最高をめざして 注釈
一九八五年六月十六日
九 霊的大成のためには積極的努力(プルシャカーラ)が必要である。「私は修行にはげみ、みずからの努力によって神を悟ろう」と固く決意せよ。そして三、四年間、毎朝、毎晩少なくとも二時間ずつ、ふさわしい姿勢ですわってジャパと瞑想を着実に行い続けよ。それで成功するものかしないものか、見てみるがよい。
プルシャカーラとは、努力と、自己を信頼するということです。プルシャカーラを備えている求道者は、修行に全力を傾け、ぜひ霊性の自覚を得ようと堅く決意をします。誰でもが、知力と活動力はもっています。プルシャカーラを備えている信者は、自分の肉体的、心理的、道徳的および知的能力のすべてを、人生の目的を達成するために費やします。彼にとって人生の目的はたった一つ、神を悟るということなのです。彼は、ジャパと瞑想の堅固な実践によって、神への真の渇仰の念を養い、神を悟るに必要なすべての霊的徳性を身につけるよう努力します。
霊的なめざめを願う信者はたくさんいます。しかし彼らの大部分は、修行の熱意を欠いているのです。生温い努力しかせず、よい生活をしようという意欲をもっていません。人間の生を得たのは希な幸せなのだということを理解せず、霊性の進歩のために最善の努力を尽くそうともしません。彼らは情熱を欠いているのです。
プルシャカーラを具えた信者は情熱に満ちています。自らを信じ、神を信じ、ジャパと瞑想の堅固な実践によって、非凡な心の力を開発します。不屈の意志をもって、目標への途上に横たわるすべての障害を克服しようと努力します。彼は勇気をもってすべての障害に直面し、ついにはそれらを克服するのです。熱心な信者は失敗してもくじけることなく、限りない根気と忍耐とをもって、目的をとげるために新たな努力を試みます。プルシャカーラを持たず、努力する気のない平凡な信者は、やすやすと失敗に負けて、霊的生活への情熱を失います。彼はただ惰性で修行を行うだけ、自分は、到達の見込みのない、自分にとっては高すぎる理想を取り上げたのだと思い込んで、目的成就の希望をすててしまうのです。このような信者は霊性の生活においては決して成功する見込みはありません。
さて、霊性の修行の世界における、積極的な努力の必要性を検討してみましょう。「バガヴァド・ギーター」はその第六章「瞑想の方法」の中でこう言っています。 「人をして、彼自身によって自らを向上させよ。自分で自らを低下させてはならない。なぜなら、彼のみが彼自身の敵なのである。自分で自分自身を克服した人にとっては、彼自身が彼の友であるが、自分で自分自らを克服し得ない人にとっては、彼自身がまさに外部の敵のように、彼の敵の位置をしめる」
霊的達成を求める人は、識別と積極的な努力によって、世間の束縛、苦しみや不幸から自分自らを引き上げ、高めなければなりません。自分を低くしてはなりません。むさぼり、怒り、憎しみ、執着、臆病、およびその他の霊的生活における堕落のもとである低い本能に譲ってはなりません。識別とジャパおよび瞑想の堅固な実践によって浄められた心が、霊的求道者の唯一の友であります。霊性の問題について彼を助けてくれる友は他にはいません。それゆえ、求道者は自分の心を訓練してそれを自分の友としなければならないのです。
人間の友達は、心の束縛であるに過ぎない愛情によって、執着をもたらします。霊的解脱は、束縛とは反対のものです。世俗の事柄にあっては、もし責任の重い仕事を引き受ければ、われわれは友人や身内の協力を求めるでしょう。彼らの助けを得て、それを完成し、成功もするでありましょう。霊性の修行の達成は外界の事業ではなく、生命と心の内的変容であります。それは主観的変化です。内面の変化には外からの助けはほとんど役に立ちません。また、われわれを助けてくれる人々に対してはわれわれは愛情を感じ、彼らに頼ります。このような人間に対する世俗的愛情は、われわれの心を神から離します。それゆえ、彼らをわれわれの真の友と呼ぶことはできないのです。神を愛し、神に頼るのが、霊的達成のしるしであります。
世俗の責任は友人たちと分ち合うことができます。しかし霊性の問題に関しては、全責任はその求道者の上にかかっているのです。彼がひとりで自分の人生目標を選んだのですから、彼がひとりで目標に達し、彼自らの努力によって霊性を開発しなければなりません。他の何人も彼の失敗の責任を取ることはできないのです。
霊性の修行、すなわちジャパと瞑想は心を浄めます。霊的真理は浄らかな心に姿を見せます。浄らかな心はおのずから神の方に向き、神を愛するのです。不純な心は常に世俗の対象に、そして快楽に引かれ、霊性の真理を理解することはできません。ですから、不純な心は外部の敵と同じように、求道者にとっては有害なのです。霊性を求める人は自ら努力して、自分の心を自分の良き友、真の友に変えるようにしなければなりません。
ふたたびわれわれは、ムンダカ・ウパニシャッドの中に次のような章句を見いだします。
「弱い精神の人は自己を悟ることはできない。不注意な人も、誤った苦行を行なっている人も、悟ることはできない。しかし、気力をもって、注意深く、正しく努力する人々は、ブラフマンへの合一をとげる」
ここにわれわれは、霊的生活に成功するためには、深い信仰と自己信頼とそして内面的な力が必要であることを知ります。これらの諸徳の莫大な積み重ねによって、求道者はさまざまの障害と、障害につきものの失敗から来る落胆を、乗りこえるのであります。
自らの努力の必要なことはイエス・キリストも、シュリ・ラーマクリシュナも指摘しています。キリストは言っています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる」(マタイ七章)
この教えには、積極的な努力の必要が特に強調してあります。それは、霊性の探求において、このような努力が成功のもとであるということを示しているのです。
シュリ・ラーマクリシュナは、霊的生活においては努力が絶対に必要であるということを示す、彼の生涯の中の一つの出来事を話しておられます。「ある日、私はヴィジョンの中でハルダルプクル(カマルプクルの彼の生家のそばにある大きなため池)を見た。私はそこに一人の村人が水をくみ上げているのを見た。彼はときどき水面からスゲをとりあげては水を手にすくい上げて検べた。これは、次のことを示すために、神が私にお見せになったのである。スゲを除かなければ水を見ることができないのと同じように、神の愛も、神の悟りも、努力無しには得られない。瞑想、主の御名を唱え、彼の栄光をたたえること、彼に祈ること、慈善的行為、および犠牲供養の挙行、それらは神に導く行為である」
師は悟りへの道を知りたいと願う信者たちに向かって繰り返し、熱意と努力とをもって霊的修行を実践するようすすめられました。ある信者に向かってこう言っておられます。「お前は到達したいと思う目的にふさわしい方法をとりなさい。『ミルクの中にバターが含まれている、ミルクの中にバターが含まれている』といくら叫んでみてもバターを手に入れることはできまい。もしバターが欲しいと思ったら、ミルクをカードにして、それをよくかくはんしなければならない。そうして初めてバターを手に入れることができるのだ。だから、もし神を見たいと思うなら、霊性の修行を始めなさい。ただ『おお、神よ。おお、神よ』と叫んでいて何になるか」
この言葉からしても、何かを得たいと欲する人は誰でも、それに応じた形で骨を折らなければならないということは明かです。単なる怠惰なおしゃべりとか、努力の伴わない理論的な知識とかは実質的な結果を何も生み出しません。真に神に憧れている求道者は躊躇なく修行に身を投じ真剣な努力をします。
シャンカラーチャーリヤは、彼の二つの短い詩によって、霊性の問題では人は他者の助けがなければ進歩できないと考えている人々の誤った信念を除きました。彼は巧みに、宗教生活では他者からどんな助けも得るチャンスはないということを述べています。求道者は彼自身の力と努力とに頼らなければならないのです。彼が引用している二つのたとえは、彼の主張をはっきりさせ、われわれに自分の努力の必要さを納得させるものであります。彼はこう書いています。
「ある父親は、自分の息子たちその他に自分の借金を払わせた。しかし自分の束縛を解くことは、自分以外の誰にもできない。適当な食餌をとり、薬を飲む病人だけが完全に治る。しかしもし他の者が代わりにその薬と食餌をとるようだったら、彼は治らないだろう」
これらのたとえは、誰もが知っている、普通の人間の日常生活の中からとられています。悪い思いや俗心や無知に悩む求道者は、彼自らの努力でそれらを除かなければなりません。淨い思い、信仰、純粋な知識で心を満たすべきです。
スワミ・ブラマーナンダも、努力と堅固な意志が重要な修行であることを語っておられます。「自らを信ぜよ。霊性の生活に成功するためには、自らの努力が絶対に必要である。少なくとも三年間、何等かの修行を行い、それで、もし見えるほどの進歩がなかったと思ったら、やって来て私の顔をひっぱたいてもよい。
「人間の生を受けたことは何という大きな恵みだろう。人だけが神を悟ることができるのだ。神を悟るということが人の唯一の目的でなければならない。神に到達するよう最善の努力を尽くし、まさに今生で自由になれ。
「何が霊性の修行と訓練の意味であり、目的であるか。この意志、つまり今生で神を悟ろうという意志を強めることだ。心が純粋になるにつれて意志は強くなる。この意志をゆるめて、いずれ将来に神を悟ろうなどと考えるのは全くの怠惰だ。ブッダのことを思って見よ。どれほどの決意をしたことか。長年の探求の後、彼はついに一樹の下にすわり、この場で神を悟るか、さもなくばここで死のう、と覚悟したのだ。これが必要なことである」
努力と信仰についてのスワミ・ヴィヴェーカーナンダの言葉
主は、全心全霊をこめて悟りのために苦闘している人をご覧になると、彼に対しては非常に慈悲深い。しかし、怠けて何の努力もしない人には、見よ、決して彼の恩寵は下らない。(全集六巻四八一頁)
われわれ自身に対する信頼という理想は、われわれにとって最も広く大きな助けである。もし、われわれ自らに対する信頼がもっと広く教えられ実践されていたなら、われわれが今こうむっている悪や不幸の非常に多くが消滅していたであろう、と私は確信する。人類の歴史を通じて、すべての偉大な男女の生涯において、特に他に抜きんでいた原動力があったとすれば、それは彼らの自分に対する信頼の力である。自分は偉大であるはずだ、という意識を持って生まれたので、彼らは偉大になったのである。ある人が最低まで堕落したとする。必死の思いで、方向を転換し、自らへの信頼を持つことを学ぶときが来るに違いない。しかし、われわれにとっては、最初からそのことを知っている方がよい。どうして自分への信頼を得るためにそんな苦い経験をする必要があろう。
人と人との違いはすべて自己信頼の有無から来ているのを見ることができる。自己への信頼はあらゆることを成し遂げるであろう。私は自分の生涯の中でそれを経験して来たし、今も経験しつつある。しかも、歳をとるにつれてその信念は強くなりつつあるのだ。彼自らを信じない人は無神論者だ。昔の宗教は、神を信じない者を無神論者だと言った。新しい宗教は、自分で自分を信じない者は無神論者だと言う。しかし、これは利己的な信仰ではない。なぜなら、再び言うが、ヴェーダーンタは一者の教えなのだから。これは、すべての者への信頼を意味するのだ。なぜなら、あなたはすべてのすべてなのであるから。あなた自身への愛はすべての者への愛を、けものたちへの愛を、一切物への愛を意味するからだ。なぜなら、あなた方すべては一つなのであるから。これは、世界をよりよくする偉大な教えなのである。
本当に、「私は自分のことを全部知っている」と言える人は最高の人である。どれほどのエネルギーが、どれほどの能力が、それほどの強さが、あなたというその枠の蔭にひそんでいるか、あなた方は知っているか。科学者たちが知り得たもの、それが人の内にあるすべてか。人間が初めて地上に現れてから幾万年がすぎた。それでも、彼の力の無限小の一部分が現されただけなのである。それだから、あなたは自分は弱いなどと言ってはいけない。表面の堕落の陰にどれほどの可能性が潜んでいるかを、どうして知ることができよう。あなた方は自分の内にあるものの、ごく僅かしか知らないのだ。あなたの背後には無限の力と至福の海が存在するのである。