シュリ・ラーマクリシュナ生誕祝賀会の講話

一九八六年三月十六日

第一部

誕生と少年時代                

緒言

 この世界には幾百万の人々が宗教的生活を送っています。宗教の道をたどる人は、一方に聖者、見神者と呼ばれる人たち、そして他方に予言者、神の化身たちという、両者の間のはっきりした区別を知らなければなりません。どちらも神人たちです。しかし、後者は、その霊性の力、影響、自由自在性、および救世的な愛に置いて独自のものがあります。予言者や神の化身たちは、新しい宗教や活動を創始し、または古いものを生き返らせます。彼らが生み出す動力は幾百年を経ても弱らないのです。

さまざまの化身たち

 神の化身たちは、時代の要求に応じてやって来るのです。彼らの生涯と教えは、かつて、時代錯誤的であったことはありません。この不思議な現象は注目すべきものであります。。彼は、時の破壊力を問題にしないような活力を示します。彼の影響は世界から消え去る、というようなことはありません。

 ラーマ、クリシュナ、ブッダ、キリスト、およびシュリ・チャイタニヤ。彼らの一人一人が幾百万の求道者たちの生命に彼の不滅の存在を示し、霊感を与えました。彼らがこの世に生きていたときには、数えきれぬ人々が畏怖と驚嘆をもって彼らの言葉を聞きました。彼らは権威をもって語り、正しく人々を導きました。時が来て彼らの肉体は滅びましたけれど、その神的な魅力と声は生き生きとして残っています。

(一)シュリ・ラーマ

 シュリ・ラーマは言っています、「すべての生きもの、たとえ一度でも『私はあなたのものです』」と言った者は誰であれ、その者を恐怖から解き放ってやる、というのが私の誓いである」と。われわれは何千年前にこのような言葉が彼の口から出たものか知りません。しかし、ある信者がそれを聞いたとします。彼は即座に内なる変容を経験するでしょう。そしてシュリ・ラーマに避難し、平安と喜びと光明を見いだすのです。

(二)シュリ・クリシュナ

 バガヴァド・ギーターに出て来るシュリ・クリシュナの言葉も同様な力でわれわれに訴えます。彼は友であり、弟子でもあったアルジュナに向かって、「すべてのダルマを捨てて私のみに隠れ家を求めよ。私はあなたをすべての罪から救って上げよう。悲しむな」といっています。このような言葉はアルジュナ一人に与えられたのではありません。それはすべての時代のすべての国の、すべての真摯な求道者に与えられたものです。このような保証がわれわれの心を引き付け、それを聞くことによって著しい結果が得られるのはそれだからであります。

(三)ブッダ

 肉体を離れる前にブッダはその弟子たちに、「自らに依存せよ。あなた方は自分自らにより頼み、自分自らの灯火とならなければいけない。努力して自らの救いを獲得せよ」と言いました。この、魂を鼓舞するブッダの戒めはいまも幾千の奮闘しつつある求道者によって聞かれ、彼らは新たな勇気と力とを得て、ゴールに向かって進むのです。

(四)イエス・キリスト

 救世主、イエス・キリストの言葉には巨大な力がこめられています。無数の男女が今もなお彼の言葉から霊感を受けています。それらを思い起こして、彼らは十字架を取り上げ、キリストに従うのです。彼らは持てるものすべてを売り払い、神の卑しいしもべとなるためにそれを貧しい人々に与えます。

(五)同じように、他の予言者たち、モーゼ、ゾロアスター、マホメットおよびシュリ・チャイタニヤなどを読んでごらんなさい。彼らに調子を合わせる人々は彼らの言葉を聞くことができるのです。もしこのような神的な人格たちの声を聞くことのできない人々がいるなら、それは決して、そのような神人たちはいないということを証明するものではなく、彼らの生活が物質的であって、彼らは霊的にはつんぼであるということを示すに過ぎません。

(六)シュリ・ラーマクリシュナ

 われわれの時代にごく近く生きておられたシュリ・ラーマクリシュナは、この予言者の系列の、非常に優れた継承者であることを示しておられます。それだけでなく、ラーマ、クリシュナ、キリスト、マホメットおよびシュリ・チャイタニヤのような過去のすべての化身たち予言者たちは、彼の内にいきいきと生きておられます。彼らのすべてが彼を通じて再び語ったのでした。スワミ・ヴィヴェーカーナンダはあるときこう言いました、「彼は、宗教界に於ける過去のすべての偉大なエポックメイカーたち、すなわち画期的存在の形を変えた現れである」

 シュリ・ラーマクリシュナを襲った神への渇仰心は旋風のように彼を圧倒しました。十二年間の長きにわたって、彼は相つぎ、神的存在のさまざまの面を悟り続けられました。彼は、いつ夜が明け、いつ太陽が沈むのかも知りませんでした。世の喧噪は彼の耳に達しませんでした。彼はただ心中に燃える神への渇仰の火だけを意識しておられたのでした。彼は、色欲と金銭欲の放棄、自己制御、および謙遜の徳を、他に比類がないという限度まで実践されました。彼の真理へのきびしい執念は異常なものであり、神への情熱的な愛は前例を見ないものでした。

 超人的な霊的努力の結果として、彼の悟りは非常に広く、しかも優れたものでした。日々、彼の前には超越的実在のさまざまのヴィジョンが現れました。神々や女神たちが彼の前に現れ、彼の体の中に姿を消しました。

 彼が瞑想した予言者や神の化身たちは神々しい姿で彼の前に現れ、彼の中にとけ込みました。彼の憧れは彼にイエスやマホメットの輝かしいヴィジョンを示したのでした。神による酩酊は彼の心の普通の状態となりました。この長く続いた習慣の結果、彼は絶対者からはごく薄い仕切りで隔てられた霊的世界に住んでおられました。ごくわずかな神的な刺激にもこの仕切りは破られ、彼は超感覚的状態に飛び込んでしまわれるのでした。

 生涯の晩年には、彼は社会と接触されました。彼はうまずたゆまず真摯な求道者たちを教え導き、計画的に一段の若い弟子たちを訓練して、彼らの力を伝えられました。眼に見ぬ形で大きな宗教的ルネッサンスを引き起こして、世を去られたのでした。

 シュリ・ラーマクリシュナは本当に世を去られたのでしょうか。他の人々と同じように死んでしまわれたのでしょうか。答えは、絶対にノーというものです。彼は他の人々と同じように死なれたのではありません。なぜなら、彼は他の人々と同じように生きておられたのではありませんから。

 生きておられた時でさえ、彼の肉体は、彼がさまざまの場所に同時に現れることを妨げませんでした。弟子たちや側近の中のある人々は、彼がドッキネッショルにおられるときに、遠く離れた土地や、カルカッタの閉じられたドアの背後などに彼を見、かつその身体を感じてびっくりしたものでした。死が彼の存在にいかなる変化をもたらすことができた、というのでしょう。

 ですから、シュリ・ラーマクリシュナがたびたびホーリーマザーの前に現れて、彼女は未亡人ではないということを、彼は一つの部屋から別の部屋に移られただけなのである、ということを強調なさった、ということは、決して不思議ではありません。シュリ・ラーマクリシュナにとっては、それは、感覚に縛られた世界から超感覚の世界の部屋に移られただけのことだったのでした。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダが、自分は師の手の内にある一個の道具に過ぎない、と感じ、そのように断言したことも不思議ではありません。兄弟弟子たちや信者たちに向かって、彼はひそかに漏らしました、「私は今までたびたび、彼の恩寵の徴しをいただいた。彼は私の背後にたち、これらの仕事すべてを私にさせておいでになるのだ」と。

 あるとき、ラーマクリシュナ僧団の初代の長、スワミ・ブラマーナンダジーにある弟子が尋ねました、「しかしマハーラージ、あなたには、シュリ・ラーマクリシュナはまだ生きておられる、とおっしゃるのですか」と。スワミ・ブラマーナンダジーは即座に答えて、「君は気が狂ったのかね。もし彼が生きておいでにならないのだったら、われわれはどうしてこのような生活をしているのかね。家を捨て、持ち物を捨てて。彼は生きていらっしゃるのだよ」と言われました。

 神の化身の霊的存在は、彼の肉体の死の幾千年後にも感じられます。彼の影響は時がたつにつれて増大します。もし、神の現れは肉体の破壊の後にも存続するというのが霊の領域の法則であるなら、過去の化身たちは実在であり、彼らがその中に融合した、というシュリ・ラーマクリシュナも存続しておられるのです。疑いもなく、彼は生き生きと生きておられるのです。

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダはこう言っています、「シュリ・ラーマクリシュナは力である。彼の教えがどうとかこうとか思うべきではない。彼は今でも彼の弟子たちの中に生きていて、この世界で働きつつある力である。私は、彼が彼の思想の中で成長しつつあるのを見た。彼はなお成長しつつあるのだ」と。

 彼の弟子たちは声を併せて、彼の教えを広めたのは師おん自らであって、自分たちが行ったのは名ばかりの仕事である、と言っています。もし、シュリ・ラーマクリシュナが力であったなら、彼は今も力であります。なぜなら、霊性の力は、その肉体的中心が消えたときに一層強まるのですから。


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