最高をめざして 注釈

一九八五年四月二十一日

  あなたがジャパと瞑想にささげる時間がどの位であれ、――たとえそれがたった十分か十五分間であるとしても、――心魂かたむけてそれを行ぜよ。主は内在者、内なるガイドでいらっしゃる。かれはあなたのハートを見ていらっしゃるのだ。かれのものさしは何時間瞑想したかとか、何回ジャパを行ったかとかいうことではなく、どれほど主を慕っているかということだ。

  最初は、ジャパと瞑想は無味乾燥なものと感じられるだろう。しかし、たとえそれが薬をのむようなものであろうとも、それでもあなたは実行し続けなければならない。三、四年間着実に実行すれば、歓喜をおぼえるようになるだろう。そうなると、たった一日でも瞑想ができないと不幸に、まるで調子が狂ったように感じるのだ。

    さまざまの礼拝の方法

 ジャパ、すなわち神の御名を繰り返すことは、霊性の生活における一つの重要な修行です。マントラの繰り返しは、神への心の集中、および瞑想の実践への最も効果的な足がかりです。ジャパは人を内にも外にも神がましますという霊的な経験に導くのです。

 さまざまの信者がさまざまの方法で神を礼拝するでありましょう。その一つは儀式による礼拝です。神像や、絵姿や、あるシンボルが神の現れとして礼拝されます。花や香や果物などがささげられ、それを神が慈悲深くお受けになるのです。儀式を通じての礼拝によって、信者は、信仰生活の初期の段階に神への愛を深め、徐々にもっと高い段階へとすすむのです。この、儀式による方法よりも高いのは、祈りや、ジャパや、聖典の読誦による礼拝です。この方法によると、求道者は彼のイシュタデヴァに祈り、その御名を唱え、光輝く彼の姿を自分のハートの内に瞑想します。寺院に行ったり、花や香を供えたりはしないかも知れません。心の中で、ハートの内なる神を礼拝するのです。彼は人気のないところに静かに座り、神の御名を唱えて深い喜びと霊的至福を感じます。これよりも高いのは瞑想です。信者がこの形の礼拝を実践するときには、彼は神への思いの不断の流れを保ち、イシュタデヴァの生きた存在の実感に没入します。彼は祈りとジャパを超越します。しかし二元性の感覚は残っています。

 礼拝の最高の方法は、個別の自己と至高の自己との合一の、つまりジヴァートマンとパラマートマンとの合一の瞑想です。この瞑想は、イシュタデヴァとしてハートの内で礼拝されているブラフマンの自覚に直結しています。ブラフマンの自覚はすべての霊的修行の最高段階であって、それは人生の最高の目標です。修行者は、すべての人の内に、彼自身の内部に、そして一切所に、普遍の実在を経験するのです。

 これらが、一人の求道者が一歩一歩と進歩して行くためのさまざまの段階です。求道者は自分の修行を、彼が今いる所から始めるべきです。もしある求道者が、その宗教生活の初めに絶対のブラフマンとの合一を瞑想するよう指示されるなら、それは実行不可能でありましょう。多少は努力をしても間もなく、大して得るところはなく、修行をあきらめてしまうことになるでしょう。同じ人がもし、花や香を供えて神を拝むことを教えられ、この、儀式による礼拝を続けるなら、彼は間違いなく、徐々に進歩をするでしょう。心は次第に神に集中するようになり、彼は礼拝に深い喜びを感じるようになるでしょう。このような儀式による礼拝を行うことによって、ジャパの実行への熱意も深まるのです。心が精妙になるにつれて、より高い礼拝形式を行う力も増して来ます。ジャパによって、心は瞑想に引かれるようになり、求道者は、自然な、しかもたやすい道を経て人生の目標に近づくことができるのです。霊性の進歩は一歩一歩やって来ます。人は突然大きな一とびでゴールに達するなどということはできないのです。

 われわれは、突然に無限霊を悟るなどということはできません。求道者が一夜で覚者になることは不可能なのです。彼はゆっくりと、注意深く向上を続けなければなりません。スワミ・ブラマーナンダはこう言っておられます、「男が家の内庭に立っているとしよう。彼は屋根に昇りたいと思っている。しかし、はしごをかけて一段一段上って行く代わりに、体ごと、ほうり上げて貰うとする。どうなるか。大怪我するだろう。霊性の生活もそれと同じことだ」

    マントラ・ジャパ学説

 ジャパとは、神への帰依と信仰とをもってマントラを繰り返すことです。マントラは言葉であって、イニシエーションのときに自分の霊性の師、つまりグルから受けるものであります。マントラは、神の神秘的な音のシンボルであると考えられています。マントラには、音の一定の連続を現すように、ある文字が配置されており、その文字は、音を現す記号であります。

 デーワターすなわち、祭神は最高神の特定の面または姿であって、彼に向かって信者は祈り、礼拝するのです。最高神はさまざまの面を持っていますから、さまざまのデーワターがあります。どのデーワターを現すマントラも、もし信者がそれを繰り返し唱えるなら、その力で彼の意識にそのデーワターが啓示される、という文字、または文字の組合せであります。ですから神は、ジャパの霊的な力によって信者に姿を見せられるのです。あらゆるマントラはそれにつながる神をもっており、その神はそのマントラを司る神と呼ばれています。マントラは、音という姿をした神のからだなのです。ジャパを行うときには、マントラは正しい形とリズムで唱えられるべきです。

 マントラは、古代インドの賢者たちに啓示されてものであると言われています。賢者たちは、長い厳しい修行によって精妙な、鋭い、純粋な知性を開発しました。彼らは高い意識状態の中で、マントラを聞いたり、見たりしました。そして通常の意識に戻ったとき、それらを憶えていて弟子たちに教えたのです。彼らは弟子たちに、彼らもそのマントラが示されたときのような高い霊的境地に達するよう、それを繰り返すことを指示しました。精妙な状態で、マントラは永久に存在します。それらは、高度に霊的な魂にだけ啓示されるのです。マントラは何人によって構成されたものでも、作られたものでもなく、それらは霊的に高く開発された人々に啓示されたものである、ということは心にとどめて置くべきです。

 マントラは神の御名です。人が名前を持ち、その名で呼ばれるように、主はマントラで呼びかけられるのです。ジャパを行うときには、求道者はイシュタデヴァの姿を瞑想すべきです。

    マントラという言葉の意味

 マントラという言葉は、字義的には、深く思うことによって人を解脱させるものという意味です。普通の人々にとっては、マントラは単なる言葉、または決まり文句です。しかし、霊的に高い境地にある人にとっては、それは深遠な霊的経験に導くところの、偉大な力を持つ濃縮された思いであります。正しいジャパによって、つまりマントラの繰り返しによって、人は最高の悟りと自由を得ることができます。求道者は、音の響きの余韻をたどることによって祭神の霊的ヴィジョンを得、やがては、すべての音の振動を超越して、至高霊に到達するのです。

    ジャパの三つの方法

 ジャパ、すなわち神の御名の繰り返しは、三つの方法ですることができます。第一に、求道者は、言葉が自分だけに聞こえる程度に声を出して唱え、心をイシュタデヴァに集中します。求道者がある場所にたった一人でいる場合には、自分に聞こえる程度に繰り返してもよいでしょう。これはヴァチカ、つまり口頭のジャパと呼ばれています。第二には、彼は、唇だけをぅごかし、声は出さずに唱えます。この種のジャパは、ウパムス、すなわち半口頭のジャパと呼ばれています。第三の方法は、舌も唇も動くことを許さず、心の中で唱えるものです。この沈黙の繰り返しはマナシカ、すなわち心のジャパと呼ばれています。心のジャパが最高なのですが、それを難しいと思う人は、他の二つを実践するのがよろしい。ジャパを行っている間は、求道者は、意識をハートの中心に置くべきです。

    ジャパの正しい方法

 ジャパは、オウムのように、マントラの意味も趣旨も理解せずに行ってはなりません。パタンジャリは彼のヨガ・スートラ(一−二八)の中で、神の御名を繰り返すときには、修行者はマントラの意味をよく考えるべきであると言っています。修行者が霊的に進歩するにつれて、彼はマントラの意味を次第に深く理解するようになるのです。

 ジャパのときには、修行者はイシュタデヴァの光り輝く、至福に満ちた姿を心に思い描くべきです。無限の淨らかさ、知識、信仰、慈悲、愛、および至福の権化として思い描くのです。イシュタデヴァは至高の自己、パラマートマンです、すべての生きものに内在する普遍の霊です。

 イシュタデヴァはわれわれのアートマン、われわれの魂です。修行者は、自分はアートマンである、アートマンは心ではない、エゴでも感覚でもないということを記憶していなければなりません。自分は魂である、無限霊の一部であるということを知らないで、われわれは、すべての魂の魂、至高の霊であるところの神を、知ることはできないのです。

    結果

 このようにしてジャパを実践しているとどの様な結果が得られるのでしょうか。パタンジャリは、「もろもろの障害が除かれて、新しい霊的意識が内部にめざめる」(一、二九)と言っています。われわれは不断に悩みや心配をつくりつつあり、悪い思いが次々に心に起こりつつあります。これらの悪い思いがわれわれの心をさわがし、肉体に故障を起こさせるのです。聖なる言葉を繰り返せば繰り返すほど、聖い思いを思えば思うほど、至福に満ちた姿を瞑想すれば瞑想するほど、心はいっそう平安な、調和を得た状態になります。心の健康は、そしてある程度は、肉体の健康も、神の御名を繰り返すことによって増進します。われわれにもその力が分かるようになります。神の姿の瞑想の力によって、われわれの心中に隠されている新しい霊的意識が現れて来ます。われわれは、自分は単なる肉体ではない、魂であると感じるのです。そして、イシュタデヴァはパラマートマンと一体の存在である、至高の平安、至高の至福、至高の愛の源泉であるということを感じるようになります。神の御名の力とはこういうものであります。

 普通の心の背後に、精妙な、霊的な心が存在します。これは、すべての人間の内部に、種子の形でひそんでいるのです。ジャパと瞑想の実践によって、このより高い霊的な心が発達します。この発達と共に新しいヴィジョンがひらけ、求道者は、さまざまの霊的真理を悟るのです。信仰をもって、真剣に、規則正しくジャパを実践するなら、自ずから心が神に没入するようになり集中力は著しく増大します。

    信仰

 信仰は、ジャパの実践のためには最も大切なものです。最初は、ある程度繰り返しが機械的になっても差し支えありません。しかし、われわれはマントラの力に対して、信仰を持たなければなりません。修行者は最初は、たとえ結果がどうあろうと、無限の忍耐をもって、定められた時刻に、ジャパを続けるようにすべきです。これがやがては必ず成功する秘訣なのであります。御名を唱えると同時に、求道者は、自分の心と身体と感覚は浄まりつつあるのだと思うべきです。この信念は確固としたものでなければなりません。これはジャパの根底をなす観念の一つなのですから。神はわれわれの救い主であられるのですから、彼の御名もわれわれを救う力があるのです。神の御名はわれわれの神経を鎮め、心を穏やかにし、身体に好ましい変化をもたらします。心が緊張状態にあったり、滅入った状態にあるときには、神の御名を唱えるとバランスを回復し、散漫になる傾向を止めることができます。ジャパの効果は、直ちに理解することはできません。求道者は何年間か、その修行を続けなければなりません。やがて彼は、自分の心と生活に大きな変化が起こっていることに気づくでしょう。やがて、喜びと平安と力を感じるでありましょう。人が病気になって薬を飲むとき、最初の一服では効果のほどは分からないでしょう。しばらく続けて様子を見なければなりません。世俗の思いと悩みと執着に満ちている心の場合も同じことです。ジャパはふさわしい修行によって適当な時期が来たとき、神的な経験をもたらすのであります。

    日課

 霊性の生活においては、一切のことははっきりと定まっていなければなりません。求道者がまず最初にしなければならないことは、きちんとした日課を作り、何事に代えてもそれを厳守するということです。ある人々は、厳しい日課は生活を機械的にすると言って恐れます。しかしそれは違います。厳しい日課だけが、散乱する心を制御することができるのです。初心者は、ある定められた日課がなければ決して進歩することはできません。彼は、新しい習慣をつくり、それを強化せねばならぬということを忘れないようにすべきです。それによって霊的生活は楽になり、求道者が感じる初期の緊張は大きく軽減されるのです。

 霊性の修行の時刻は厳守されなければなりません。規律を守ることによって初めて心は訓練され、それになれて来るのです。日課のジャパに関しては、いかなる事情のもとにあっても、ある最低限度は守るようにすべきです。

 求道者は、自分の心境の上がり下がりを気にする必要はありません。そのような変化は、あらゆる求道者にとって不可避のものです。シュリ・ラーマクリシュナはよく言われました、「海に近づくと、河にも上げ潮と引潮がやって来る」 求道者は、ムードの如何で心を悩ませてはなりません。心はもともと上がり下がりするものです。しかしジャパが確実に行われていれば、彼は、少しも変化しない神の現前を感じるでしょう。規則正しい実践は心の安定をもたらし、思索と内観の力を強めるでありましょう。

    姿勢

 暁と正午と日暮れと夜中は、ジャパや瞑想を行うのに最もふさわしい時です。この時刻に、自然は平安に満ち、われわれの内部と外部の霊的バイブレーションの流れに変化が起きるのです。少なくとも、朝と夕方のこの時刻は守るべきです。

 早朝はジャパと瞑想を行うのに最善の時です。夜の眠りは、肉体の緊張と心の煩いを除いてくれます。この時に新鮮な心を集中することは容易です。信仰者は、目覚めたらすぐ、主にご挨拶をして、心を聖い思いと神の御名で満たすべきです。世俗の仕事を始める前に、できる限り霊的な修行を行うべきです。その時刻には、現在意識はまだ活動的ではなく、しかも潜在意識は現在意識より感受性が鋭敏です。早朝に心に与えられた暗示は、何であれ、深く潜在意識の中に入り込んで、印象は長く続きます。早朝、夜明けの直前は、霊性の修行には最も貴重なときであります。

 日課の行が終わったら、そのまま静かに座り続け、くつろいだ形で瞑想の対象のことを思うがよろしい。そうすると心は新しい霊的想念にみたされ、更に高い喜びが得られるでありましょう。そのような喜びは心のもっと深い層から来るものであって、「バジャナーンディ」すなわち霊性の修行から得られる喜びと呼ばれています。修行者は自分の内にも外部の世界にも、平安と調和を感じるでありましょう。このくつろぎは、ごく短いひとときのものであります。その席を立った後も、すぐにはしゃべることをせず、しばらくは沈黙を守り、落ち着いていなさい。このような方法は、心の奥底に瞑想的な傾向の不断の流れを養い、心を高いレベルに維持します。日課の行を行った後には聖典を読むのがよろしい。

 何かの仕事に携わりながらもジャパを続ける人があります。人間の心は、霊性の修行によって浄められ、制御され、開発されたときには、驚くべき能力を示すものであります。

    結び

 ここに、シュリ・ラーマクリシュナとスワミ・ブラマーナンダとがジャパの実践とその効果について語られた二つの言葉を引用して、この話を終わることにしましょう。

 シュリ・ラーマクリシュナは言っておられます、「ジャパは、人気のないところで、黙って神の御名を繰り返すことである。お前がひたむきな信仰をもって神の御名を唱えるなら、お前は神の姿を見、神を悟ることができるのだ。ガンガーの流れの底に沈み、一本の鎖で堤防につながれている材木があるとする。お前はその鎖につかまり、環を一つ一つたどって水底深くに潜って行くとする。ついにはその材木に達するだろう。同じように、神の御名を繰り返すことによって、お前は彼に没入し、ついに彼を悟るのだ」

 スワミ・ブラマーナンダジーはジャパを非常に重要視されました。彼は言っておられます、「ジャパム、ジャパム、ジャパム。働いているときでも、ジャパムをせよ。

あらゆる活動の最中にも主の御名が不断に流れ出るようにせよ。もしそれができれば、ハートに燃える思いはことごとく静められるだろう。多くの罪人たちが神の御名に身を寄せたことによって浄まり、自由になり、神を悟った。神とその御名を深く信ぜよ。この二つは別のものではないということを知れ」


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