最高をめざして 注釈
一九八八年六月十九日
十六 神とは誰か。この問いに対して、私たちは、ブラフマスートラの中に一つの定義を見いだします。「彼から、この宇宙の感情、存続、および解消は生じる。その彼が神、イシュワラ、バガヴァーンである」と、それは述べています。
彼は無限であり、唯一であり、不滅であり、永遠に自由です。彼は普遍の霊です。彼は全能であり、全知であり、慈悲そのものであります。彼はすべての師たちの師であられます。彼は「アニルヴァチャニヤ プレマスワルーパ、すなわち、表現不可能の愛」というべき性質である、と言われています。
神は、この宇宙の創り主です。彼はこの宇宙を、マーヤーという彼自身の力によって、彼自身を材料として創ります。彼はそれを維持し、支配します。創造の目的が達せられると、彼はそれを、彼自身の内に引き入れます。創造、維持、および解消の過程は、周期的な順序で永遠につづくのです。皇帝が一国を支配するのと同じように、神は宇宙を支配します。彼は、生きものに、彼らの善い働き、悪い働きに応じて、賞と罰を与えます。
神は無限である
私たちは、この「無限」という言葉の意味を、はっきりと理解しなければなりません。時間と空間に限定されず、因果の法則に縛られないものを無限と呼びます。それは時間と空間を超えており、すべての法則を超越しています。神は時間にも空間にも限定されてはおられません。彼は始まり、または誕生という原因をもっておられません。彼はみずから生じたものであって、絶対であり、自由です。
無限者はまた、ひとつでなければなりません。そうでなかったら、それは有限となるでしょう。もし、この無限者の傍らに何かが存在するとしたら、それはもう、無限者ではありません。それは、この対象によって、限定されています。したがってそれは有限になるでしょう。こうして、もし私たちが神は無限である、ということを認めるなら、私たちは、神以外のいかなるものの存在も、否定しているのです。そうでなければ、彼はそのものの存在によって限定されるでしょう。彼は、時間と空間と、原因結果の法則に服することになるでしょう。
もし私たちが、物質は神から離れて神の外に存在する、と言うなら、私たちは、彼を物質によって限定するいことになるでしょう。彼を、有限で死ぬ運命にあるものとすることになるでしょう。もし私たち自身を、神から離れたもの、彼から独立して存在しているものと考えるなら、私たちは心の中で、限定不可能な彼の性質を否定したことになるでしょう。
同じ理由から、この宇宙間には、神の存在から独立して、または神の存在の外に、存在することのできる、物質のたった一かけらもありはしません。もし彼が無限であり、一つであるなら、私たちの肉体および宇宙間のさまざまの一切物は、彼の中に存在するのです。これは多くの人々にとってびっくりするようなことかも知れませんが、哲学的には、これが真理です。これが、「無限」ということのたった一つの論理的な意味なのです。もし私たちが有限な何ものかを指して「無限」という言葉を使ったなら、それは完全に非論理的であります。
私たちが、神は無限であって一つである、と言うときには、私たちは、心と物質、主体と客体、創造者と被造物、およびすべての相対的、二元的存在はその偉大な存在の中に含まれている、ということを認めなければなりません。全宇宙は神の中にあり、神はそれの中におられるのです。全宇宙は神から離れることのできないものです。各人が彼の中におり、彼は一人ひとりの人の中におられるのです。私たちの一人ひとりが、彼の存在とは不可分の関係にあります。彼なしには、何ものも存在できないのです。これが、無限でそして一つ、という言葉の意味であります。
賢者は、神の中にすべての生きものを見、すべての生きものの中に神を見る。それだから彼は何びとをも憎まない。(イシャ・ウパニシャッド六)
見者にとっては、一切物はまさに神になった。この一者を見る人にとって、何の妄想、何の悲しみがそこにあろうか。(イシャ・ウパニシャッド七)
ここに一つの疑問が起こります。もし神のほかに何ひとつ存在しないのなら、私たちが感覚器官を通して認める宇宙のこのさまざまの現象は、どうなるでしょうか。彼らは存在するのですか。そうです。存在します。しかし彼らの存在は神に依存するものなのです。彼らは、離れた、独立した存在を持っているのではありません。彼らは、神であるところの、あの無限の知恵の大海の表面に現われるあぶくや泡や波のようなものです。波が海から離れては一瞬間も存在し得ないと同じように、世界の現象も、神があって初めて存在しているのです。
神は霊である
霊という言葉をどのように理解すべきでしょうか。それは、物質とは完全に異なります。それは影のような形や幽霊のような存在ではありません。霊という言葉が意味するのは、純粋な、みずから光り輝く知性です。それは、すべての意識の源泉です。すべての知識の根底です。心と物質の背景であり、主体と客体の背景であります。
神は永遠である
永遠なるものは如何なる変化もこうむりません。それは常に同じで普遍です。それには初めも終りもありません。初めのあるものには必ず終りがあります。それは誕生、成長、老衰および死という、すべての変化を経験しなければなりません。初めを持つ一切のものは、成長し、衰え、そして遂には死ななければなりません。時間と空間に限定されているものはことごとく、これらすべての変化を通過しなければなりません。神は時間にも限定されません。彼はいかなる変化をもこうむりません。ですから、彼は永遠である、と言われているのです。神の本性は、常に同じです。正義、善、慈悲と愛は、神の属性であります。
神は、すべての恵まれた性質の貯蔵庫である
神は、すべての善なるもの、すべての偉大なるもの、すべての崇高なものの貯蔵庫です。これらの善い性質は神の力の現れです。神みずからは、善悪を超えたところに、善徳と悪徳の彼方におられます。彼はすべての生きものを同等に公平に愛されます。彼は、ある資格のゆえにある民族を愛し、他の民族を嫌う、というようなことはされません。彼は、人であろうと、獣であろうと、すべての生きものを同等に愛されます。
太陽が聖者たちの頭も、罪人たちの頭も同様に照らすのと同じように、かの神的存在の愛も、すべての魂に触れます。どのようにして、彼はすべての生きものを等しく愛されるのか。なぜなら、部分がぜんたいとつながっているのと同じように、おのおのの魂が神につながっているからです。部分が独立しては存在し得ないのと同じように、私たちの魂も宇宙の魂から独立しては存在し得ません。神は宇宙の魂です。彼は至高の魂です。全体にとって、それの部分を愛するのは最も自然なことです。
バガヴァド・ギーターの第九章「最高の叡知」二九節の中で、主クリシュナは断言しておられます。
私はすべての生きものに対して同じである。私には、憎い者もいなければ親しい者もいない。しかし、帰依の心をもって私を礼拝する者たち――彼らは私の中におり、私もまた彼らの中にいる。
神の性質はまた、火にもたとえられるでしょう。火はすべてのものに熱を与えます。火の近くにいる者たちは熱を感じ、離れている者はそれを感じません。
有徳の生活を送る人々、神を愛する人々は、ハートが浄らかになります。彼らは神の臨在と恩寵を感じます。これは決して神の執着や偏愛によるものではありません。主もまた有徳の人々のハートに宿られます。彼の臨在は彼らの内部に感じられ、罪びとたちの内部には感じられません。しかしそれは、主が罪びとたちを嫌っておられるからではありません。ちょうど太陽の光があらゆるものの上に輝くけれど、きれいな鏡に反射するのと同じように、主の栄光も浄らかな人々の中にだけ現われるのです。
正義、慈悲、神聖さ、愛は神の属性です。神は道徳的に完全で、聖らかです。彼は、私たちの道徳的理想の生きた権化です。彼は最高の正義を具現しておられます。彼はすべての力と強さと知識と栄光の源です。
神、浄める者
神は常に永遠に浄らかで、最も偉大な浄め手です。彼は人を罪と悪の束縛から救います。祈り、神の御名のくり返し、および神の知識は、求道者の心を浄めます。悪と不純は、まじめな求道者には、最大の不幸となります。それらは、悟りと、神との合一の邪魔をするからです。タイッティリヤ・アーラニヤカの中に、一信者による次のような祈りがあります、
「思いにより、言葉により、行いにより、私が犯した罪は何であれ、力と知恵と浄らかさの源であられる主よ、私を許し、それらから私を浄めて下さい」
信者が罪と不完全の思いに苦しめられるとき、彼はくり返し、神の方に向きます。彼は神に向かって、自分の心を聖なる、高貴な思いでみたして下さい、と祈ります。主は彼にそれを保証し、希望の言葉を語られます。バガヴァド・ギーター(四・三六)の中で彼は、こう言っておられます、
もしあなたが罪びとたちの中の最も罪深い者であっても、神の知識なるいかだに乗って、すべての罪を乗り切るであろう。
燃える火が薪を灰にしてしまうように、神の知識も、すべての罪を燃やして滅ぼしてしまうのです。またバガヴァド・ギーターの別の章句(一八・六六)の中で、彼は言っておられます、
すべての義務をすてて、私の中にだけ避難せよ。私はあなたを、すべての罪から開放しよう、悲しむな。
神はすべての師たちの師である
すべての知識は心の中に眠っている、というのはほんとうです。しかし、この知識はもう一つの知識によってめざめさせられなければなりません。誰か、すでに知っている存在が私たちと共にいて、心の中にあるものを呼び出してくれなければなりません。霊性の知識を得るためには、常に師が必要です。決してこの世界には師はいないというわけではありません。神は、すべての教師たちの教師です。人間の教師は、時間と空間に縛られて、限定されています。神は時間に縛られておられません。それゆえ彼は、最も古い古代の師たちの師でもあられます。神は一番最初の師なのです。
「霊性の知識は、師からその弟子たちへと継承される。悟りを得た師たちの連続によって伝えられる。一つの周期の終りに、全宇宙が滅び、神の内に引き込まれるとき、霊性の知識は、神のもとに残る。新しい周期の始まりには、神はそれをある心の浄らかなリシ、すなわち賢者に示される。賢者はそれを彼の弟子たちに伝える。霊性の知識の保存と宣布のために、教師たちの新しい系列が生まれる」(シュヴェターシュワタラ・ウパニシャッド六−一八)
神は無限の愛である、神は慈悲深い
神は平等にすべての人に慈悲深くあられます。誰に向かっても、不公平ではありません。彼を求める人びとには、彼は自らを、惜しむことなく、完全に与え切られます。これは、信者たちに対する彼の保証です。
バーガヴァタ・プラーナ(九.四.六三)の中で、彼は言っておられます、「とらわれびとのように、私は、信者たちにつかまれてしまっている。私のハートは完全に私の敬虔な信者たちに征服されてしまった。私は、私の信者たちの愛人である」と。‥‥私は、私のためにすべてのこの世の利益と楽しみを捨て去る人びとを助ける。
彼の恩寵は、いささかの差別もなしにすべての人に平等にさしのべられます。彼はおのおのに、彼の能力に応じ、渇仰心に応じて与えられます。偉大な聖者ヴィヤーサは、不公平と冷酷性は、神の性質ではあり得ない、と言っています。彼に完全に帰依をすれば、らくに彼の恩寵を得ることができるのです。世間の楽しみを求める人びとも、それを得ます。しかし、この世に楽しみはその性質上悲しみを伴うので、彼らは神の恩寵と愛という事実を見失うのです。
シュリ・ラーマクリシュナは言われます、「神の恩寵は常に、風のように吹いている。帆を上げる人びとはそれをうけるであろう」と。しかし怠け者は、その行いがふさわしくないから、恩恵を受けることができないのです。活動的ですばやい人びとは、神の恩寵をいただきます。
神は、磁石が針を引きつけるように、表現も不可能な彼の愛で、私たちを引きつけておられます。もし針が泥でおおわれているなら、磁石に引かれることはできません。それと同じように私たちの心が悪い思いでおおわれていたら、私たちは、彼の恩寵を受けることはできません。
すべてのこの世の愛にはいくらかの利己性がくっついています。しかし神の愛には、いささかの利己性も含まれてはいません。「神は、無限の慈悲と善と愛の大海のようである」とヴィヤーサは言っています。
もし神がおきてと正義だけをつくり、私たちに賞罰を与えるものとしか考えられないなら、人間にとって逃れる道はありません。私たちの中にひとりとして、何らかの罰を受けなければならないようなことを、したことのない人はいないでしょう、しかし慈悲深い主は、彼の無限の愛によって、決してそれらをご覧にはなりません。彼は人を深く愛し、常に彼を許そうと待ちかまえておられます。
アディヤトマ・ラーマーヤナの中で(六・三・十二)、シュリ・ラーマチャンドラはビビーシャナに言っておられます、「たとえ一度でも『私はあなたのものです』と言って、私のもとに避難した者には、加護と無恐怖の境地を与える、というのが私の永遠の誓いである」と。彼は決して、反抗的な子供と忍耐強い子供との間に差別をつけられません。
シャンカラはブラフマ・スートラの中で言っています、「彼の恩寵のみによって授かった知識で、人は解脱を成就することができる」と。
霊性の旅を始めた人には、主の慈悲と愛ははっきりと分かるようになります。それは単なる理論的主張ではなく、感じられた経験です。努力と進歩のさまざまの段階において、彼は無限であってたとえようもない主の愛を、完全に知るようになるのです。
主の慈悲は、求道者の内なる洞察力をひらき、彼を理解する力を授けます。自分の知らぬ間に、いかに奇跡的に、彼らがその師にめぐり合うことになるか、神を求める旅の途でどれほど大きな助けを得ることか、それは、霊性の旅を始めた人のほとんど全部が必ず経験することです。神は彼の限りない愛により、求道者が持っていないものを与え、持っているものを守って下さるのである。
雲はすべての畑に同じように雨を降らせます。しかし、雨の恩恵を受けるのは、よく耕された畑だけです。よく耕されていない畑、十分に世話をされていない畑は、その恩恵を受けることができません。それは雲の落度ではありません。主の慈悲は平等であり、永遠であります。