最高をめざして 注釈

一九八六年十月十九日

十四 決して、自分は弱い、などと思ってはいけない。自分自身を深く信ぜよ。「私にできないことはない。しようとさえ思えば、何でもすることができるのだ」と思え。われとわが心に対して敗北を認めないでもよいではないか。もしそれを服従せしめることができるなら、全世界はあなたの足の下にあるのだ、と知れ。自信をもっていない人は神への真の信仰も持っていない。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、真の無神論者とは、彼自身への信仰を持っていない人だ、と言った。自信を持っていない人間の言葉には、誰も耳を傾けないだろう。神もやはり、そういう人の祈りには耳をお傾けにならない。

丈夫な身体

 霊性の生活には、健康な身体は大きな助けとなり、また、強靭な心は不可欠なものです。健やかで活力にみちた、強い肉体を持つ求道者は忍耐強い努力を続けることができます。彼は欠乏や困難を快活に受け入れます。心の中のより低い本能を、体の弱い人より速やかに抑えることができます。

 たえず病気に悩む求道者は、肉体意識を脱却して心をより高いレベルにあげることに困難を感じます。肉体の弱さと病とが霊性進歩の道の妨げになるのです。

 肉体は健康のための基礎的なルールを守ることによって丈夫になります。求道者は放縦な生活、節度のない生活は避けなければなりません。食事、休息、および霊性の修行の、規律ある日課を守るべきです。このような日課は確実に心と感覚を支配下に置くでありましょう。気任せの生活は避け、怠惰な習慣は変えなければなりません。

  強い心と意志

 この肉体は人生のもっと高い目的のために使われるはずのものです。これは、人格を完成し、叡知を得て、霊性の真理を悟るための道具であります。霊性の生活で進歩をするための強い心と強い意志は、まじめな求道者にとっては欠かすことのできないものです。強い意志は強い心の直接の結果です。心の強さは道徳的訓練から生まれます。精神の集中は浄らかさ、愛と無私の性質です。

 スワミジーは実にたびたび、偉大な業績のための道具の一つである、不屈の意志の力のことを語っています。「あなたは、山のようにうず高い障害を克服するだけの意志を持っているか。もし全世界が剣を手にしてあなたに立ち向かってもなお敢えて自分が正しいと思うことを実行するか。たとえ妻や子供たちが反対しても、たとえ持ち金の全部を失っても、名声が傷つけられても、財産を失っても、あなたはなお、それを固執するだろうか。なおそれを追求し、目標に向かってしっかり歩き続けるだろうか」(全集三−二二六)

 また別のところでスワミジーは強固な意志というものの性質を次のように描写しています。「何ものも抵抗することのできない、宇宙の神秘と秘密をさし貫き、どのようにしてでも、たとえそれが海底に沈んで、死に直面することを意味していても、目的を完遂せずにはやまない巨人的な意志」(全集三−一九〇)

 意志というものの性質についてのスワミジーのこれらの言葉は、彼自身が持っており、それによって彼が師から託された使命を十分に果たしたところの不屈の意志とはどのようなものであったか、ということをわれわれに示します。求道者は心中にたびたび決意を繰り返すことによって、自分もこのような強い意志を持とうという熱望を内に育てなければなりません。スワミジーはこのような意志を不断の努力と自己訓練とによって得たのです。

意志と自己信頼

 強固な意志は、自己訓練と心の集中と心の浄化の産物であります。ジャパと瞑想の規則正しい実践は心を浄め、集中力をもたらします。これらが次に心と意志を強化するのです。それはハートを自己信頼で満たします。

 無用な想念、不決断、なまくら、こういうものは、心の欠点であり、汚れであります。度の過ぎた虚栄と、物事を正しい眼で見、かつ理解しないこと、これらも心の欠点です。これらの欠点は正しい思いによって除かれなければなりません。

 求道者は、識別力を養わなければなりません。何が実在であって何が非実在であるか、何が数日続くだけのもの、何が永続するものであるかを見きわめることを学ばなければなりません。識別は、正しい思いと理解をもたらします。彼は、自分が接触することを好まないものからは自分を引っ込めることを学ばなければなりません。

 彼は徐々に深く学び深く思う習慣を学ばなければなりません。ある求道者たちは実にたくさんの書物を読みます。しかしそのような読書はあまり有益ではありません。頭脳を不用な思いや他の人々の思想でいっぱいにすることは心理的消化不良のもととなります。心を高めるような書物を読むべきです。高貴な思いとそれらを実践しようとする心の傾向が、心を浄化し自己信頼を生み出すのであります。

 もろもろの心の欠点は、衝動によって導かれるのではなく、もっと高い理性や思考に導かれる生活を生きることによって捨て去るようにすべきです。求道者は自分に有害なものを避け、人生の助けになるものを得るようにしなければなりません。助けになるものは不愉快なものかも知れませんが、それでもそれを取らなければなりません。そのような努力によって彼は心の欠点を除くことに成功し、自己信頼の念と心の強さを深めることでしょう。

シュリ・ラーマクリシュナの教え

 シュリ・ラーマクリシュナは求道者の高貴な決意によって、色欲とか怒りとか高慢とかいうような低い衝動を高い方面に転じる方法を教えておられます。シュリ・ラーマクリシュナはこう言っておられます。「六つの欲情を神の方に向けよ。色欲の衝動は神の霊と交流したいという願いに変えられるべきだ。神への道の妨げとなるものに対して、怒りを発せよ。神を欲張れ。もしそうしてもなお自慢したければ、自分は神の召使である、または自分は神の子供であるということを自慢せよ」(福音一五五)このような心の態度はわれわれを誘惑や不実な思いから救うでありましょう。心は徐々に浄まり、道徳的な力と勇気に満たされるでありましょう。

至高霊の黙想

 いまここで正確には霊的生活とは何であるかということを見てみましょう。厳密に言うと、霊的生活は肉体に生きることではなく、また心に、特に不純な心に生きることではなく、霊に生きることであります。

 あらゆる個人は、現象の人と実在の人という、ふたつの立場をもっています。A氏は息子であり、夫であり、父親であります。彼は会社で働いています。自分の務めを行なって金を稼ぎ、家族を養っています。さまざまの形で、A氏を表現することができるでしょう。このようなA氏は現象の人であります。

 A氏のもう一つの立場は、彼は純粋霊であるというものです。彼は、誰の夫でも父親でもありません。彼は働いてもいないし、金を稼いでもいません。彼は生まれたこともないし、死ぬこともありません。いかなる性質ももっていません。これが本当のA氏なのであります。A氏は至高霊、と不変のブラフマンと、一体の存在なのであります。

 人が自らの直接の悟りによってこの真理を、すなわち自己の存在の事実を発見したとき、彼は真の霊的生活に入るのです。神の信仰者が彼を悟った後に入る生活、これもやはり真の霊的生活であります。これが、霊的生活の真の意味であります。

 しかし、われわれはふつうは、「霊的生活」という言葉をこのような厳密な意味に用いてはいません。われわれはそれを、漠然とした相対的な意味で用いているのです。人生のさまざまな生き方があります。霊的生活とはそれによってわれわれがやがては至高霊、すなわち、神を悟るにいたるような、ある種の訓練を実践する生き方であります。

 この至高霊は一切所に遍在しています。それは、あらゆる人のハートに宿っています。それは常に永遠に純粋で、全能です。それは無限で至福に満ちた純粋意識です。この至高霊より高いものも、至高霊と同等のものもありません。至高霊のこのように崇高な性質が、人の本性なのです。

 至高霊のこの栄光を自分の本性として瞑想することによって、求道者は強さ、浄らかさ、力、および自己信頼の念を獲得します。彼は自己への深い信仰に満たされるようになるのです。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダはこう言っています。「あなた自身に教えよ。あらゆる人に教えよ。彼の真の性質を。‥‥力がくる。良いことがくる。あらゆるすばらしいことがやって来るだろう」と。神の御名の繰り返しのほかに、信仰者は肉体的、心理的弱さ、および自信の欠如を克服するような瞑想をするのがよいでしょう。

良心の呼掛け

 心の力を養うもう一つの道があります。この方法によると、信者は彼自身に対して誠実でなければなりません。自分に忠実でなければなりません。生活の中で、真に良心的であるように努めなければなりません。心にどのような欠点があってもまず良心の声、内心の声に従うよう努めるべきです。

 良心は神の声です。この声はわれわれ一人一人のハートに隠されています。ところが、われわれがそれに耳を傾けないために、眠った状態になっていて、活動しません。徐々に鈍くなり、やがてすっかり消えてしまうのです。心の力を開発するには、われわれの内なる声に従うことが必要です。われわれが正しいと知っていることを実行に移す、まじめな、しかも周到な努力が必要です。

 何が正しく、何が間違っているかということを判断するのに哲学的な議論や反論は必要ではありません。信仰者は学究的な議論を重要視し過ぎることなく、自分が真理であると思うこと、正しいと信じることを行なわなければなりません。彼はハートの命ずるところに従うべきです。自分が内に感じることを行なわなければなりません。

 成功は直ちには来ないかも知れません。たびたび失敗もするでしょう。最初は一割成功すれば十分です。次第に良心に従う力が強まって行くでしょう。求道者は次第によりはっきりと神の声をきくようになるでしょう。このような方法が、エネルギーと正しい見識とをもたらすのです。良心の呼び声に従うことによって、理想ははっきりとして来るでしょう。インスピレーションが内からわいて来るでしょう。理想に向かって霊的に向上しようと努力する力が、生まれるでありましょう。

 理想を実現させるためには、求道者は勇気と決意と、情熱と、そして自らへの信仰を持たなければなりません。これがなければ、霊性の生活における成功は不可能です。


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