最高をめざして 注釈

一九八四年八月十九日 

 二 修行の結果として得られるであろう悟り、見神、またはそれに類する経験を、グル以外の誰にも語ってはいけない。あなたの霊性の至宝、あなたの心の奥底の思いは、常に自分の内部に隠しておけ。これらは世間の人々の眼にさらすべきものではない。あなたと主のとだけでひそかにわかち合うべき、あなたの神聖な所有物である。同様に自分の落度や欠点について他人に語ってはならない。それによって自尊心を失うし、他人の尊敬も失う。それらは主に向かって告白すべきものだ。かれに、それらに打ちかつ力を与えたまえとお願いせよ。

 (一)誰もかれもが宗教に興味を持っているというものではありません。大部分の人々は世俗的な生活をしています。彼らの心と知性は経験的な事実の理解のみに適しているのです。霊的な事柄は、宗教を実践する人々、聖典の命令を守り、グルの指示に従う人々だけが理解できるのです。修行の実践によって心は純粋になり、知性はより精妙になります。神のことを思う人々、神に霊的な知恵をお与え下さいと祈る人は、神の恩寵を理解し、霊的な知識を理解することができるようになります。このような叡知や知識や経験は、求道者にとっては宝物のようなものです。金やダイヤモンドや宝石のような地上の宝は、信仰者にとっては宝ではありません。金やダイヤモンドや宝石のような持ち物は、世俗の人々にとっての宝物なのです。世俗の人は、自分の宝物を誰でも彼でもに見せはしません。安全な処にかくしておきます。信仰者も同じように、自分の宝は秘密にすべきです。霊的経験は他者には隠しておくべきです。

 (二)信仰者は、自分の修行をグルの指示に従って始めます。グルはこれらの指示に従った結果を知っており、彼のみが弟子の経験を理解することができるのです。他の人々はそれを理解することはできません。弟子の経験や思いを聞き、その進歩の程度を知って、グルは、彼をより高くへと導きます。それゆえに信者は、グルとのみこのような問題を論議すべきであります。

 一人の信者が異なった方法で神を礼拝することもあるでしょう。さまざまの信者たちは神に対してさまざまの態度をとり、霊的生活における彼らの経験は、その態度に応じてさまざまでありましょう。ある信者の態度と経験は、それを話して聞かせる相手の信者の態度や経験とは異なるかも知れません。そのような信者は相手を信用せず、または批判するかも知れません。このようなことは不信や失望落胆を招くだけです。それゆえ、悟りやヴィジョンや経験はグル以外の誰にも語るなと、ここに指示されているのです。

 (三)すべての信者が同程度に進歩しているというものではありません。一人はいま始めたばかり、他はかなり進んでいるのかも知れません。両者の経験と理解は同様ではないでしょう。一人の経験は他を助けるものではないかも知れません。それだから、自分の経験を他に明かすのは無益なことなのです。

 (四)ジュニャーナ、つまり知識の道の信奉者は、信仰の道の信奉者とは大きく異なっています。知識の道の信奉者は、信仰の道の修行を信じません。ジュニャーニは、この世界の神の形を非実在で意味のないものと見なします。しかし、信仰者にとってはそれらは非常に重要です。彼は神の姿を、実在する、しかもインスパイアリングなものとみるのです。神のヴィジョンや経験は、彼の信仰を深め、その道を更に前進するよう、彼をはげまします。バクタもジュニャーニも、共に宗教的なのです。神を人生の至高の目的としているのです。しかし両者の道は大きく異なっていて、互いに他を評価することは難しいのです。それゆえ、一方の経験を他者に語るべきではないのです。このような発表は、議論と反論を誘発するだけでそれは時間とエネルギーの浪費です。

 どのような人々が低俗な人々と呼ばれるのでしょうか。(バガヴァド・ギーター第十六章四節)自分の正しさを誇示する人々、富や学識を自慢する人々、うぬぼれにみちた人々です。低俗な人々は、自分の怒りを制御することができません。彼らはしばしば動揺し、他者のわずかの間違いにも耐えることができません。態度は傲慢で、言葉は粗いものです。彼らは識別力を欠いています。何が実在で何が非実在であるか、判別することができません。宗教的な人々を敬うことを知りません。バガヴァド・ギーター第十章、神の栄光の瞑想の中の第九節で、主は言っておられます、信者たちは思い(心と感覚)を私に集中し、彼らの生命は私の中に没入する、彼らは、私について互いに自分たちを啓発し合う、彼らは常に私について話し、このようにして、そこから満足と喜びを得る、と。

 信者は社会に暮し、さまざまの仕事をしなければなりません。家庭の仕事あり、会社の仕事あり、そしてまた社会に対する責任を持っています。その間に、求道者は、さまざまの性質を持つ多くの人々に接触します。彼は非常に注意深く仲間を選ばなければなりません。非常に物質的な見解をもつ人々と親しくなってはいけません。あらゆる方法で、悪い交友を避けるようにすべきです。すべての人が神の現れであり、礼拝するに値するのですが、求道者がこのことをしっかりを悟るまでは、彼は、道徳的に不純な人との交わりは避けなければなりません。不道徳な人々はより低い本能を誘発させ、知らぬ間に、他者に悪影響を与えるのです。邪な人は邪な人との交わりを求め、有徳の人は有徳の人との交わりを求めるものです。

 シュリ・ラーマクリシュナは教えていらっしゃいます、神はあらゆる処にましますということは事実だ、しかし人はどういう場所に行っても良いというものではない、水は生命保持に不可欠なものであるけれど、どの水でも飲んで良いというものではない、ある水は足を洗うにふさわしいかも知れない、水の選択は注意深くなされるべきである、そのように、求道者は自分の環境および交友について注意深くなければならない、と。

 (ナーラダ、バクティ・スートラ、一八七)

 信者は信者同志の交友を求めるべきである。そして共にいる間は、神のことを語るべきである。理性に頼り、また、聖典の章句や聖者の言葉をよりどころにして化身のこと、神の現れのことを語り合うべきである。彼らは神を称え、その慈悲、化身としての現れ、およびその業を称えるべきである。一人が神を説明すると他が聞き、また他が語ればもう一人が聞くというようにすべきだ。このようにすれば、彼らは幸せと喜びを感じる。信者は信仰なく修行もしない人々との交友を避けるのと同様に、自分たちの間でも、世俗的な事柄のおしゃべりを避けなければいけない。そうすることによって、彼らの心は神の方に向き、彼らは喜びを感じる。

 「おお神よ、あなたは私の父、あなたは私の母、あなたは私の友、あなたは私の伴侶です。あなたは私の学問、世俗の問題の知識ではなく、あなたの知識が私の学問です。世間の人々の金銀、ダイヤモンドではなく、あなたが私の富です。おお神よ、あなたは私のすべてのすべて。」(バガヴァド・ギーター十八章六七節)

 バガヴァド・ギーターはすべての宗教の奥義中の奥義を含んでいます。バガヴァド・ギーターはウパニシャッドのエッセンスを含んでいます。ウパニシャッドの哲学的論議は難しく理解困難です。バガヴァド・ギーターは、ブラフマンの科学――属性を持つのと持たないのと二つの形の――を教えています。

 バガヴァド・ギーターはヨーガ――知識のヨーガ、信仰のヨーガ、働きのヨーガ、および心の統御のヨーガ――の聖典です。

 教えはシュリ・クリシュナとアルジュナとの間の、つまりシュリ・クリシュナという姿で現れている主なる神と、その最愛の純粋な信者である偉大なアルジュナとの間の問答という形で進められています。宗教の教えは相手構わずに論議すべきものではありません。霊的経験は誰でもかれでもに明かすべきではありません。

 バガヴァド・ギーターの終り近く第十八章、「放棄の道」で主はアルジュナにある特別の指示を与えています。彼は、この霊的、宗教的教えを、宗教上の戒めを守らない者、修行を行わない者には明かすなと戒めています。

 バガヴァド・ギーターの知識は、信仰者でない者や、それをききたがらない者や、主クリシュナに欠点を見いだそうとするような者には伝えてはならないのです。主クリシュナを普通の人間と見る者、彼の神聖な性質を認めず、彼を悪くいうもの、グルまたは主に信仰を持たない者、このような人々はバガヴァド・ギーターのエッセンスを聞き、学ぶにふさわしくない者です。


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