スワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祝賀会の講話

一九八五年一月及び三月 

誕生と少年時代

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは一八六三年一月十二日、カルカッタにおいて、シュリ・ヴィシュワナート・ダッタとシュリマティ・ブワネシュワリ・デヴィとの間に生まれ、出家するまではナレンドラナート・ダッタと呼ばれていました。ダッタ家は富裕で社会的地位が高く、その学識と慈善的行為によって人に知られていました。ナレンドラの祖父は学者であり、法律に通じていましたが、二十五歳のときに世を捨てて僧になりました。父は、学識のある人で、カルカッタの高等裁判所の弁護士として開業していました。生来慈善心に富み、寛大な人でしたが、宗教に関しては不可知論者でした。母は深い信仰者で、ナレンドラの幼い心に宗教の種子をまきした。彼の生まれる前、彼女は信仰深いインドの母親たちがよくするようにある誓いを立て、家の誉れとなるような息子をお授け下さいとシヴァ神に祈ったのでした。ある夜彼女はシヴァ自らが息子としてお生まれになるという夢を見ました。眼がさめたとき、心は喜びに満たされていました。ブワネシュワリ・デヴィはヒンドゥの二大叙事詩ラーマーヤナとマハーバーラタの中の多くの章句を暗唱することができました。ナレンドラは幼時にこれらの叙事詩の中のさまざまの物語を母親から学んだのでした。子供のときから瞑想を行い、強い集中力を示しました。

 ナレンドラはさまざまの才能に恵まれ、それらのすべてを伸ばしました。彼の風采の群を抜いた美しさは、その勇気と実によく釣り合っていました。彼はスポーツマンの体格と美しい声と、輝く知性を備えていました。趣味は、フェンシング、レスリング、ボート、体操、料理から、器楽および声楽、哲学および文学の研究にまで及んでいました。真理を愛し、純潔さを熱愛し、独立の精神と優しい心をもっていました。彼はこの上もなくハンサムな青年に成長しました。厳しい宗教的純潔の誓いを立て、身も心も、いささかでも汚れることを許しませんでした。

 カレッジ在学中に西洋哲学を学び、ヨーロッパの歴史に親しみました。すべての教師が彼のゆたかな可能性を認めました。カレッジの学長ヘイスティ氏は彼についてこう言いました、「ナレンドラは本当に天才だ。私はひろく旅をしたけれど、ドイツの大学の哲学の学生たちの間にさえ、彼ほどの才能と可能性を持つ若者を見たことはない。彼は必ず名をなすであろう。」と。

 年若いころから、彼は深い霊的衝動を感じて、厳しい行を実践しました。厳重に菜食を守り、禁欲生活のきびしい規則に従って土の上に眠りました。常に長時間瞑想していました。若い時から、将来への二つの構想が彼の前に姿を現していました。一つの中には、富と力と名誉のすべてを備えた世の偉大な人々の中に彼自身がおり、彼は、自分はそれらのすべてを獲得する力量をそなえている、と感じました。もう一つの中には、すべての世俗の事物を放棄して、最も簡素な衣服をまとい、托鉢によって生き、木の下に眠る自分が見いだされ、彼は、自分はこのようにして古代インドの聖者たちのように生きることもできる、と感じました。彼はこの第二の道を選び、放棄によってのみ、人は最高の至福を得、人生の目標に達することができるのだ、という確信を得たのです。

 西洋哲学の研究の結果、彼の少年時代の神および宗教への信仰はぐらつきました。単なる信仰に基づく宗教を認めることができず、彼は神の存在の証拠を求めました。まもなく、単なる推理は人間の心を満足もさせないし、誘惑を受けたときに人を助けることもしない、と悟りました。彼は、神を悟っており、そのことを証明して、自分が人生の目標に達するのを助けてくれるような人を探しました。

宗教的探求とシュリ・ラーマクリシュナ

 彼は宗教的指導者シュリ・ケシャブチャンドラ・センにひかれて、宗教団体ブラフモ・サマージに加わりました。しかし、サマージの中には自分は神を見たと言う霊的な人を見いだすことはできず、従って彼の渇望は満たされませんでした。熾烈な渇仰心を抱いて何人かの宗教指導者に会いましたが、彼らからは何の助けも得ることができませんでした。

 心の闘いと魂の苦悩を経験しつつ、ナレンドラはドッキネッショにシュリ・ラーマクリシュナを訪れました。ところが、彼に対するシュリ・ラーマクリシュナの態度は実に奇妙で、彼はこのサードゥは少し気が狂っているのだろうと思いました。親切にナレンドラを迎えて、シュリ・ラーマクリシュナはこう言ったのです、「ああ、なんとお前の来ようの遅かったこと。なぜお前は薄情にも私をこんなに待たせたのかね。私の耳は世俗の人々の無意味な言葉にうんざりしているのだ。おお、私はどんなに、私の心を、私の教えを受けるにふさわしい人のハートにつぎ込みたいと願ってきたことか」 こう言いながら、シュリ・ラーマクリシュナはすすり泣いていました。それから、彼の前に立って、合掌しつつ、こう言いました、「主よ、私はあなたがナーラーヤンの化身、あの古代の賢者ナーラでいらっしゃることを知っています。あなたは人類の辛苦を除くためにこの世にお生まれになったのです」

 ナレンドラはこんな言葉を聞いてびっくりし、シュリ・ラーマクリシュナは狂っている、と思ったのです。しかし、彼が他の人々と話すのを見ていると、その言葉にも、振舞いにも、おかしいところや間違ったところは少しもありませんでした。むしろ、彼の言葉と生活ははっきりと一致しており、彼は純粋な放棄の人と思われました。ナレンドラは彼に、今までしばしば他の人に向かって発していた質問を発しました、「師よ、あなたは神をご覧になりましたか」 シュリ・ラーマクリシュナが答えました、「ああ、私は、いまお前を見ているのと同じように彼を見る。ただ、もっともっと強烈に見るのだ。神は悟ることができるものだ」

 ナレンドラは非常に驚きました。人が、自分は神を見たと言うのを聞くのは初めてだったのです。ナレンドラは彼の言葉を疑うことはできませんでした。しかし彼は、その前にシュリ・ラーマクリシュナが自分に関して言った言葉の意味は理解することができませんでした。二度目の訪問のとき、彼は不思議な霊的な経験をしました。シュリ・ラーマクリシュナの一触れによって圧倒され、部屋の壁を含む周囲の一切のものが渦を巻いて消えるのを見たのです。彼は自分のエゴと個人性が失われようとするのを感じ、非常な恐怖に襲われて叫びました。もう一度手を触れることによってシュリ・ラーマクリシュナは、ナレンドラを通常の状態に戻しました。ナレンドラは、どうしてシュリ・ラーマクリシュナが、自分のような強い人間の心に突然このような変化をもたらすことができるのか、理解することができませんでした。彼は非常にとまどい、この奇妙な人物には用心をしようと心に決めました。彼がどういう人であるのか、判断がつきかねたのです。しかし、三度目の訪問のときにも、うまく行きませんでした。このときもやはり、師の一触れで完全に意識を失いました。この状態にある間に、シュリ・ラーマクリシュナは彼に、彼の霊性の祖先たちのことや、この世における使命に関することや、地上の生命の長さのことなどを尋ね、彼自らがすでに知り、推察していた賢者であることを、また、彼が自分の本性を知ったときには、高いヨガの状態の中で、すなわち自分の意志によって、自分の肉体を捨てるであろう、ということを確信したのです。

 さらに何回か会っているうちに、シュリ・ラーマクリシュナは気が狂っているのではないか、というようなナレンドラの疑いは完全に晴れました。シュリ・ラーマクリシュナの潔白、純粋さ、誠実さ、放棄心および非利己性は疑いの余地のないものでした。しかし尚、彼はシュリ・ラーマクリシュナを自分の霊性の師として受け入れることはできませんでした。ブラフモ・サマージのメンバーとして、神を悟るに師弟の関係は必要ではない、と考えていたのでした。彼はシュリ・ラーマクリシュナの神のヴィジョンを幻想であると思い、しばしば、厳しく批判しました。しかしやがてナレンドラも、シュリ・ラーマクリシュナを自分の霊性の指導者として、師として認めるようになりました。

 シュリ・ラーマクリシュナは、自分の経験と悟りを疑う人物を送って下さったことを母なる神に感謝されました。しばしば、彼はナレンドラに、両替屋が貨幣の真偽を試すように、自分をテストせよ、と言われました。ナレンドラによるあらゆる確認の試みに応じられました。限りなくナレンドラを愛し、彼を離れていることには耐えられないようでした。しばしば、彼に会いたいと言ってひどく泣きました。あるとき、ナレンドラがこのことをとがめると、師はこう答えられました、「母なる神は、私はお前の中に神が見えるからお前を愛するのであって、もし神が見えなくなったら、お前の姿を見ることさえいやになるであろう、とおっしゃるのだよ」と答えられました。

シュリ・ラーマクリシュナによる訓練

 シュリ・ラーマクリシュナに接するまで、ナレンドラは宗教の問題に関しては知的な理解しか得ていませんでした。師の導きを受けるようになると、彼は知性の世界から、師が生き、かつ動いておられる霊性の世界に移らなければなりませんでした。彼の西洋哲学の知識は確かに、後年、彼がヴェーダーンタを説き、人々に教えたときには非常に役に立ちました。しかし、まず第一に、彼は霊的経験を得なければなりませんでした。ヴェーダーンタはその経験の知的解説であるに過ぎないのです。彼の師から伝授されたこの直接経験なしには、ナレンドラは真の教師、すなわち師の正しい霊的世継ぎにはなれなかったのです。

 師はナレンドラを、アドワイタ・ヴェーダーンタ、すなわち非二元ヴェーダーンタ哲学の教えで訓練しようとされました。しかし、ナレンドラはまだブラフモ・サマージの教義に執着していて、人をその創り主である神と一つであると見ることは冒涜である、と考えていました。彼はある日友達に向かって笑いながら、「何という馬鹿げたことだ。この水差しは神。この茶碗は神。われわれが見るものはすべて神。そしてわれわれも神なのだ。こんなおかしなことはない」と言いました。シュリ・ラーマクリシュナは、ただ思っただけで、または一触れしただけで、他者に霊性を伝えることができるのでした。彼はナレンドラのこの言葉を聞いて、そっと彼の体に手を触れました。たちまち彼は、この世の一切物がほんとうに神であることを見ました。彼の周囲に新しい世界が開けたのです。ドッキネッショルから家に帰ると、彼は、食物も、皿も、食べている彼自らも、まわりにいる人々も、すべてが神であることを見ました。街を歩くと、馬車も馬も、建物も、人の流れも、すべてがブラフマンであることが分かりました。両親は心配して、彼が病気になったのだと思いました。この経験の強さが少し薄らぐと、彼はこの世界が一つの夢であることを見ました。彼が通常の自分に戻るまでには、かなりの日数がかかりました。彼はやがて得るはずの偉大な経験を前もって味わい、ヴェーダーンタの教えが真理であることを悟ったのでした。

 シュリ・ラーマクリシュナが一方でナレンドラを訓練しておられる間に、人生のこの時期に彼が得た経験が均衡のとれたものであるようにと、他方で逆境が彼を訓練しました。一八八四年の初めに、ナレンドラの父親が心臓の発作で突然亡くなり、家族を極度の窮乏の内に残したのです。家には六、七名、養わなければならない人がいました。長男でしたから、彼は全責任を負わなければなりませんでした。債権者たちは戸を叩き、父の恩顧を受けていた者たちが今は敵となって、ある者は祖先伝来の家を奪うべく訴訟を起こすことまでもしました。ナレンドラは職を探しましたが、見つけることができず、しばしば食を欠くことさえありました。これは彼の生涯の最も危機的な時期でした。世間との接触は彼に、無私の同情というものはこの世ではごく希であって、この世間には弱い者たち、貧しい者たちのための場所はないものだ、ということを教えました。二人の富裕な女性がよからぬプロポーズをして、彼の困難を解決することを約束しましたが、彼は軽蔑をもってそれを拒否しました。

 ナレンドラは、神が存在することすら疑う、と言い始めました。友人たちは、彼が無神論者になったのだと思いました。彼の道徳的性格がそしられ、さまざまのうわさがシュリ・ラーマクリシュナのもとに届きました。弟子の一人がナレンドラの堕落を嘆きました。しかし、シュリ・ラーマクリシュナは答えられました、「おだまり、愚か者。母が私に決してそんなことはない、とおっしゃったのだよ。二度とこんなことを言おうものなら、私はお前を見るのもいやになるよ」と。

 ナレンドラの苦悩が極限に達するときが来ました。彼は一日中、ものも食べずに歩き回ったのでした。夕方家に帰ろうとしたときには、歩くこともできかねるほどでした。疲れきって、とある家の前に座ってしまいました。考えることもできないほど弱っていました。彼の心はさまよい始めました。そのとき、突然神の力が彼の心からヴェールを上げました。彼は、神の正義の中に不幸が共存する、という難問、至福にみちた神の摂理の創造の中に苦しみが存在する、という難問の解決を得たのです。彼は肉体に新たな力を得、心は平安にみちているのを知りました。

 ナレンドラは今や、自分は果たすべき使命を持っているということを悟りました。世を捨てる決意をして、祝福を乞いにシュリ・ラーマクリシュナを訪れました。しかし、ナレンドラが口を開く前に、師は彼の心中を知り、ひどく泣きました。そして彼に言いました、「私は、お前は世俗の生活を送ることはできない、ということを知っている。だが、私のために、私が生きている間は世間に住んでおくれ」と。

 ナレンドラはどこにも職を得ることができず、母や弟たちは家で飢えていました。最後の依りどころとして彼は師のもとに行き、あなたの母なる神に救いを願って下さい、とせがみました。しかし師は彼に、自分でカーリ女神の聖堂に行き、欲することをお願いせよ、とすすめました。ナレンドラは、母カーリの聖堂に入りました。神像に眼をやると、彼は母なる神がそこに生きておられ、意識を持っておられることを知りました。彼女は神聖な愛と美のつきることのない泉だったのです。ナレンドラは愛と信仰の高まりに圧倒されました。喜びの恍惚感の中で、彼は世間を忘れ、母カーリの前にひれ伏して、識別と放棄と、知識と信仰をお願いしました。小さな世俗の事物など、祈ることができなかったのです。聖堂から戻って来ると、シュリ・ラーマクリシュナは、貧しさと不幸を除いて下さるようお願いしたか、と尋ねられました。師はそれができなかったことを責め、もう一度行って来いと命ぜられました。しかし、ナレンドラは彼女のおん前に立つとまた、やって来た目的を忘れてしまいました。彼は師の命令で三度行き、やはり世俗の願いは口にしないで戻って来たのです。聖堂から出て来ると突然、これはすべてシュリ・ラーマクリシュナの仕業であった、という思いが心中にひらめきました。今度はナレンドラは、彼の貧苦を除いて下さるよう、シュリ・ラーマクリシュナにお願いしました。師は、ナレンドラは世俗の楽しみを味わうようには運命づけられてはいないのだ、と洩らされました。そして、彼の家族は、簡素な衣食には事欠かないであろうとおっしゃいました。

 これは、ナレンドラにとって実に豊かな、意義深い経験でありました。このこと以後、彼は、聖堂に安置された彼女の御像を通じて、母なる神を礼拝することの意義を理解しました。それまでは、人格神を拝むことには反対だったのです。シュリ・ラーマクリシュナは、ナレンドラの回心を見て非常に喜ばれました。ナレンドラは今は神、普遍なる神は天地万物に内在するということ、宇宙を放出した後にそれは生命および意識としてすべての被造物の中に入ったのであるということを理解しました。同じ内在の霊、すなわち至高の魂が宇宙を創造し、維持し、破壊する人格として見られたとき、人格神と呼ばれるのです。人格神は、さまざまの宗教により、母、父、主、または愛人というようなさまざまの関係で礼拝されます。ナレンドラは、これらさまざまの関係がおのおのふさわしいシンボルを持ち、母カーリはその中の一つであるのだ、ということを理解しました。ナレンドラの霊的生活はこのように、シュリ・ラーマクリシュナの訓練によって豊かになり、彼は神についての新しい理解を持つようになったのです。

 あるとき、シュリ・ラーマクリシュナはヴィシュヌ派信者の三つの戒めを説明しておられました。(ヴィシュヌ派は二元論を説く宗派です)すなわち、神の御名への愛、すべての生き物への慈悲と、主の信者たちへの奉仕です。すべての生き物への慈悲という言葉をあげて、師は半意識の高い状態で、まるで自分自らに言うかのように、「慈悲などと言うとは何という愚かなことか。人は地をはっているつまらない芋虫だ。その人間が他者に慈悲を示すなどとは。これは途方もない話だ。これは慈悲であってはならない。すべてのものへの奉仕であるべきだ。彼らを神の現れと見て、彼らに仕えるべきなのだ」とおっしゃいました。師のこの言葉を聞いた信者たちはほとんど、内にこもっている意味を理解しませんでした。ナレンドラの鋭敏な心は、彼の教えの精妙な意味を受け取りました。この言葉から彼の「実践的ヴェーダーンタ」の構想が生まれたのです。

 一八八五年の半ば、シュリ・ラーマクリシュナは喉頭癌にかかり、やがて、医療の便宜のために、カルカッタの北にあるコシポルという所の、ある別荘に転地されました。ナレンドラの指導のもとに、若い弟子たちが看護をしました。しばらくの間学校を休んで、師に付き添ったのです。ひまがあると、彼らは瞑想をしたり、聖典を学んだり、賛歌をうたったり、聖典を論じたりしました。ナレンドラは彼らにとって、絶えざるインスピレーションの源泉でした。シュリ・ラーマクリシュナの純粋かつ無私の愛とその偉大な人格に引き付けられて、ナレンドラを始めとする若い弟子たちは一つの家族よりも緊密に団結しました。

 ある日、ナレンドラは、他の弟子たちが医師から聞いた話として、師の病の伝染性のことを云々しているのを聞きました。彼は、そこに師の食べかけて残された、従ってこの致命的な病のばい菌を含んでいるかも知れない、粥の椀があるのを見ました。彼はその椀を取り上げて、一同の見ている前で一息にそれを飲み干しました。以後、弟子たちの間にその問題は取り上げられなくなりました。

 最善の医療が施されているにもかかわらず、シュリ・ラーマクリシュナの病は回復には向かいませんでした。師の最後が近づくにつれて、ナレンドラの神の自覚への渇望はますます激しくなりました。ある日、彼は、師に、アドワイタ・ヴェーダーンタの最高の悟りの状態であるニルヴィカルパ・サマーディを懇願しました。彼は、ごくわずかの食物をとるとき以外は破られることなく、連続して三、四日間、その状態を続けたい、と言って熱意を示しました。しかし、師は彼を厳しく戒めてこう言われました、「何を言うのだ。お前はそんなつまらぬものを求めているのか。それよりも高い境地があるのだよ。『あなたは存在するすべて』と歌っているのはお前ではないか。私は、お前は枝をひろげて幾千の人間をその下にかくまい、世間の焼きこがすような苦しみから救ってやる大きなバニヤンの木のようになるだろうと思っていたのだ。ところがいま見ると、自分自身の救済を求めているようだ」 このように叱られて、ナレンドラは涙を流し、シュリ・ラーマクリシュナの偉大さを悟ったのでした。

 ナレンドラのハートには熾烈な火が燃えさかっていました。神を見たいという、燃えるような願望に取り付かれていたのです。彼は夜な夜な、かつて師が厳しい修行をされたパンチャヴァティの木々の下で瞑想を続けました。さまざまの霊的ヴィジョンを得、最高の経験を欲していました。死の数日前、師はナレンドラに、ニルヴィカルパ・サマーディの経験を恵まれました。ナレンドラは師の指示のもとに瞑想していて、最高の経験を得たのです。数時間の後、彼は通常の意識に戻って至福にみたされていました。師のもとに行くと、師はこのように言われました、「これで母がお前に一切をお見せになった。しかしこの悟りは、箱に鍵をかけて宝石をしまっておくように、お前からはかくして、私が預かっておく。鍵は私が持っていよう。お前がこの世における使命を果たした後に初めて、箱は鍵があけられるだろう。そしてお前は、今知ったように、一切のことを知るだろう」と。

 弟子たちは、悲しみに満ちて師の体の衰弱を見守りました。それは皮膚に覆われた骸骨でした。ささやくこともできず、彼は紙片に、「ナレンドラが皆を教えるだろう」と書かれました。

 ある日、シュリ・ラーマクリシュナは、若い弟子たちにゲルア、すなわちサフラン色の僧衣をわかち与えられました。彼らが将来出家して師の教えの伝道者となるべきことを意味するものでした。彼はナレンドラにこう言われました、「私は彼ら全部をお前に預ける。私が死んだあとも、彼らが修行をつづけ、家には帰らないよう、面倒を見てやっておくれ」と。またある日、彼はナレンドラを側近く呼び寄せ、じっと彼を見つめながら、深い瞑想に入られました。ナレンドラは、精妙な力が全身を通るように感じて、外界の意識を失いました。彼が通常の状態に戻ったとき、シュリ・ラーマクリシュナは、「おお、ナレン、今日、私はお前に私のすべてを与えて、一介のファキル、一文なしの乞食になってしまった。私が授けたこの力によって、お前は偉大な仕事をするだろう。それをなしとげて初めて、お前は自分の来たところへ戻って行くことができるのだよ」と言われたのです。

 シュリ・ラーマクリシュナはしばしば、他の弟子たちや信者たちに向かって、ナレンドラが霊性の高い世界に属していること、彼が特別の使命を果たすために生まれてきているのであることを強調されました。彼はひそかにナレンドラと、彼が将来、兄弟弟子たちと共に組織すべき僧団について話し合われました。ナレンドラはこのように、将来の指導者として選ばれ、訓練されたのです。彼はシュリ・ラーマクリシュナの力の通路となり、彼の教えのスポークスマンとなったのです。ナレンドラについてシュリ・ラーマクリシュナの言われたことのいくつかは紹介する価値があるので、その二、三を引用します。

 「ナレンドラは非常に高い段階に属している――絶対者の領域である。彼は男性的な性質を持っている。実に大勢の信者がやってきたが、彼のようなのはいない。

 「ときどき、私は信者たちの検査、品定めをする。ある者たちは十弁の蓮華のようだ。ある者たちは百弁の蓮華のようだ。しかし、さまざまの蓮華の中で、ナレンドラは千弁の蓮華だ。

 「他の信者たちは壷か水差しのようだ。しかし、ナレンドラは巨大な樽だ。

 「ナレンドラは何物にも支配されない。彼は執着にも感覚の楽しみにも支配されない。‥‥私は集まりの中で、ナレンドラが私のそばにいると大きな力強さを感じる」

バラナゴルの日々

 シュリ・ラーマクリシュナの死去の後、直ちに彼の肩にかかった任務は、若い弟子たちの集団を保持することでした。彼は、彼らに師の生涯の意義を説明し、彼の教えに従って生活し、彼の教えを広めるにふさわしい道具となるよう、熱心にすすめました。ナレンドラに鼓舞されて、若い弟子たちは世を放棄し僧となりました。ドッキネッショルとカルカッタとの中間にあるバラナゴルに、質素な僧院が誕生しました。新生活を記念して、若い弟子たちは自分たちの古い名前を変え、この国の伝統に従った新しい名を名乗りました。ナレンドラは、人目を避けて幾たびか名を変えました。アメリカに向かって出発する前夜、スワミ・ヴィヴェーカーナンダという、この有名な名を名乗ったのです。

遍歴僧

 僧院では、若い弟子たちは瞑想、学問、および祈りと、厳しい修行の生活を送りました。彼らは非常な貧しさに直面しなければなりませんでしたが、彼らの心は喜びに満たされていました。スワミジー(スワミ・ヴィヴェーカーナンダを、ほかの弟子たちはこのように呼びました)は、兄弟弟子たちが単に無味乾燥な厳格な僧になることを欲しませんでした。彼らが世界の思想の流れを消化して広い見解を持つことを望み、彼らに東西両洋の哲学、比較宗教学、歴史、社会学、芸術、および科学を教えました。僧たちの大部分は、遍歴の生活にあこがれ、落ち着かなくなり、一人また一人と、完全に主のみに頼る孤独の生活を求めて、僧院を出て行きました。一八八八年の終わりには、スワミジーもときどき僧院を出るようになりました。

 一八八八年彼が短い旅を目指して初めて出かけたときと、一八九〇年彼が兄弟僧たちと別れ、無名の托鉢僧として独りで旅行したときとの間に、スワミジーの上には、ものの見方の著しい変化が起こりました。孤独の生活を求めるインドの僧の自然の願望は、もはや彼を苦しめませんでした。彼は、自分は偉大な運命を成就しなければならないのだ、ということを、自分の生涯は自己の救済を求めて苦闘する普通の世捨て人のそれとは違うのだ、ということを感じたのです。インドをもっとよく知るために、彼はまず第一にヒンドゥの最も聖なる都バラナシを、それから北インドの各地をまわりました。マドラスでは、彼の最初の弟子となった駅の助役シュリ・シャラトチャンドラ・グプタに会いました。彼は彼に、インド並びに世界の霊的更生を助けるという、彼が師から託された任務を明かしたのでした。

 一八八九年十二月にはバラナゴル僧院に帰り、一八九〇年七月には兄弟僧たち、および、師の没後、若い弟子たちの霊的指導者であられたホーリーマザーに別れを告げました。一触れで他者を変容させるほどの悟りを得るまでは帰るまいと決意したのです。すべての絆を断ち切り、孤独になることが絶対に必要であると感じたのでした。ロマンロランは書いています、「これは偉大な別離であった。潜水夫のように、彼はインドという大海に身を投じたのである。そしてインドという大海は彼の行方を隠してしまった。捨てられた荷物、海に漂う荷物の間で、彼は幾千というサフラン色の衣をまとったサンニヤーシンにまじる無名の一僧侶以外の何者でもなかった。しかし、天才の炎が、彼の眼の中に燃えていた。いくら身を隠しても、彼は王者であった」と。

 彼は全インドを大方徒歩で旅しました。到るところで古代インドの栄光が生き生きと姿を現し、大衆の貧しさと不幸が彼の心を捉えました。彼は社会のあらゆる階級に属する無数の人々と接触しました。ある学者たちと、マイソールのマハラージャとが、西洋に行って、ヒンドウイズムの「永遠の宗教」を説き、彼らにインドの救済に協力するよう頼むことを勧めました。

 三年間の旅の後、彼はインドの南端、カニヤ・クマリの寺院に来ました。彼は深い感動をもって、母なる神クマリの像の前にひれ伏しました。彼は南の海岸の向こうにある岩まで泳いで渡り、そこにすわると、終夜、深い瞑想に入りました。彼はインドの過去、現在、未来を、その没落の原因を、回生の手段を瞑想しました。そして、西洋に行き、彼の生涯の使命を実現させるという、かの重大な決意をしたのです。

 スワミジーは、インドが幾世紀にわたって蓄積してきた、そして彼が師から受け継いだ、豊かな霊的資産と交換に、インドの大衆を救うための資金を彼らから得よう、と考えたのでした。厳しい修行と自制によって、スワミジーは莫大な霊性の力を蓄えていました。彼みずから、さまざまの霊的経験をしていました。彼は、それらのすべてを、人として現れている神への奉仕に使うべきだと考えたのです。

 予言者的な眼力によって、彼は、宗教をインド民族のバックボーンだ、と見ました。インドは、彼女をすべての宗教のゆりかごたらしめたあの霊的意識が更新し、復活すれば立ち上がるでしょう。彼は、宗教がインドの没落の原因である、と主張する、外国の批評家やそれに賛成するインド人たちには同意しませんでした。彼は、人の内に神が存在する、という知識が、人に強さと叡知を与えるのである、ということを発見したのです。彼は、インドの文化は放棄と奉仕という二つの理想によって創造され、維持されて来たのである、ということを知りました。

 彼はラームナードを経てマドラスに来ました。そこに、アラシンガ・ペルーマルをかしらとする一団の若い弟子たちが待っていました。彼は、シカゴで開かれるはずの世界宗教会議に出席するために、アメリカに行く、という意図を彼らに示しました。自分が行くことは母なる神の思召しであるのかどうか、彼はまだ確信は得ていなかったのですが、折しも彼は象徴的な夢を見ました。シュリ・ラーマクリシュナが海上を歩いてゆき、彼をかえりみてついて来るようさし招かれたのです。その上に、ホーリーマザーがこれをゆるし、祝福を与えられました。彼は一八九三年五月三十一日、アメリカに向かって出発しました。

アメリカでのスワミジー

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは支那、日本およびカナダを経て一八九三年七月、シカゴに到着しました。カントンではある仏教の僧院を見、日本では産業の進歩と人々の清潔さに感心しました。シカゴでは、西洋の富と発明的天才に驚嘆しました。彼は、宗教会議は九月まで開かれないことと、信任状を持っていない者は出席できない、ということを知りました。彼は信任状は持っていなかったので途方にくれました。彼は一切を主の思召しに任せました。彼は汽車旅行の途中で独りの婦人と知合い、彼女の紹介で、ハーヴァード大学の教授ヘンリー・ライトから会議のチェアマンにあてた紹介状のもらいました。この手紙の中にヘンリー・ライトは、「この人はわれわれ学者たちのすべてを束にしたよりもっと優れた学者である」と書きました。

 会議は一八九三年九月十一日に開会されました。会場は、この国の最善の文化を代表する約七千人の人で埋まりました。スワミジーはまだ一度もこんなに大勢のしかも著名な人々の集まりの前では話をしたことがありませんでした。その上に、学識ある講演者たちのすべてが、原稿を用意してきているのに、彼は何の準備もしていませんでした。彼は非常に緊張しました。自分の番が来ると、学問の女神サラスワティに心の中で頭を下げ、「アメリカの兄弟姉妹たち」という言葉で話を始めました。すると雷鳴のような拍手が起こり、これは二分間も続きました。次の日、諸新聞は、彼を宗教会議最大の人物と書き立てました。すべての代表が自分の宗教のことを語ったのですが、スワミジーは宗教の普遍性について話したのです。彼はこう言いました、「私は、自分が世界に寛容性とすべてを認めることとを教えた宗教に属していることを誇りにしています。私たちは、何にでも我慢する、というのではなく、すべての宗教が真理である、と認めるのです」と。最後の会合の席上、彼はこう言いました、「もし誰かが自分の宗教だけが生き残って、他はすべて滅びる、などと夢想するなら、私はその人を心の底から憐れみます。そして、彼に向かって、いくら反対しても、まもなくすべての宗教の旗じるしとして、『戦うな。助け合え』『 破壊するな。同化せよ』『調和と平安がある。不和ではない』と書かれるようになるであろう、と指摘します」と。

 会議が終わった後、方々の都市をまわって講演をしました。西洋滞在は一九八六年十二月まで続き、終始超人的活動が続けられました。多くの講演会や教室を開いただけでなく、ニューヨークにヴェーダーンタ協会を設立しました。サウザンドアイランドパークで一団の親密な弟子たちを訓練し、書物、ラージャ・ヨガを書きました。二度イギリスを訪れ、そこで行なった講演は、いま、ジュニャーナ・ヨガ講演集としてまとめられています。イギリスで何人かの弟子を得ましたが、その中で特筆すべきは、キャプテン・セヴィヤとシスター・ニヴェーディタ、およびE・T・スターディです。J・J・グッドウィンはニューヨークで彼の弟子となりました。ヨーロッパの旅行中は、彼はマクス・ミュラー、パウル・ドイッセンのようなドイツの東洋学者たちに会いました。

 スワミジーは、彼のヴェーダーンタの教えを、すべての宗教の基礎である普遍の原理として西洋に伝えるべく、並々ならぬ努力をしました。そして彼の努力は実り、ヴェーダーンタの活動は恒久的な形で西洋に根付きました。彼のもろもろの講演によって西洋はインドを正しく理解し始め、インドは彼の成功によって自らの偉大さを意識するようになりました。スワミジーが西洋に行ったのは助けを乞うためだけでなく、彼はその地の人々のためにも、一つの使命を帯びていたのです。西洋人に向かって、その物質主義を見限り、ヒンドゥの古代の霊性から学ぶことを求めました。彼は、価値の交換のために働いたのでした。彼は西洋人の中に偉大な諸徳を認めました。エネルギー、積極性、および勇気など、インド人に欠けているものでした。彼は自国の人々に、西洋の科学や技術の知識を学ぶことを求めました。

インドに帰る

 スワミジーは一八九六年十二月一六日、インドに向かってロンドンを出発しました。

 一八九七年月一月十五日、セヴィヤー夫妻とグッドウィンとをともなってコロンボに着きました。彼の帰国の知らせはすでにインドに届いており、あらゆる地方の人々が熱心に到着を待ち受けていました。彼はもはや無名の一僧侶ではなく、世界的に有名な人物であり、教師でありました。コロンボで盛大な歓迎会が催されました。マドラスでは彼は五回講演をしました。彼はインドでは民族の生活の基調は、全宇宙が霊的に一つであることを説く宗教である、ということを強調しました。人々が盲目的に西洋の真似をすることを、また古い迷信や偏見に執着することを批判しました。同胞に向かって、弱さを捨て、新しい、強いインドをつくり上げることを求めました。彼はカルカッタに、一八九七年二月二十日に着きました。盛大な歓迎に応え、スワミジーはシュリ・ラーマクリシュナについてこのように言いました、「もし何か、私の思いか言葉か行いで成し遂げられたことがあるとするならば、もし私の口からこの世の誰かを助けるような言葉が洩れたとすれば、それは私のわざではありません。それは彼のなさったことです」と。彼は最後にこう言いました、「もし国民が立ち上がりたいと思うなら、私の言葉をお信じなさい。彼の名のもとに集まらなければなりますまい」

 彼の仕事を確固とした基礎の上にのせるために、スワミジーは一八九七年、僧および在家の信者たちをそのメンバーとして、ラーマクリシュナ・ミッションを設立しました。スワミジーが提唱したその目的と理念は、純粋に霊的な、人道的なものでした。彼は西洋人の弟子たちを伴って巡礼に出かけ、シスター・ニヴェディターをインドのために働けるよう訓練しました。彼はアマルナートとクシル・バヴァニを訪れ、大きな霊的経験をしました。

 最初の二年半の間になされた仕事は、今ベルル僧院と呼ばれている新しい僧院の建設、ベンガル語と英語の二つの雑誌の発刊、ニヴェディター女学校の設立、およびヒマラヤ山中マヤヴァティでの新しいセンターの建設でした。僧院のモットーは二つ、自己の救いと神の現れである人への奉仕でした。一八九九年六月、西洋での仕事を確固たるものにするためと、健康の回復を目的に、スワミジーは再び西洋に渡りました。

二度目の西洋訪問

 スワミ・トゥリヤーナンダとシスター・ニヴェディターとがこの旅に同伴しました。船は七月三一日にロンドンに着き、二週間をロンドンで過ごした後、彼はニューヨークに渡りました。スワミジーの健康は船旅の後著しく回復し、彼はもう一度アメリカの人々にあの偉大なメッセージを伝えることに心魂を傾けました。彼は広く動き回り、ロスアンゼルス、サンフランシスコ、パサディナ、オークランドなどの諸都市に深い感動を与えました。そこに新しい二つのヴェーダーンタ協会が誕生しました。

 東洋と西洋は互いに助け合うべきである、という確信は、彼の心中で一段と強くなりました。彼はシスター・ニヴェディターに、「西洋の社会生活は笑いに満ちているようだが、その陰には号泣がある。最後はすすり泣きに終わるのだ。インドの生活は表面では悲しげで陰気だが、下の方は無頓着で楽しんでいる。西洋は外の自然を征服しようと試み、東洋は内なる自然を克服しようと試みた。いまは東洋と西洋は手に手をとって、各々の特徴を破壊することなく、互いの幸福のために働かなければならない。西洋は東洋から、東洋は西洋から、何れもたくさん学ばなければならない。事実、未来は二つの理想の融合によって生成されるべきものなのだ。そのときには、東洋もなければ、西洋もなく、一つの人類があるのみである」と言いました。

 ある手紙に、彼は書いています、「インドが滅びるか。もしそうなったら、世界からすべての霊性が消えるだろう。すべての道徳的完全さは消えるだろう。宗教に対する優しい同情はことごとく消えるだろう。すべての理想主義は消えるだろう。そんなことはあり得ない」と。

 驚嘆すべき活動を続けながらも、スワミジーは次第々々に内観的になり、近づきつつある終焉を意識しているようでした。彼は書いています、「私のボートは静かな波止場に近づきつつある。そこから追い出されることは決してない」

終わりに近く

 アメリカから、彼は宗教史会議に出席すべく、一九〇〇年八月一日、パリに来ました。ハンガリー、ブルガリヤ、コンスタンチノープル、アテネおよびカイロを経て、一九〇〇年十二月九日にベルル僧院に着きました。不意の帰還だったので、兄弟弟子たちや弟子たちの喜びは一通りではありませんでした。

 彼はキャプテン・セヴィヤーの死を聞いて、すぐにミセス・セヴィヤーを慰めるべくマヤヴァティに行き、一九〇二年一月三日から二週間、アシュラマに滞在しました。彼は現在のバングラデッシュ、東ベンガルとアッサムに巡礼しました。徐々に公の務めからは退き、あるときは賛歌をうたい、またあるときは周囲の人々を霊的に導いていました。バラナシでは、彼の教えに感動して礼拝の精神で病める人々を看ることを始めた若者の一団を見て、非常に喜びました。

 スワミジーは、自分の終わりが近いことを知っていました。彼は、大木の陰では小さな植物は育たない、だから自分は行かなければならないのだ、と言っていました。一九〇二年七月二日、彼はサマーディの中で自ら肉体を捨てたのです。

 スワミジーはその肉体を去りましたが、われわれが彼の言葉を読むとき、彼の次の言葉は常にわれわれに、彼が不死であることを保証しています。すなわち、「私は肉体を去った方がよい、と思うかも知れない。しかし私は働くことはやめない。世界が、それは神と一つである、ということを知るまで、到るところで人々を鼓舞するだろう」

メッセージ

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダの教えは、普遍真理の教えです。彼が説いたヴェーダーンタの宗教と哲学は、世界のすべての宗教の精髄を含んでいます。それは、あまたの宗派の中の一つ、というものではなく、それらすべてに共通する基礎であります。それは、さまざまの教義や実践修行の底に横たわる基礎的真理を説くものであります。ヴェーダーンタは、さまざまの能力を持つさまざまの求道者のために、さまざまの宗教的行路を推薦します。ヴェーダーンタは、世界のさまざまの宗教を、同一の至高実在に到達するためのさまざまの道である、と見ています。それらは、一つの永遠かつ普遍の宗教、人の神の探求のさまざまの表現なのです。

 ヴェーダーンタの中心真理は、人間は神性を具えている、というものであります。この神性を自覚することが、すべての宗教の、すべての霊的生活の目標であります。スワミジーは言っています、「宗教は、すでに人に内在している神性を現すことである」と。この神性を知ることが、人の進歩の秘訣であります。自分の神性を知るようになると、仲間の者たちの神性も見えるようになります。この世界のすべての人を包み込んでいる、一者のヴィジョンが明らかになるのであります。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、すべての人に対して限りない同情の心を持っていました。彼は、「私は、インドに属していると同じように世界に属している。どこの国が私に特別の要求などすることができるか」と言っています。この、人類への無限の愛が、スワミジーをしてヴェーダーンタの福音を説かせたのです。 

 彼の生涯と教えとは、文明の歴史の上に新しい時期を画する大きな力を与えたのでした。


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