最高をめざして 注釈
一九八四年一一月一八日
五 心が完全に静かなときには、やがてクンバカ(呼吸の保留)がやって来る。呼吸が落ち着いたときには、心は一点に集中する。バクティ(神への愛)もまたおのずからクンバカを引き起こし、呼吸は平静になる。ヨガを修行なしないでも、主を忘れずに渇仰の心でジャパを行なっていれば、プラーナーヤマは、自動的に達成される。
瞑想中、心が静まり、高度の集中力をもって神を思い続けるようになると、呼吸は自ずと安定した静かなものになる、ということが注目されて来ました。修行者がサマーディ、すなわち生命の超感覚状態に達すると、彼の呼吸はとまり、身体は静止し、不動になります。この肉体の徴候を観察した結果、ある修行者は、ある種の練習によって呼吸を制御します。呼吸を静かに、規則正しくリズミカルに行なうことによって、心は静かになり、安定するのです。ラージャ・ヨガすなわちサイキック・コントロールの科学は、瞑想の実践のための付随的な手段として、正しい呼吸法の科学を教えています。
呼吸は、心の状態を示すしるしである、と見なされています。ある人の呼吸の様子を見ていれば、その人の心の状態を知ることができます。他者の耳に聞こえるような息をする人、重い、粗い、または浅い息をする人は、その心が粗野です。ある種の短い呼吸は、短命のしるしです。
心が動揺すると、呼吸が乱れてきます。人が怒ったり、何かの激情に支配されると、その人の呼吸は浅く、不規則になるのが見られます。心が安定し、静かであると、呼吸は静かで、規則的で、リズミックです。それゆえ、呼吸を規則正しくすることによって、われわれは心を制御し、不安動揺の状態を除くことができるのです。心と呼吸とは相関関係にあるもの、一方が他方に影響を与えることができるものです。
ここに二つの呼吸法が挙げてあります。第一のものは行なっても危険はなく、瞑想を始める前に行なえば若干の利益があるでしょう。
(霊性の)修行者は、深く、静かに、ゆっくりと、肺の許容量いっぱいに息を吸い込みます。吸い込むときに、決して音を立ててはいけません。それから、息を保つことをせず、直ちに、吸ったときと同じように静かに、ゆっくりと吐き出します。同じリズムを保ちつつ、これを繰り返します。このリズムは、心にも身体にも健康な影響を与えるのです。リズムをもってなされることは何でも鎮静的なはたらきをしますが、そのリズムが破られると混乱が起こります。このために、リズミックな深い呼吸は、肉体の、そして心の動揺を除きます。この呼吸法を行なうときには、姿勢を正しく保つ必要があります。
第二の呼吸法は、息を両方の鼻孔から代わる代わる吸い込み、それをしばらく保持する、とうものです。(説明省略)しかしこの種の呼吸は、専門家である教師の指導なしには、決して行なってはなりません。このプラーナーヤマの目的は、潜在する心のエネルギーを急速に呼び覚ますことです。修行者がもし、この特別のエネルギーを制御し得るだけに成長していない場合には、有害な結果をもたらすのです。ぜひ次のことを覚えておおきなさい。すべての霊的修行、つまりジャパや瞑想の実践をしていれば、人は知らぬ間にプラーナーヤマをするようになり、心に霊的な力がうまれるのです。霊性の修行は、安全な、そして自然な形で徐々にこのエネルギーをもたらします。プラーナーヤマはそれを速やかに得ようとするものなのですが、必ずしも安全とは言えないのです。
他にも呼吸法はありあますが、ここ出ている指示はプラーナーヤマの実践をすすめていないのですから、それらをここで論じる必要はありません。
ホーリーマザーは、プラーナーヤマの実践はオカルトパワーをもたらし、このような通力は修行者を迷わせると言っておられます。「修行者はとかく、放棄心と神への愛を深めるよりは通力の獲得の方へ心を引かれるのです。プラーナーヤマも、少しばかり行じるのは差し支えなけれど、深入りしてはなりません」もし心がジャパや瞑想の実践によっておのずから静かになるなら、プラーナーヤマの必要はないのです。スワミ・ブラマーナンダは、プラーナーヤマ及びその他のヨガの行法は今の時代の環境には適していないと言われました。
プラーナーヤマの意味を十分に理解するにはもう少し話をする必要があります。
インドのある哲学者たちによると、この宇宙は二つの非常に精妙な物質からできています。その一つはアーカーシャと呼ばれています。それは遍在していて、非常に精妙です。形を持つ一切のもの、結合の結果である一切のものはこのアーカーシャから展開したのです。このアーカーシャが空気になり、液体になり、固体になっているのです。太陽も、月も、地球も、人間の体も動物の体も、われわれが見たり感じたりする一切のものはこのアーカーシャからできています。それは非常に精妙であって、普通の知覚力でとらえることはできません。それが粗大になって形を取ったとき、われわれはそれを見ることができるのです。創造の初めには、このアーカーシャだけが存在します。サイクル(周期)の終りには、固体も液体も気体も、ことごとくがアーカーシャの中にとけ込みます。次の創造はアーカーシャから生じるのです。
アーカーシャがこの宇宙に、われわれが自分の周囲に見るさまざまのものに展開するには、ある力が必要です。この力はプラーナと呼ばれています。アーカーシャがこの宇宙の無限かつ遍在の材料であるように、プラーナはこの宇宙の無限かつ遍在の顕現力です。周期の終りには一切のものはアーカーシャとなり、宇宙にある一切の力はプラーナに還元されます。次のサイクルには、われわれがエネルギーとか力とか呼ぶ一切のものはこのプラーナから展開します。
このプラーナは、運動として、重力として、肉体の動きとして、神経の流れとして、思いの力として現れています。心の力も、物理的な力も含めて、宇宙間の力の総計は、それらがその根元の状態に還元されたとき、プラーナと呼ばれるのです。
このプラーナは、人間の身体の活力です。それは肺臓の動きとして現れています。われわれの思いはプラーナの最も精妙な活動です。このプラーナが、肺臓の活動によって人体の中に呼吸を生み出しています。肺の活動はポンプの作用をして、空気を吸い込み、吐き出しているのです。人々は間違って、呼吸が活動を生み出していると思っていますが、実は、このプラーナが、肺を動かしており、肺の活動が、外部の空気を吸ったり吐いたりしているのです。
肺の活動は呼吸につながっています。プラーナは最初に肺にはたらきかけます。肺は心臓にはたらきかけます。心臓は血液の循環をうながします。今度はそれが脳に、脳が心にはたらきかけるのです。(ヴィヴェーカーナンダ全集八巻四二頁)これらすべての活動は、普通の人間には知覚できない、精妙な形で行なわれるのです。
プラーナがある形で制御されると、それは、心にある力を与えるようになります。心はもっと高いレベルに上昇し、精妙な、霊的知覚力を得ます。ヨギたちは、速やかにもっと高い状態に達するためにこのプラーナを制御することを欲し、そのためにプラーナーヤマを行なうのです。プラーナは活力という意味、アヤマはそれの支配という意味です。ですからプラーナーヤマは、人体の活力の知識と制御という意味です。
浄らかな霊的観念が心に生じると、リズミックな呼吸が肺と鼻孔を通じて流れるということが見られて来ました。その肉体の徴候を見て、ある人々は、心に精妙な霊的な思いを生み出すために、プラーナーヤマによってリズミックな呼吸を実修し、高いサイキカル(心霊的)な状態を得ようと努めるのです。しかし、そのような結果は、必ず得られるというものではありません。なぜなら、心は、前もって正しい訓練を受けていないと、高い霊的知覚を受け入れることに反抗するのです。単に呼吸法を修行したというだけでは、心に変化をもたらすことはできません。機械的な助けは、常に心を助けるというものではないのです。高い境地に達している修行者の場合は、不断の堅固な霊的修行の力によって、心はより高い段階に移動します。しかし正しい修行を経ていないのに、心がより高いレベルに押し上げられると、その心は、高い霊的観念を抱くことができません。このような技巧的な無理な方法は、あべこべに危険な結果をもたらすのです。
人間の神経と頭脳は、心にとって普通のものであるところの想念や感情だけを、たやすく、完全に運ぶ能力をもっています。それらは、突然に、異常な、もしくは普通のものを超越した想念や感情を伝えることはできないのです。もしそれをすることを強いられると、少しの間はいやいやそれに従いますが、ついには完全に破壊されてしまいます。これが、心身に破滅をもたらすのです。
われわれの肉体と心の生活は、神経と脳との正しい働きの上に大きく依存しています。より高い知識、霊的な喜びの感情、および精妙な感動は、健康な身体と浄らかな心があってはじめて得られるのであります。霊性の生活にあっては、われわれはきわめて精妙な力、想念および感情と取り組まなければなりません。これは健康で強壮な神経および頭脳を必要とします。霊的修行の長い間の実践によって、神経と頭脳は、徐々に、正しく改善されるのです。プラーナーヤマによってもたらされるような、唐突な高い知覚は、神経と頭脳に大きな害を与えます。それだから、ここではプラーナーヤマの実践は指示されていないのです。ジャパと瞑想の規則正しく堅固な実践によって、心は徐々に霊的感情や経験を実現するようになるのですから。