最高をめざして 注釈

一九八六年五月十八日

十二 ジャパ(称名)を行うときには、同時に、あなたのイシュタ(注=求道者が自分のために、または彼の師が彼のために、礼拝の対象として選んだ神の特定の姿、英語ではChosen Idealと訳す)を瞑想せよ。そうでないと、決してジャパは深まらない。たとえ瞑想の中で神の姿の全部が想い浮かべられなくても、どこでもよい、心に浮かんだ部分から始めよ。失敗しても、幾たびでも繰り返すのだ。成功しないからといって、諦めてはだめだ。ふとう不屈の精神をもってやりつづけるのだ。瞑想は、ただ、やりたいと思っただけでやれるようなものではない。心を他の対象から連れ戻して瞑想の対象に集中させる、という努力が必要だ。このことにおける成功は、ひたすら実修を続けているうちにおのずからやって来る。

十二 ジャパ、すなわち心の中でマントラを繰り返すのに、それを指でかぞえたり、数珠をくったり、あるいは反復の数をひかえたりする――これらすべては単に、心を他の対象から引き離して礼拝の対象に集中させることを助けるための初歩的な手段だ。こういうことをしないと、心がいつ、あらぬ方角にそれてしまうか分からないし、居眠りをしてしまうかも知れないだろう。それ故、このような方法は最初はある人々には多少心の集中を妨げるもののように見えるかも知れないが、それらによって心の悪さを見張り、すぐにそれを発見して心を引き戻し、瞑想の対象に集中させることができるのだ。

 ジャパについては、「福音」の中に次のような一節があります。

 「ジャパというのは、人里離れたところで黙って神の御名を繰り返すことである。ひたむきな信仰をもって神の御名を唱えるなら、神の姿を見、彼を悟ることができるのだ。ガンガーの流れの中に一片の材木が沈んでおり、それが一本の鎖で岸につながれているとせよ。もしお前がその鎖の輪の一つ一つをたどって水中に潜って行くなら、ついにはその材木に到達するだろう。それと同様に、神の御名を繰り返すことによってお前は彼に没入し、ついには彼を悟るのである。(八〇七〜八)

 「人はジャパによって神に到達する。人のいないところで秘かに神の御名を繰り返すことによって、人は神の恩寵を得る。そのとき、彼を悟ることができるのだ」

(五一五)

 ジャパは神を悟るための手段です。神の御名の繰り返しは、ほとんどすべての宗教によって、重要な霊性の修行として認められています。大乗仏教は、悟りの手段として神の御名の繰り返しを命じています。真宗の信者たちはナモ・アミタバーヴァ・ブッダヤというマントラをナムアミダブツという日本語で繰り返しています。ある仏教の教典はその注釈書の中で、歩いていても立っていても、座っていても寝ていても、心魂傾けてミダの御名を繰り返せ、一瞬間でもそれを怠るなと言っています。これが確実に救いをもたらす行なのである、なぜなら、これはアミダ・ブッダの本願と一致するのであるからと言っています。日本の仏教の日蓮宗の信者たちはナム・ミョウホウレンゲキョウと大声で唱えます。妙法蓮華経、つまり法華経に栄光あれという意味です。多くのクリスチャンは、「主イエス・キリスト、われに御恵みを与え給え」と繰り返し、イスラームの信奉者はアラー・マントラを唱えます。

ジャパ、その意味と目的

 ジャパとは、マントラすなわち言葉のシンボルの繰り返しです。この言葉のシンボルは、神(最高神)の特定の面を代表しているものであります。心のあらゆる思いは、言葉としての形を持っています。言葉と思いとは切り放すことのできないものです。言葉のシンボル、すなわちマントラは、霊性の世界のある特定の観念を現しているのです。

 マントラは、神聖な言葉、あるいは言葉の結合であります。それは、霊的な力を持っています。それは他の一般の言葉とは全く異なるものです。マントラの反復は、われわれの心をこの世界から引き離し、主の御足のもとにつれて行きます。マントラは、植物の種子に例えられます。種子は大木になる力をうちに蔵しており、木はやがて花を咲かせ実を結びます。それと同様に、マントラの聖なる言葉は、内部に偉大な力を持っています。マントラの内部にひそんでいる力は、求道者が神に達するのを助けることができるのです。マントラが何年も何年も繰り返されると、それはその求道者にイシュタの性質を示します。マントラの霊的な力はそのようなものであります。

 植物の場合には、種子が地に蒔かれるときには、園丁が土を耕し、水をやり、肥料をやり、家畜から護ります。種子は芽を出して苗となり、やがて大木にまで成長するのです。同様に、霊性の世界でも、マントラには生命があり、それはイシュタを示す力を持っていますけれど、これを実現するためには、霊性の修行が必要です。木の成長を助けるためには、園丁の働きが必要であるのと全く同じように、ここ、霊性の生活においても、霊的経験と神のヴィジョンを得るためには修行の実践が必要です。求道者に神が現れるためには、マントラの力は求道者の努力と結び付かなければならないのです。これがジャパというものなのであります。

方法

 マントラを繰り返すときには、神を思わなければなりません。マントラの反復と瞑想とは同時に行うべきです。これが心をイシュタに集中し、精神統一に入るための方法です。この二つの結合は速やかな結果をもたらします。マントラを唱えれば唱えるほど心は一層神に集中するようになるのです。実践は不可欠のものです。実践が欠けると、霊性の生活では何の進歩も期待することはできません。

 マントラを繰り返すときには、求道者はイシュタの姿を瞑想すべきです。イシュタは光りかがやく、至福に満ちた姿で、自分のハートに座っておられると思うのです。彼は、無限の浄らかさ、知識、信仰、慈悲、愛、および至福の権化です。彼はまた、すべての生きもののハートに宿っておられる遍在の霊であります。

 もし心が集中すれば、求道者はこの神的な思いに没入するでしょう。しかしこの没入は突然にやって来るものではありません。ジャパは、それに向かう階段です。集中を得るためには二つのものの結合が命ぜられています。実践を続けることによって、信者は神への愛を感じるようになり、神がここにまします、という実感と至福が徐々にやってきます。この状態に入ると、心は静まり、マントラを繰り返さないでも神の思いに没入するようになります。信者が規則正しく霊性の修行を実践していると、彼の生活にはこのような経験がやって来るのです。

心の制御

 心の制御はたやすく、または速やかに得られるものではありません。初心者ばかりでなく、進歩した求道者たちも心の制御には困難を感じます。元来、心は非常に不安定なものであって、どんなに努力をしてもさまざまの方向に走って行きます。ですから、心を制御するよりは風を制御する方がやさしいとまで言われているのです。賢者パタンジャリは不断の修行と離欲とが心を支配する、すなわち心の実質がさまざまの形を取ることを防ぐ二つの方法であると言っています。ですから、求道者は精神集中を得るためにはこれらの方法を取らなければなりません。

実践

 われわれは絶えずジャパを行じなければなりません。実践というのは、心が瞑想の対象からそれるたびに、意識的努力によってそれを引き戻し、対象に集中させることです。求道者は心との絶え間のない闘争を続けるのです。絶え間のない闘争と、断固たる努力とによって、心は静まるでありましょう。

ある助言

 心を制御することは非常に難しいのですけれど求道者は、そのために失望する必要はありません。自分はジャパや瞑想を行う資格がない、自分は宗教生活を続けるに適していないなどと思ってはなりません。どんなに難しくても、忍耐をもってその努力を続けるべきです。堅忍不抜の努力は少しずつ成功をもたらすでありましょう。 瞑想やジャパのときに、心に奇妙な思いやイメージが浮かぶのは、われわれすべてに共通な経験です。かつて心に抱いたことのないような思いまでが浮かんでくるのです。これらの思いは潜在意識の層から浮かび上がって来るものです。このような思いに煩わされぬ唯一の方法はそれらを全く無視することです。もし求道者がそれらに全く注意を払わなければ、そのような思いは徐々に消えてしまうでしょう。もしそれらが重大なものとして取り上げられると、それらは力を集めて強くなり、追い払うことが大変に難しくなります。ですから最も良い方法は、そんなものは完全に無視して少しも注意を払わないことです。

 潜在意識から来るこれらの思いとは別に、心の意識層から生まれる別の思いがあります。そのような思いは、われわれの仕事、義務、やりかけの仕事等に関するものです。求道者はこの種の雑念を二つの方法で制御することができます。彼は意志の力を働かせて心を制御することができます。彼は、自分は神のみを思うべきだ、他のことは思うまいと堅く決意しなければなりません。他の一切のことを思うのは自分の間違い、それは進歩の妨げになる、と思うのです。この決意と共に、彼はジャパと瞑想を始め、続けることができます。求道者はこの場合は彼自身に警告するのです。それは、自分自らを訓練するようなものです。子供が親に、悪いことをするなと強く指示されると、その子は悪いことをしないよう慎むでしょう。ちょうど子供のように心もやはり強い戒めと警告を受けることができるのです。

 自己暗示のもう一つの方法があります。霊性の修行の結果としてやって来る偉大な収穫、平安と幸福について考えることです。あらゆる人間の胸の奥底の願いは、この平安と幸福を楽しむことです。そのような平安と幸福は、たとえ莫大な富と力を持っていても得られるものではなく、ただ、霊性の修行と善徳からのみ来るものです。それだから人は、真剣に忍耐強く、ジャパと瞑想を実践しなければならない――このような自己暗示は、信者が自分の心を静めるのを助けるでありましょう。彼は、自分を悩ます思いを退けることができるでしょう。子供が暗示にかかり易いのと同じように、心も暗示を受け易いものであります。

不従順と怠惰

 われわれの心は数々の思いに満ちています。あるときは良いムードにあるが、ある時には悪いムードにあります。悪いムードにある時には、なかなかジャパをすることができません。真摯な求道者はこの我がままと怠け心に負けてはなりません。この傾向を無視して、時間通りに修行は実行しなければならないのです。悪い傾向に負けることは、良い習慣の形成を妨げます。実践の繰り返しだけが、霊性の生活において、もっと向上したいという衝動を生み出すことができるのです。

 ホーリーマザーは、心の我がままに負けると、どの様な悪い結果が生じるかということを示す、彼女の生涯におけるある出来事のことを語っておられます。彼女の言われるには、「心は放っておくと悪い方に向かって行くものです。善行はしたがらないものです。朝は早く起きて瞑想するのが私の習慣でした。ところがあるとき、体の具合が悪くて、そんなに早く起きることができませんでした。心はともすれば怠けたがるものです。そのあと数日間、私は寝坊をしました。ですからあなた方は、もし善いこと、立派なことを成し遂げようと思うなら、断固とした決意のもとに、たゆみなく実行を続けなさい」

 またあるとき、彼女はこう言われました、「もし心が浄らかであるなら、精神集中のできないはずがありません。しばらくの間ジャパを行じていると、内からマントラがわきあがって来ることを知るでしょう。マントラは少なくとも、一日に一万五千回か二万回は唱えなければなりません。そうして初めて、あなたは何がしかの結果を得るのです。得ることは確実です。ジャパは少しは心をこめてしなければなりません。非常な努力によって心は浄まるのです。マントラの繰り返しによって心は徐々に堅固になります」

 ジャパと瞑想は最初は無味乾燥に見えます。しかしそれでも、信者は苦い薬を飲むようにしてでも神を思うことを続けなければなりません。霊的喜びは少しずつ生まれて来ます。スワミ・ブラマーナンダは言っておられます、「人々は試験にパスするためには実に激しく勉強する。神を悟ることはそれよりやさしいのだ。ただ、静かなそして快活なハートで彼にお願いしなければならない」と。

信仰

 求道者は、マントラの効果と力に対して信仰を持たなければなりません。幾百幾千の人々がジャパによって霊的進歩を遂げたのです。それは重要な霊性の修行です。神の御名の力は、おそかれ早かれ、求道者によって必ず感得されるものです。神の御名は悪い思いの生じるのを防ぎ、心を聖なる思いで満たします。

 ホーリーマザーは言っておられます、「風が雲を吹き払うように、神の御名は世俗性という雲を吹き払います。信仰心をもってジャパをなさい。ジャパによって人は霊性の生活に成功します」と。スワミ・ブラマーナンダは、「ジャパの修行は特に現代に適している」と言われました。

 シュリ・チャイタニヤ・マハー・プラブーはある賛歌にこう書いています、「シュリ・クリシュナの御名の朗唱に最高の栄光あれ。それはハートの鏡を浄め、世俗的存在の火を消す。それは、究極の至福という白蓮華に降り注ぐ月光のようである。それは至福の海を高まらせる。それはすべての者にとって心を静める沐浴のようである」

 われわれが口にする一語一語はわれわれの心中に起こる何等かの観念か願望の表現です。マントラは、人の霊的衝動を現します。ちょうど普通の言葉が発せられ、耳に聞かれるとわれわれの内部にある思いか願望を呼び起こすことができるように、マントラも、通常大部分の人々の内部では隠れて横たわっている霊的渇仰心を呼び覚ますことができるのです。それぞれのマントラが正しい形で唱えられると、求道者の心中に一連の聖なる波動を呼び覚まし、その波動が瞑想の対象であるイシュタを示すのです。リズミカルで調和のある響きは無限の存在であり、愛であり、至福である至高思考の霊のシンボルであり、表現であります。その波動は求道者を至高霊に触れさせます。ジャパによって、神霊はこの世界よりもっとリアルなものになります。ついには、ジャパは神の自覚にまでわれわれを導くのです。

 求道者は、マントラは浄め、高める力を持つということを思わなければなりません。マントラを繰り返すことによって自分はより浄らかになりつつあり、内部に霊的な力を蓄えつつあるのだと思うべきです。ジャパの効果は短時日のうちに、またはたやすく認められるものではありません。しかし、求道者が信仰をもってねばりづよくこれを続けるなら、彼は必ず心中にある変化を見いだすでしょう。指で数えること、数珠を用いること――これらは注意を内に向け、心をイシュタに集中することを助けます。不安定な心は、あらゆる手段を用いて静められなければなりません。求道者は、ハートに多少の愛をもって神を思わなければなりません。イシュタに対する愛と帰依の心があると、彼に取ってジャパと瞑想の道を歩むことは大変に楽になります。

 ヤマとニヤマという二つの訓練を実践することによってわれわれは道徳的により高い境地に上り、ジャパと瞑想によって霊的境地に入ります。身と心は、そして思いと行いが次第に浄まるにつれて、もっと深く心が集中するようになり、もっと瞑想ができるようになります。そしてやがては、人格的、および超人格的二つの面を通じて神に触れることができるようになるのであります。


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