最高をめざして 注釈

一九八四年十月二十一日      

 四 人は通常、休んでいるときには左の、働いているときには右の、そして瞑想のときには両方の鼻孔によって呼吸をする。瞑想に最も適した状態は、心身共に静まって呼吸が両方の鼻孔によってなめらかに行われているときである。しかし、あまりこのことを気にしたり、これによって自分の行動を規制したりしてはならない。

    定義

 瞑想とは、ある特定の対象の切れ目の無い思い、ということです。瞑想中は、心は一つの対象だけを思うように努め、心自体は、頭の頂とかハートとか、一つの場所に固定されます。瞑想にすわると、心は、最初はさまよい歩いてさまざまの対象を思うでしょう。しかし、修行が続けられるうちに、心は徐々に静かになります。さまざまの対象への思いは少しずつ消えてゆき、特定の対象に集中するようになります。心のこの状態がダーラナ、すなわち集中と呼ばれ、これが、瞑想の第一段階であります。心が静まり、しばらくの間、望んでいる対象に集中し続けられるようになると、瞑想、またはディヤーナと呼ばれるのであります。

    例証

 瞑想は、一つの瓶から別の瓶への、切れ目のない油の流れに例えられています。油は続けて流れ、その連続は、途切れることはありません。雨が降るときには、雨の粒が連続して落ちて来ますが、その一滴一滴は離ればなれです。もしそれらが一本に続いて落ちて来るなら、そこに不断の水の流れがあることになるでしょう。瞑想はそのようなもの――心の思いの、一つの不断の流れです。瞑想においては、思いはいささかの途切れも乱れもなしに、一つの対象に向かって流れ続けるのです。川の水が一つの連続した流れの形で海に向かうように、心も、瞑想のときには、主に向かって流れなければなりません。ですから瞑想は、長い時間の心の集中です。

 もし心が十二秒間、一つの対象に集中することができるならそれはダーラナであり、そのようなダーラナが十二倍続くなら、それはディヤーナ、すなわち瞑想でありましょう。

    初歩の段階

 最初は、心と戦争をやるようなものです。心は、空中を絶えずあちらこちらに向かって吹いている風のようなものであって、風を一つの瓶の中に閉じ込めることはできません。心を一つの対象に固定させることもまた、不可能のように見えます。心は常に、一つの対象から別の対象へと移ってゆきます。努力の繰り返しによって、この落ち着きのない心は制御されるようになり、主の足元に、またはある理想のもとに置かれるようになるのです。不断の修行が、このさまよい歩く心を制御する、たった一つの手段であります。

 最初のうちは、早く集中状態に達しようとして、頭脳を過度に働かせるようなことをしてはなりません。正しい方法は、ゆっくりと進み、徐々に努力を強化して行く、というものであります。規則正しい実践によって、心は堅固になり、瞑想はより容易くできるようになります。そうなると修行者は、長時間すわっていても緊張を感じないようになります。人は眠ったあとは心身がさわやかになります。そのように修行者は、瞑想がらくにできるようになるとそのあとは心身さわやかに感じます。その心は喜びと幸福感に満たされるでありましょう。

 ある修行者は、一時的な情熱ゆえに、突然、瞑想の時間を長くしようとします。そのような試みは大てい、有害な反動現象をもたらします。彼らは憂うつになり、ある者は瞑想する力を失うのです。その滅入った心を引き立てて霊性の修行の方に戻すのは非常に困難な仕事です。それゆえ時間は徐々に伸ばすようにしなければなりません。

    忍耐と不屈の精神

 ある日々には、瞑想にすわると心が静かになります。また他の日には、心は落ち着かず、いくら努力しても制御することができません。このような場合には、修行者は決して実践をあきらめることをせず、忍耐と不屈の精神とをもってそれを続けなければなりません。河に潮の干満があるように心にも潮の差し引きがあるのです。忍耐と規則正しい修行によって、心は静かになり、集中されるようになるのです。

    リラックス

 瞑想がすんだら、修行者はすぐに座を立つことをせず、そのままでくつろぐようになさい。心はしばしば、瞑想のあとでくつろいでいるときに静かになり、霊的な経験をするものです。瞑想の直後には、世俗的なことを考えたり、世間的な仕事に携わったりはしないようになさい。

    怒り、とん欲などの制御

 深く瞑想したいと思う求道者は、怒り、とん欲、憎しみ、嫉妬などの感情を制御しなければなりません。そのような感情は、心を不安定に、不安にします。瞑想は不安な心ではできません。求道者は静かで、優しく、つつましやかで、言葉は親切でなければなりません。善良さと淨らかさとが言葉と行為とを通じて、すべての振舞いと活動とを通じて、流れ出るようでなければなりません。このような修行者が、強い集中力をもってらくに瞑想することができるのです。このような人は、瞑想に深い喜びを感じるでありましょう。彼はあらゆることに、自己制御を実践しなければなりません。バクティの聖典と、宗教的な書物を読むことは、心を純粋な思いで満たし、高いレベルに保ちます。心がより高いレベルに保たれると、瞑想はらくにでき、深くなります。

    ヨガ・システム

 パタンジャリのヨガの教理には八つの段階があり、その中でダーラナは六番目、ディヤーナすなわち瞑想は第七番目の段階です。瞑想の最高頂は、超感覚的境地すなわちサマーディの達成です。瞑想を満足に行なうためには、修行者はその前の五つの段階を大切にしなければなりません。五つの段階というのは、ヤマ、ニヤマ、アーサナー、プラーナーヤマ、およびプラティヤーハラです。

     肉体と心

 肉体と心は密接に関係し合っています。身体が調和を失うと、心も乱れます。それゆえ修行者は、適当な食物をとって身体を健やかに保つべきです。食物は栄養のある、体質に合ったものでなければなりません。食べすぎも、食べ足りないのもよくありません。休息と睡眠についても同様。眠りすぎは修行者を怠惰にし、不眠は心身の活力を失わせます。それゆえ、修行者は、寝食、活動において、中庸を保つよう心がけるべきです。

    瞑想の時間

 瞑想に相応しい時間というものがあります。最上の時は、朝になろうとする時と、夜になろうとする時です。夜がまさに明けようとする時と、日がまさに暮れるようとする時には、静寂な状態が自然界に遍満します。早朝と夕暮れとは二つの静かな時期です。人間のからだと心は、この時期に静かになる傾向を持っています。われわれは、自然のこの状態を利用して、少なくとも日に二回、この移り変わりの時刻に瞑想を実修するようにしましょう。

    環境

 瞑想の場所は、静かで、そして邪魔の入らない所でなければなりません。瞑想の修行だけのために一部屋とっておくこができるなら、尚良いでしょう。部屋は清潔できちんとしていなければいけません。そこは他の目的に、特におしゃべりや眠ることには使われぬようすべきです。

花を飾り、心を喜ばせる絵を飾り、線香を焚いたり等すると、雰囲気が非常に良くなります。求道者は、その部屋には心身を淨めて入るべきです。その部屋では、争ったり、怒ったり、不浄な行ないをしてはなりません。そのような戒めが守られると、やがてその部屋には神聖な雰囲気が満ち、悲かんに暮れているような人がその部屋に入ると、おのずから心が静まるようになるでしょう。このために、寺院や教会は造られているのです。神聖な思いはその場所を神聖なバイブレイションでみたし、その部屋に入ると神聖なバイブレイションが心にしみ込んでその人は落ち着き、悲しみを忘れて喜びを感じるのです。一つの部屋を確保できない場合は、部屋の一隅を瞑想の場所、と定めるがよろしい。

 瞑想は、火が燃えている場所や野獣のいる所やその他の危険の感ぜらる場所、あまりに騒々しい場所、または大ぜいの邪な人々のいる場所で行なってはなりません。汚い場所は瞑想には相応しくありません。場所は静かで心地良く、淨らかでなければなりません。求道者は、公衆の面前で瞑想をすべきではありません。

    姿勢とからだ

 求道者は、胴と頚と肩と頭とを一直線に静止させ、まっすぐにすわらなければいけません。まっすぐな姿勢は、心の集中を助けるのです。地面または床は固すぎず軟かすぎぬようになさい。

 直立の姿勢は瞑想には欠かすことのできないものです。

 まっすぐな姿勢は、さまざまの内臓器官を正しい場所におき、それらが不必要な重荷を負うことなしに正しくはたらくようにします。この姿勢は、われわれの健康および一般の肉体組織の安定に、非常に役立つものであります。肉体が少しも邪魔をしないと、瞑想は大変らくにできるものです。瞑想中は、われわれは心を集中し、肉体を忘れます。もし肉体のどこかが痛んだり、気になることがありますと、完全な集中は不可能です。

 直立の姿勢ですわる、ということには、もう一つの霊的な利益があります。われわれが神を瞑想したり、より高い、神聖な対象を思ったりすると、ある、上向きの流れが、脊椎の底部から頭脳の中心に向かって上昇します。この流れは、脊椎がまっすぐで直立しているとらくに上昇するのです。そこに何かの妨げがあると流れは下降し、有害な反応を示します。

 床にすわるにあたって、求道者は、有名な蓮華座すなわちパドアーサナーを選んでもよろしい。この姿勢は、最初右の足を左の腿の上におき、次に左の足を右の腿の上におきます。両方の足の裏は上を向くことになります。足が腿の上に置かれると、それらはひざを圧迫し、その結果腰および脊柱がまっすぐになるのです。もし求道者が、この姿勢をらくに取ることができないなら、どの姿勢でも、らくにすわることができて長くそのままを保つことのできる姿勢を選べばよろしい。忘れてならないことは、瞑想の重要な目的は、心を制御し、欲する対象に集中することでありますから、すわる姿勢よりは、心の集中の方に、もっと多く、注意を向けるべきだ、ということであります。

    祈りと神聖な思い

 次の段階は、心を神聖な思いで満たす、ということです。求道者は、心の中でこうくり返すがよろしい。「すべての生きものが幸福であれ。すべての生きものが平安であれ。すべての生きものが至福にみちてあれ」この神聖な思いの流れを東西南北、四方に向けてお送りなさい。このような思いをくり返すと、心は静かになり、活きいきとします。今度は、彼は神に祈るべきです。祈りは金を求めるものではなく、健康を求めるものではなく、天国をねがうものでもなく、祈りは信仰を、知識を、そして霊性の悟りをねがい求めるものであります。祈りのあとでは、信者は、自分の体は丈夫である、自分の心は強く健康である、と思いなさい。自分を信じ、希望を持ち、弱さの観念はことごとくすて去るべきです。弱い人は、信仰を持つことも、知識を得ることもできません。

    呼吸

 

 呼吸は、瞑想中はリズミックに、規則正しく、静かになさい。


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