最高をめざして 注釈
一九八七年四月十九日
十五 アーサナーとは、しっかりと、しかも楽に長いこと座っていられるような姿勢のことです。ただし、背骨はまっすぐに保ち、上半身の重みの全部が肋骨の上にかかって、胸はくぼまないよう、胸とくびと頭とは垂直でなければならない。いかなる場合にも、かがんだ姿勢は健康ではない。
パタンジャリのヨガシステムは、八つの段階からなっています。アーサナーはその三番目です。八つの段階というのは、ヨガ・スートラによると、次の通りです――ヤマ、ニヤマ、アーサナー、プラーナーヤマ、プラティヤーハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、およびサマーディ。すなわち、自制、慎み、姿勢、呼吸の制御、感覚器官を外部の刺激から離すこと、心の集中、瞑想、、および超越意識すなわちサマーディです。ヤマとニヤマとは、感覚と心を制御するための道徳上のおきてです。
第一段階であるヤマは五つのおきてから成り立っています。すなわち、アヒンサー、サティヤ、アステヤ、ブラフマチャーリヤ、およびアパリグラハです。霊性の修行者は非暴力を守らなければならない(アヒンサー)、嘘をいってはならない(サティヤ)、欲張ってはならない(アステヤ)、純潔を守らなければならない(ブラフマチャリヤ)、そして不必要に人からものをもらったり、人にものを乞うてはならない(アパリグラハ)、というものです。
アヒンサー、すなわち非暴力
これは単に他者を殺さない、傷つけない、というだけでなく、相手が良くても、悪くても、彼(彼ら)に対して悪意を持たない、ということを意味しています。悪感情は、すべての生き物に対する親愛感を心に培うことによって除かれます。毎日、すべての生き物の福祉を神に祈るのは、効果のある実践です。心が乱されているときには、精神集中は不可能です。悪感情や悪い想念は、心の、対象への一点集中を妨げます。注釈者ヴィヤーサの言うところによると、無礼な言葉で相手をおどかしたり、傷つけたりすることも暴力であります。
ヨガ・スートラは次のように述べています、人がもし完全にアヒンサーの理想に定住するなら、彼のそばに来るすべての生き物は敵意を捨てるであろう、と。恐ろしい猛獣さえ、彼の前ではおとなしくなるであろう、そこではトラと小羊が仲良く遊ぶであろう、と。
サティヤ、すなわち誠実
これは、心と言葉が事実と一致していなければならない、というものです。事実の誇張や、正しくない供述は、真理でありません。誠実は、霊性の生活における、基本的な徳であります。シュリ・ラーマクリシュナは、自分は一切のものをすてることができたけれど、誠実さだけは捨てることはできなかった、とおっしゃいました。誠実さを守ることによって、求道者はやがては神の悟りに到達する、と彼は言っておられます。偽善と偽瞞は、宗教生活の中には居場所を持っていません。十分な思慮の後に、すべての人の利益になるような、誠実な言葉を口にすべきであります。
ヨガ・スートラはこのように言っています、もしある人が完全に誠実の徳を身につけたら、彼は働かないで働きの果実を得る、という力を獲得する、と。たとえば、もし彼が誰かに、「有徳であれ」と言えばその人は有徳になり、病人に向かって、「癒されよ」と言えば、その病人はたちまち癒されるのです。このような人の言葉は例外なく成就します。彼は夢にさえ、真実でないことは思いません。
アステヤすなわち不盗
この言葉の字義は、盗まない、ということです。他者に属するものを、おきてに逆らってわがものとするようなことをしない、という意味です。何であれ、不当な手段でものを手にいれるのは、盗むに等しいことであります。不正な手段でものを得ようとする考えは、完全に捨てなければなりません。もし、道ばたに宝石が落ちているのを見つけても、それを拾ってはなりません。それは他の人のものだからであります。イシャ・ウパニシャッドは、「誰の富をも欲しがるな」と言っています。
注釈者のヴィヤーサは、ものを欲しがらぬ心境が確立すると、そのヨギの顔からは、無関心とも言うべき雰囲気が放射される、人々は、彼を非常に信頼すべき人であり、大きな慰めを与えてくれる人であると見るようになる、彼らは、自分たちの持つ最上のものを彼に贈ることを自分たちの幸せである、と考えるようになる、思いでも、言葉でも、行いにおいても欲しがる態度を捨てた者は、欲しがらなくても、努力しないでも、貴重なものを得る、と言っています。
ブラフマチャーリヤ
スワミ・ブラマーナンダはこう言っています、「『私は色欲を克服しよう。私は怒りとむさぼる心を克服しよう』もしこれがあなたの行き方であるなら、あなたは決してそれらを克服することはできないであろう。しかし、もしあなたが心を神に集中することができるなら、欲情はおのずから去るであろう」‥‥「神を信じるのでなければ、決して道徳的に堅固になることはできない」と。(「永遠の伴侶」)
アパリグラハ
これは、ものを受けたりほしがったりしない、ということです。まじめな霊性の求道者は、あまりに多くの物質的持ち物をしょい込まないようにすべきです。不必要なものをため込むような傾向は捨てなければなりません。他からの贈物を受けなければならないような場合には、何か他のものを返すようにすべきです。お返しに金か品物を贈ると同時に、愛と奉仕と知識を贈ったらよいでしょう。
贈物を受ける人の心は、与える人の心の影響を受けるものです。常にものをもらってばかりいると心の独立性が失われます。
ここに、受ける者の心が与える者の心によって影響されることを示す、おもしろい話があります。長い間修行を実践してきた一人のヨギがいました。遍歴の途中、彼は一夜、ある金持ちの家に泊まり、彼の歓待を受けました。ヨギは部屋の中にさまざまの豪華な品が置いてあるのを見ました。それらを眺めているうちに、彼の胸中に欲心が忍び込みました。彼は、自分を制御することができませんでした。それをわがものにしたい、という強烈な欲望に圧倒されたのです。彼はついにその豪華な品を取り、主人にだまってこっそりとその家を出ました。
道を歩いているうちに、彼は本心にたち返り、考え始めました、「私はいったい何をしたというのだ。他人の物を取るとは。私は盗人か」 彼は自分の弱さを悟り、泊まった家に戻って主人に品物を返しました。彼は主人に、自分は一種の錯乱状態におちいってこんなことをしたのである、と言いました。金持ちの宿主はこのことを聞いて笑い、もうしばらくここに泊まって下さい、と頼みました。しかしヨギはそれをことわり、去って行きました。
幾日かたってから、このヨギはその近くに住んでいたもう一人のヨギに会いました。そのヨギはこの話を聞いて少しも驚かず、こう言いました、「兄弟よ、私にはその理由が分かります。あなたのお心があの男の歓待によって汚染されたのです。彼は不正な手段であの富を築いたのですよ。彼の不正直さがあなたのお心に入り、そういう悪いことをするよう、あなたを導いたのでしょう」この話は、贈物を受けることは、受ける人の心に影響を与えるものだ、ということを示しています。贈物、好意、歓待等は微妙な影響を残すものであります。
アパリグラハにおいて完成の域に達すると、ヨギの心中に過去生、および未来生の知識が生まれます。
注釈者は、「私は誰であったのか、私は何であったのか、どのようにして今、この肉体がここにあるのか、というような過去生の記憶がヨギの心によみがえるのである。彼はまた、自分は未来にどうなるのか、ということも知ることができるのだ」と言っています。
この修行の実践によって、肉体の快楽の対象は意味のないものに思われてきます。肉体そのものが大きな重荷になります。感覚対象および肉体への無執着の感じが生まれます。ヨギは、肉体を自己とは別のものとして意識するようになります。彼は、自分がこの世界にたびたび来たり去ったりしてきたことを感じ、このたびは自由になろうと堅く決意します。彼はおのずから透視力を獲得するのです。
第二の段階はニヤマです。これはショウチャ(清潔)サントーシャ(満足)、タパス(戒行)、スワディヤーヤ(聖典の学習)、およびイシュワラプラニダナー(ジャパ、瞑想)の五つから成っています。
ショウチャすなわち清潔
身体は、沐浴および清浄な食物によって清潔に保たれなければなりません。不潔な体は宗教生活にはふさわしくありません。これは外面的な浄らかさと呼ばれています。内面の浄化とは心から不純な思いを除くことです。尊大、うぬぼれ、悪意などを除くことが内面の浄化です。内面の浄化は外面の清潔よりも重要ですが、両方とも必要です。しかし、内面の浄化を抜きにした外面の清潔は無意味です。それは霊性の進歩の役には立ちません。
注釈者は、外面の清潔の実践から自分の肉体への嫌悪感が生まれる。この嫌悪感は、他の肉体との接触にも及ぶ、と述べています。沐浴等によって繰り返し肉体を浄める努力をするうちに、ヨギは肉体が不完全なものであることを理解し、それへの愛着を失います。彼は他者との接触を嫌うようになります。他のすべての肉体は、彼には同等に不完全で不潔なものと見え、心中に嫌悪の情が生まれます。他に対するヨギの愛は、友情と慈悲という感情によって表現されます。彼は誰に対しても嫌悪の情は抱きません。
内面の浄化によって、ヨギの心にはおのずからなる喜びの感情、すなわち至福が生まれます。この至福から、心の集中力と、感覚を抑制する力が生まれます。感覚を抑制する力によって、彼は鋭く精妙な知性を得ます。自己を悟る力は、この様な知性から生まれるのです。これらすべては、内面の浄化の完成によってなし遂げられるのです。
宗教生活における進歩のしるしの一つは、心の快活さであります。高徳の人は幸せです。彼は悲しんだり陰気になったりはしません。不幸やみじめさは、罪や誤った行為から生まれるものです。善行や霊性の修行は人を幸福に導きます。
サントーシャ、すなわち満足
これは、できる限り、自分の置かれた環境に順応し、満足しているように努める、ということです。注釈者によると、これは、自分の生命を維持するに必要なもの以外は欲しがらない、ということです。
満足の精神は、欲するものを得たあとに来る満足の感じを思い起こすことによって養われるべきです。次には、「私の得たものは十分である」という思いが心に養われ、思い浮かべられなければなりません。こうして、サントーシャは実践されるのです。
聖典には、いばらの刺を避けるためには靴をはけばよいのであって、地面全体を革で覆う必要はない、それと同じように、幸福は満足の徳から得られるものであって、私の欲するもの全体を得たら私は幸福であろう、という思いからは得られるものではない、と説いています。
ヨガ・スートラは、サントーシャの完成から、最高の幸福が得られる、と説いています。注釈者は次のように述べています、人は世界中の欲しいもの全部を楽しむことによって幸福を得るだろう、最高の天国の喜びを得るであろう、しかし、そのような幸福は、すべての欲望を終息させることから生まれる幸福の一六分の一にも及ばない、と。
タパス、すなわち戒行
これは、飢えと渇き、暑さと寒さなどの極端なものから生じるような苦痛を、静かに立ち、また不動の姿勢ですわって、堪え忍ぶ力のことです。宗教上の誓いに基づいて断食その他の苦行をすることも含まれています。小さな苦痛にも落ち着きを失うようでは、瞑想の実践には耐えられません。肉体が困難に耐える力を開発し、心が肉体の不快感にたやすく乱されないようになったときに初めて、求道者は瞑想を実践する資格ができたのです。
無駄なおしゃべりをしないこと、無礼な言葉を吐かないこともまたタパスの一つとされています。この様な戒めを守ることは、求道者の誠実の徳を養うのを助けます。それは、他人のそしりに耐える力、人にものを乞いたがる性質を抑える力を養います。
ヨガ・スートラによると、タパスは肉体と心の汚れを浄め、意志の力を強め、その結果、ヨギは超能力を開発します。しかし彼はそれらには頓着せず、霊性の開発に努めます。
スワディヤーヤ、聖典の学習
これは、霊性の修行と解脱への道を教えている聖典を学ぶことを意味します。それにはマントラの繰り返しも含まれています。
肉体が物質の食物で養われるのと同じように、心も勉強と聖い思想に触れることによって養われなければなりません。規則的な勉強は、世俗的な思いを減少させます。それは心を神の思いで満たし、霊的渇仰を増大させます。
聖典の研究は、心が深く組織的にものを考えるようになるための良い訓練であります。研究と同時に、求道者は、書物から学んだ霊性の問題について深く考えなければなりません。純粋で浄らかな思いは、悪い、間違った思いと反対の働きをして、心を浄めます。
ヨガ・スートラは説いています、これら二つの修行によって、ヨギは、彼の希望をかなえることのできる天上界の存在のヴィジョンを得る、マントラの繰り返しは人を神の悟りに導く、と。
イシュワラプラニダナー(神への帰依)
これは一切の行為を神に捧げるという意味です。ここで注釈者は、求道者は、自分の心を神の静かな心の中におき、自分の心の中に神もすわっておいでになる、と考えるべきである、と言っています。彼は、彼の生涯のすべての活動は神の意志によってなされているのだ、と考えるべきです。この考えと共に、彼は自分の行為の果実を神に捧げます。信者が、自分は一切の活動を神の意志によって行なっているのだ、と考えるとき、彼は心に平安を感じるようになり、心の満足を得ます。彼はエゴ意識を脱却します。このような瞑想の実践によって、彼は無執着の態度でこの世に暮らすことができるようになるでしょう。心と感覚は徐々に静まり、抑制されるでありましょう。神を意識として瞑想することにより、彼は個我(ジヴァートマン)を悟ります。
人が何事であれ、神を忘れてことを行うと、彼は利己主義的な態度で行動することになります。彼が自分を行為者であると考えず、常に心に神を思って、私のすべての活動が私を神の悟りに導くように、と祈るとき、そのとき、彼は神に一切をお任せした、ということができるのです。
アーサナー、正しい姿勢とさまざまの形
アーサナーとは、体の姿勢のことです。パタンジャリはこれをあまり重視してはいません。パタンジャリのヨガ体系とは全く異なるハタヨガでは、さまざまの姿勢が詳しく論じられています。ハタヨガの書物には、このヨガの実践の方法として八十種以上の座法が述べられています。それらの多くは、ある種の肉体の欠陥を克服するのに役立ちます。ハタヨガは、霊性の進歩よりは肉体の福祉の方に、より密接な関係を持つものです。
さまざまの姿勢の目的とするところは肉体の制御であります。ある人々は、静かにすわっていることができません。求道者は、心を集中して瞑想しようとするときには、体を静かに保たなければなりません。体をゆすりながら瞑想しようとしても、よくできません。肉体がゆれるにつれて、心の一部も何かの活動をするからです。瞑想のときには、心は一点に集中されなければならないのです。
パタンジャリのヨガ・スートラは、アーサナー、すなわち姿勢は、安定した、しかもくつろいだ、快適なものであると述べています。何れのヨガのアーサナーでも背骨はまっすぐに保たれていなければなりません。胸と頚と頭とは一直線に保たれなければなりません。姿勢は不動であって、しかも快適でなければなりません。パタンジャリに従うと、どこかが痛くなったり、落ち着かなくなったりするような姿勢は正しい姿勢ではありません。
最もよく知られた姿勢はパドマーサナ、すなわち蓮華座です。右足を左の腿の上に、左足を右の腿の上に置き、背骨をまっすぐにするものです。両足の裏は上に向きます。足がこのように組まれますと、そこに力が出て、まず、膝を圧し、次に腰を前方に押しだします。この力の結果として、背骨はまっすぐに保たれるのです。
ヴィラーサナというのはパドマーサナを半ば取り入れた姿勢です。これは、片足をもう一方の腿に上にのせ、別の足をもう一方の腿の下に入れる、という座法です。
もう一つの姿勢は、スワティカーサナと呼ばれるものです。足を腿の上にのせる代わりに、これは、両足を膝の関節の内側のくぼみに入れるのです。この座法もやはり、背骨を完全にまっすぐに保つ、という長所を持っています。
まっすぐな姿勢
瞑想には、さまざまの理由から、まっすぐな姿勢が必要です。その一つは、この姿勢が、体内のさまざまの器官を正しい位置に保つ、というものです。姿勢が正しいと、体内の器官は、組織に重みがかからないので、正常に働きます。正しい姿勢は、肉体の器官をよい状態に保つために、健康に非常に有益です。肉体がじゃましないと、瞑想は大変楽になります。瞑想中は、われわれは肉体を忘れなければならないのです。もし肉体に気になるところがあったり、緊張があったりすると、こういうわけには行きません。まっすぐに座るということには、もう一つの霊的な利益があります。われわれが自分の思いを向上させようと努めると必ず、脊柱を通って一つの流れが上昇します。その流れは脊柱の低部から出発して頭脳の中心に向かって突進します。脊柱がまっすぐであると、じゃまされないでまっすぐに上昇できるのです。いかなる妨げも、その流れを押し下げ、心身に反動を引き起こす傾向があります。われわれの生活の中で、憂欝、悲しみ、落胆等の気分を克服するときには、からだをしゃんと伸ばし、背骨をまっすぐにする、というのはよく見られることです。このまっすぐな姿勢と言うのは、われわれが心の持ち方を変えたことの第一の表現です。われわれが憂欝な気分を振り捨てるとき、脊柱の中の流れがまっすぐな姿勢を取らざるを得ないように仕向けるのです。従って、当然のこと、姿勢をまっすぐにしていれば、心は、憂欝な思いをより高いレベルに上げて、平安を楽しむのです。ですから、まっすぐな姿勢ですわることは必要であります。
クンダリニ
ラージャ・ヨガによれば、巨大な量の霊的エネルギーが、脊柱の底部に蓄えられています。脊柱の内部には、左側にイダ、右側にピンガラーという二すじの神経の流れが通っており、中央にスシュムナーという通路があります。エネルギーの蓄えはクンダリニと呼ばれています。「クンダリニ」とは、とぐろを巻いているもの、という意味です。しばしば、それは蛇の力とも呼ばれます。
クンダリニが目覚めると、それは六つの意識の中心を通って脊柱の中を上昇し、脳の中にある第七の中心に到達します。クンダリニがより高い中心に到達するにつれて、これはさまざまの程度の悟りをもたらします。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは言っています、「長い間の内的瞑想の力により、エネルギーの蓄積の巨大なかたまりがスシュムナーを通って上昇し、これらの中心にぶつかると、その反応はすさまじいものである。それは夢や想像の反応とは比べものにならないほど優れたもの、感覚による認識の反応とは比べものにならないほど強烈なものである。それがすべての知覚の中心である脳に達すると、いわば、頭脳全体が反応する。その結果は、えんえんと燃え上がる炎の輝き、アートマンの自覚である。このクンダリニの力が中心から中心へと上昇するにつれて、いわば心の層がひとつ、またひとつと除かれる。そのヨギは、この宇宙を、精妙な原因の姿で見るのである。そのときに初めて、知覚および反応としての、この宇宙の原因をありのままに知ることができ、またそこから一切の知識が生まれるのである」
第二の格言
アーサナーについての第二の格言は、「完全な肉体の安定と安楽の感じは、肉体のくつろぎと、無限なるものの瞑想とによって得られる」と述べています。すわったら、身体がかがんだり搖れたりしないよう気をつけながら、全身をくつろがせなければなりません。アーサナーすなわち座法は、肉体が少しも苦痛を感じないで、安定した状態になったとき完成したのです。心を無限なるものに、または自分を取り巻く空間に集中することは、アーサナーの完成を助けます。
最初はいくらかの苦痛を辛抱するのでなければ、アーサナーの修行を完成することはできません。アーサナーをしばらく実践していると、からだのあちこちに痛みを感じるでしょう。これは、力を抜くように務め、無限の空間を瞑想して自分のからだも空になる、と感じているうちに、消えて行きます。
実践しているうちに体が大地にくっついたかのように感じるでしょう。さらにもと安定して来ると、肉体はないかのように感じるでしょう。無限なるものの瞑想とは、「私のからだは無限の空間にとけ込んで虚空のようになってしまい、私はまるで無限の空の広がりのようである」と思うことです。アーサナーの完成と体のくつろぎは、このような瞑想から生まれます。
バガヴァド・ギーターもやはり、すわり方と、ヨギがすわる場所をどのように用意するか、ということを指示しています。まず、ヨギはその座を清潔な場所に置かなければなりません。座は高過ぎず低すぎないようにすべきです。それは、クシャ草と、革と布とを次々に重ねてつくられます。彼は心と感覚の活動を制御して、心を一点に集中し、瞑想をすべきです。ヨギはあたりを見回すことなく、彼の頭と頚と胴とをまっすぐに保つべきです。
次に、完全な姿勢の結果に関する格言があります。アーサナーの修行を完成したヨギは、暑さ寒さにも、飢えや渇きにも妨げられることはありません。体が安定して虚空のようになりますと、静寂の感じが心を占めます。そのヨギは彼のみに没入することができます。
スワミジーの見解
アーサナーの問題は、スワミジー(スワミ・ヴイヴェーカーナンダ)が、彼のラージャ・ヨガに関する講話の中でとり上げています。全集第一巻(一三七ー九ページ、第二章第一段階)に、つぎのような一節があります。
つぎの段階はアーサナーである。もう少し高い、ある段階に到達するまで、毎日、一連の肉体と心の訓練を実践しなければならない。それだから、自分が長いことつづけていられる一つの姿勢を見出すことはたしかに必要である。自分にとって最もらくな姿勢を選ぶべきである。考えるために、ある姿勢は、ある人にとってはらくかも知れないが、他の人にとっては非常にむずかしいものであるかも知れない。
心理的な事柄を研究する間に、身体内部では多くの活動が行われるのだ、ということを、やがて私たちは知るであろう。神経の流れは置きかえられ、新しい通路が与えられなければならないだろう。新しいたぐいの波動がはじまり、全組織が、言わばつくりかえられるであろう。活動の主要部分は、脊柱に添って存在するのだら、姿勢にとってただ一つの必要なことは、胸とくびと頭の三つを一直線に置き、まっすぐにすわって脊柱をらくに保つ、ということである。胴の全重量を、助骨に支えさせるようにしよう。そうすると、背骨がまっすぐになり、らくな、自然な姿勢をとることができる。胸のくぼんだ姿勢では、高尚な思いを考えることはできない、ということはよく分かるであろう。
ヨガのこの部分は、少しばかりハタヨガに似ている。ハタヨガはまったく肉体を扱うものであって、その目的は、肉体を非常に強くすることである。ここでは、私たちはそれには全く触れない。なぜなら、それの実践は非常にむずかしく、一日で学べるものではないし、また結局、それは大して霊的成長の助けになるものではないからである。
ハタヨガの効果は、人を長生きさせる、というものである。彼は病気にはならないことになっている。また、決してならない。彼は長生きする。一〇〇年ぐらいは何でもない。一五〇歳になっても白髪は一本もなく、実に若く生き生きとしている。しかしそれだけのことである。バンヤンの樹はしばしば五〇〇〇年生きる。しかしそれは、バンヤンの樹であって、バンヤン以上の何ものでもない。そのように、人が長生きをしたとて、彼はただの健康な動物なのである。私たちは、健康は目的への一つの手段にすぎないのだ、ということを忘れてはならない。
障害
このようなラージャ・ヨガの修行をすれば、求道者は霊性の生活において進歩する。実践すればするほど、われわれはよりよい結果を得る。一足とびの進歩をめざすようなことをせず、ゆっくりと、少しずつ、完全な瞑想の理想に向かって進む方がよい。もし、毎日実践し、瞑想を忘れないなら、ついには、自分の心を支配するようになるであろう。もし一個の石の表面に一滴ずつ水が落ちつづけるなら、やがてはその石に、大きな孔があくのである。たったひとしずくでも、不断に落ちるなら堅い石をもうがつ。もしわれわれが規則正しく実践するなら、それはちょうど、不断に石の上に落ちる水滴のようなものだ。規則正しい実践とまじめさとが、われわれを目標に導くのである。
これら八重の修行をするうちに、求道者はときどき、心の集中を妨げる障害に直面するであろう。人生で更なる進歩をとげるためには、このような障害は克服しなければならない。人は、多くの浮沈を経て進歩をとげるのである。これらの障害は、求道者の心を低下させるものである。
さまざまの障害が、パタンジャリのヨガ・スートラの中では、第一章の三〇および三一に、延べてある。からだを震わせること、つまりからだの不安定は、その一つである。他の障害は、次のようなものである。肉体の病、怠け心、うたがい、熱意の欠如、気抜け、感覚の楽しみへの執着、まちがった感覚、集中できないこと、一度より高い境地に達した後そこから落ちること、悲嘆、心の悩み、および不規則な呼吸。