に、その現れをわれわれが宗教と呼んでいる、その力より強いものはない。すべての社会組織はその背景に、この独特な力のはたらきのいくらかを持っており、また、人間の集合体の中にかつてははたらいた最大の結合衝動は、この力から出たものである。
「それは人間の心を動かす最大の動力である。他のいかなる理想も、霊的理想と同じほどのエネルギーをわれわれの内部にそそぎ込むことをしない。人類の歴史が続く限り、これが事実であったし、またその力は死なない、ということは、われわれすべてにとって明かである。
「宗教は、あらゆる人の生得の権利であり本性である、あの無限のエネルギーを放出するための最大の原動力である。人格の形成にあたり、善き、偉大な一切のものを造るにあたり、他者に平安をもたらし、自分自らに平安をもたらすに当たって、宗教は最高の動機力である」
彼自身の態度
さまざまの宗教に対する彼自身の態度についてスワミジーは言っている、「私は過去にあったすべての宗教を認め、彼らと共に礼拝する。それらの宗教がどのような形で神を礼拝しようとも、彼らの各々を通じて、私はその神を礼拝する。私は回教徒のモスクに行こう。キリスト教会に入って十字架の前に膝まづこう。仏教寺院に入ってブッダと彼のおきてに避難しよう。森に入り、あらゆる人のハートを照らす光を見ようとしてすわっているヒンドゥと共に瞑想しよう。これらすべてを実行するだけでなく、未来に来るべき一切の宗教に対してもハートを開こう」
宗教の実践
さまざまの宗教が、人々の実際生活に関心を示しています。さまざまの行為のおきてや修行の法則を定めています。ゴールに到達するためには修行は実践されなければなりません。実践は非常に重要です。スワミジーは言っています、「1オンスの霊性の修行は、何トンもの空しいおしゃべりや不必要なセンティメントに優る」と。
「あなたの生活をもって、宗教は言葉でも名前でも宗派でもない、霊性の悟りである、ということを示せ。それを経験した人々だけが、他にそれを話すことができる。人類の偉大な師となることができる。彼らのみが光明に力なのである」と。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダこそは、人類にとっての光明の、そのような力でありました。