最高をめざして 注釈
一九八五年三月十七日
六 アビヤーサ、すなわち不断に繰り返す努力、とヴァイラーギヤすなわち世間の事物への無執着、この二つ以外には、心の一点集中をとげるための容易い便利な方法は無い。
心の散乱
瞑想にすわると、われわれの心は容易には集中しません。さまざまの方向に散乱し、多くの感覚対象をめざしてさまよって行きます。われわれは、自分の勤めのことを思います。しなければならない仕事のことを思います。得たいと思う品物のことを、行きたいと思う場所のことを思います。時には、心は怒りで落ちつかなかったり、愛する人への強い執着でいっぱいになったりもします。過去に遭遇したある屈辱的な出来事を思い浮かべると、われわれの心は怒りで満たされます。これらすべての望ましくない思いがわれわれの心を瞑想の対象から引き離し、われわれは、心を一点に集中することができないのです。
アビヤーサすなわち不断の実践
心の一般の傾向は、外に向かって行くものです。瞑想というのは、心をさまざまの感覚対象から内に引っ込める、ということです。それは、自己を内に引っ込める練習です。外にばかり向かう傾向の心を持っているからといって、われわれは瞑想の実践をあきらめてはなりません。反対に、散乱する心を制御するために、更に一層の努力をすべきなのです。そのような思いは瞑想中は捨てなければならない、と堅く心にお決めなさい。もし、つまらない思いが浮かんで来たなら、この問題はあとで考えればよろしい、瞑想中に考えるべきではない、と思うようになさい。求道者は常に、瞑想の時間中は自分の目的は心を所期の目標に集中することであって、その努力のみを繰り返すべきである、ということを、はっきりと心に銘記しておきなさい。このように努力を繰り返すことがアビヤーサであって、アビヤーサによって、求道者は心の集中を得るのです。外界の事物はいっさい退けよう、という強い決意は、心を静かにします。求道者は、偉大な心の力がハートに潜在しているのであって、その力の強さによって心は静められ、たった一つの対象に集中されるのである、と思うべきです。このような努力の繰り返しが、心の一点集中を得るためには不可欠のものなのであります。たとえ一向に速やかな効果が見られず実践が非常に困難であるように思われても、決して、この努力を怠ってはなりません。
規則正しい実践
ときには、瞑想を始めるや否や心が静まり、安定することもあります。大なり小なりの努力の後に集中が得られることもあります。ある場合には、最大の努力を尽しても心の散乱を防ぐことができません。このようなとき、求道者は自分は瞑想をする資格がないのだろうと思い、修行をやめてしまうかも知れません。このような道は決して、たどってはなりません。とにかく、実践は続けなければならず、いくら失敗しても、決められた日課は必ず守るべきであります。もし落胆の結果努力をやめるなら、その人は決して心を制御することはできず、決して目標に到達することはできないでしょう。努力は繰り返されなければならぬ――それも短い期間ではない、という、ここに与えられている教えは、忘れないようにしなければなりません。長い厳しい修行によって、堅固な心は得られるのです。聖者たちの生涯を研究すれば、彼らが度重なる失敗にもめげず努力を続けたという、多くの実例を見いだすことができます。度重なる失敗は、度重なる努力によってのみ克服することができるのです。落胆、絶望は、霊性の生活にはつきものの妨げであって、それらはすべての求道者の生涯に起こるものです。求道者は、失敗と成功の連続を通じて完成し、堅固になり、確固とした習性を獲得するのだ、ということを憶えていなければなりません。
心のエネルギーを大切にすること
シュリ・ラーマクリシュナはよく言われました、「決して、自分の心のエネルギーを浪費してはいけない」と。これは、絶えず神を思っていよ、という意味であります。世俗の人は、自分の金を浪費しないよう非常に注意を払いますが、どんなに心を浪費しているか、ということにはほとんど無関心です。心が全く神を忘れてしまうことがないよう、絶えず見張っている必要があります。シュリ・ラーマクリシュナの教えは、「すべてのエネルギーを世俗の事柄に費すことはするな」というものです。心の一部は、神のために取っておおきなさい。常に神とのつながりを保つようになさい。そのような心は、瞑想のとき、よく集中するのです。
スワミ・ブラマーナンダも、常に神を心に思うことの必要を強調しています。彼の助言は、「実践せよ、実践せよ、そして実践せよ」です。彼はこう言っています。「不断に神を思え。食べるとき、座るとき、横になるときに神を思え。何をしていても神を思え。このような実践を繰り返していれば、瞑想を始めるとたやすく神を思い、彼に没入するようになるであろう」と。(イターナル・カンパニオン 二九五ページ)
「忍耐せよ。限りなく忍耐を続けよ。実在に到達するまでは。初歩の段階では、瞑想は退屈なもの、ちょうどアルファベットを習うようなものだ。徐々に、平安がやって来る。イニシェイションを受けたあとでやって来て少しも変わったことがない、とこぼす若者たちがいるが、私は二、三年は知らぬ顔をしている。やがて彼らはやって来て、『はい、マハラージ、このごろは少し変わって来ました』と言うのだ。「せっかちになってはいけない。二、三年、努力に努力を重ねよ。やがてハートは喜びに溢れるであろう」と。
忍耐、不屈の精神および心の浄らかさは、心を一点に集中させるのに必要なものです。
聖典の研究、高徳の人々との交わり、祈り、およびジャパの繰り返しは、不必要な思いや心配から心を浄めます。このような修行の実践によって、心は瞑想のときに速やかに神に没入するようになるのです。
ヴァイラーギヤすなわち世俗の事物への無執着
この世のであれ来世のであれ、すべての快楽の対象を完全に無視することを、ヴァイラーギヤと言います。それは求道者に感覚の楽しみを思いとまらせようとする、心の傾向です。人がこの世で何らかの有徳な行いをすると、彼は死後天上界にゆき、そこでその有徳な行為の果実を楽しむことになっています。しばらくすると、その徳は使い果たされ、その人は新しい生を受けてこの世に戻って来るのです。どんな働きも、永続的な幸福はもたらしません。すべてのこの世の、または天上の幸福は一時的のものであって、短いのです。しかし、神の悟りは、永遠の幸福をもたらします。永遠の幸福を欲する人は、かりそめの幸福は捨てなければなりません。このように識別をすることによって、人はヴァイラーギヤを得るのです。ヴァイラーギヤはまた、働きのすべての果実の放棄、およびそれらへの無執着をも意味しています。
シュリ・ラーマクリシュナは、神は実在、この世は非実在である、と言っておられます。快楽の対象に満ちたこの世界は、人生のゴールではありません。人生の目標は神です。ですから信者は、自分の、世俗の事物とそれらの楽しみへの渇望の心を制御しようと努力するのです。ヴァイラーギヤは、快楽の欠点を調べることによって、得られます。
快楽と、心の不安
人間は五つの認識の器官を持っており、これらの器官は、音、匂い、色や形、味および触覚というような、それぞれの対象によって絶えず外部に引き出されています。感覚対象の魅力が心を動かし、心は感覚器官を通じて、対象を楽しむのです。不断に外界の対象の引力を感じるような心は、決して静かであることはできません。対象の楽しみは満足をもたらすことはできず、もっともっと楽しみたいという、更なる願望を生み出します。快楽への願望が、心の不安定の主な原因なのです。さまざまの欲望に満ちた心は、常に不安で、そして散漫です。そのような心は、内に向けることもできないし、一つの対象に集中することもできません。欲望が大きければ大きいほど、心の不安も大きいのです。
マハーバーラタに、欲望を満たしても、欲望は決して満足させられるものではない、バターが注がれると火がもっと燃え盛るように、それは欲望を増すだけである、と書いてあります。このような識別によって、欲望は抑制されるべきであり、道を求める人は同時に、心の満足を養うようにすべきです。満足した心は、速やかに集中します。
感覚対象の無制限の追求の悪結果
感覚対象の無制限の追求は、心を散漫にし動揺させるだけでなく、ついには言いようのない不幸をもたらします。このことを、シャンカラーチャリヤは五つの動物を引用して適確に説明しています。動物は識別の能力を持っていないので、やすやすと感覚対象の餌食になるのです。
鹿は、美しい音が大好きだ。このことを知っていて、狩人は笛で美しいメロディーを奏でる。すると鹿は音に魅せられて狩人に近寄り、直ちにわなにかけられてしまう。象は触覚の対象につよく引きつけられる。飼い慣らされた雌の象が檻の近くにおかれる。野生の象が、その鼻にさわろうとして彼女に近づく。雌の象は、雄の象を鼻で抱いて徐々に彼を檻の中に誘導する。自由な象はこのようにして、触覚の感じへの執着のゆえに、捕らえられてしまうのである。
火の美しさに引かれて蛾はその中に飛び込み、死ぬ。見るものへの執着が、死の原因である。水に住む魚は、餌のうまさに引かれて命を失う。蓮の花の香りに引かれて、黒ハチはそれにとまり、終日そこに止まっている。日の落ちるのも知らないで蜜を吸い続けている。蓮がその花弁を閉じるとハチはそこに閉じ込められ、やがて死ぬのだ。右のようなのが感覚対象への強い執着の、惨めな結果である。五つの感覚器官を抑制しない場合の、人間の不幸はどれほど大きいことか、と。
シャンカラーチャリヤは、抑制と離欲の効果にも触れています。彼の言うには、無執着と離欲という剣で感覚対象という鮫を殺した人は、生死の繰り返しという大海をやすやすと渡る、と。また、解脱を欲する求道者は、感覚対象を毒薬のように避け、満足、慈悲、赦し、平静、および自制の諸徳を注意深く養う、と。(ヴィヴェーカ・チュダーマニ 八〇〜八二)満足と自制は心を静め、瞑想のときに心を集中させます。
バガヴァド・ギーター第二章第六十節に、主自らが次のように言っておられます、「感覚は非常に危険である。それらは心を、愛と憎しみで、執着と嫌悪で動揺させる」
と。
賢い人は、心と感覚を制御しようと非常な努力をします。彼は識別力を持っており、執着の悪い結果を知っていますから、非常な努力をもって、感覚を制御しようとするのです。しかし莫大な努力にもかかわらず、感覚はときに実に狂暴になり、賢い人の心をも、瞑想の対象から引き離すのです。感覚の、心を散らす力は実に強いのです。
また第六十七節にはこう書いてあります、「強風が船を予定のコースから運び去り、迷わせるように、制御されない感覚は、修行者の注意を瞑想の対象から運び去り、それさせる」
第六章、瞑想の方法、の第三十五節で、アルジュナは心を制御しようとする自分の努力の経験を述べています。彼は、心は不安定で、騒がしく、強く、かたくなである、と言っています。心が一つの対象に長いこと集中することができないのは、不安定だからです。肉体と感覚を動揺させ興奮させて悪い結果を生じさせるのは、騒がしいからです。識別によってさえ支配することができないのは強いからです。感覚対象への執着から容易に引っ込むことができないのは、頑固だからです。常に吹き続ける風を一つの瓶に閉じ込めることができないのと同様、心を一点に集中させることは不可能です、と。アルジュナは、このような性質の心を、抑制するのはほとんど不可能なことだ、と考えるのです。
主はこのような主張を聞かれて、次のように言われるのです、「心は不安定であって制御することが難しい、ということは本当だ。しかし実践(修行)と離欲とによって心も抑制することができるのだ。長い間、少しもたゆまずに実践を繰り返すことにより、そして識別と信仰との助けによって、心は静まり、一点に集中するのである」と。