カルマ・ヨーガの講話
一九八八年七月十七日
カルマヨガ(全集第一巻)(四月十七日の続き)
サーンキヤ哲学
サーンキヤ哲学によると、二つの究極実在があります。プルシャと、プラクリティすなわち自然です。それらは、存在としては互いに独立しているものです。プルシャは、意識をその本性としており、知能的な原理です。プルシャは、いかなる形でも、行為したり変化したりはしません。
プラクリティ、すなわち自然は、無意識の原理です。それは変化をこうむるものであって、多様な変化を含むこの世界の究極の原因です。この世界の展開は、プルシャのプラクリティとの結合によって始まります。プルシャの意識がプラクリティを動かして活動させ変化させるのです。ですから、プラクリティは、知覚されるこの世界の動力因であり、質料因でもあります。
プルシャは自由で、不死で、無限で、至福にみちています。ところが無知のせいで、それが自分を、肉体感覚および心であると思い違えるのです。プルシャは、人の自己です。自己と自己でないものとを識別することができないために、私たちは悲しみや苦しみを感じるのです。
サーンキヤ哲学によりますと、さまざまの身体につながって数多くのプルシャがある、ということになっています。しかしアドワイタ哲学によると、アートマンは一つであって、同一のアートマンがすべての身体に宿っているのです。アドワイタ哲学は、唯一の実在を求めます。その実在がアートマンです。サーンキヤ哲学は、プルシャとプラクリティという、二つの実在を説きます。サーンキヤ哲学の信奉者の中には、神の存在を認める者もあり、認めない者もいます。
創造
サーンキヤ哲学によると、プラクリティ(自然)が、われわれがこの世界に見るすべての現象の原因です。思い、知性、推理力、愛、憎しみ、触覚、味、匂い、および物質――これらすべてはプラクリティから来ます。このプラクリティは、三つの要素から成立しています。サットワとラジャスとタマスです。これらが、そこから全宇宙が展開するところの三つの材料なのです。
創造の一つの周期が始まる前には、これら三つの材料は平衡状態にあります。創造が始まりますと、それらはさまざまの形で互いに結合しはじめ、また結合を重ね、この宇宙という姿で現われるのです。最初に現われるのは、マハト、すなわち宇宙の知恵であって、それから、意識が生まれます。意識から、マナスすなわち心、感覚の器官およびタンマートラが展開します。タンマートラは、非常に精妙な微粒子です。タンマートラから、私たちが物質と呼んでいる、粗大な要素が生まれるのです。精妙なタンマートラの微粒子は知覚することはできません。それらが粗大な粒子になってはじめて感じることができるのです。
サットワ、ラジャス、およびタマス
精妙な微粒子は、サットワ、ラジャス、およびタマスと呼ばれています。それらはグナとも呼ばれ、それぞれ異なった性質を持っています。タマスは鈍感で不活発という性質、ラジャスは力と活動性という性質で、引きつける力と排斥する力として現われます。サットワは、静けさ、および光明または知識という性質です。すべての人間の内部に、これら三つの要素が存在しており、それらがさまざまにはたらいているのです。タマスが優勢であると、私たちは怠け者になります。ラジャスが優勢になると活動的になります。サットワが優勢になると知識が来ます。
それらの関係
この世界を形成する三つのグナの間の関係は、不断のたたかいであり、同時に協力です。彼らは常に共に行き、決してたがいに離れることはできません。また彼らのいずれもが、他の二つの助けと支持なしには何ひとつ生み出すことはできません。ちょうど、油、灯心、および炎という相反するものが、ランプの光を点じるために協力するように、三つのグナは、異なる、しかも相反する性質を具えていながら、世界の事物を生み出すために協力するのです。
三つのグナのすべてが、大きい、小さい、精妙、粗大の別なく、この世界の一切物の中に存在します。これらのおのおのが、他をおさえよう、他を凌ごうと努めています。物の性質は、その中にある最も優勢なグナによって決定され、他のグナはそこに従属的な形で存在します。
私たちはこの世界の内に三つのグナ、すなわち要素の全部は含んでいない、というようなものを指摘することはできません。もちろん、それらはさまざまの割合で含まれています。ものごとの、善い悪い、およびどちらでもない、とか、浄い、浄くない、および中間とか、知的な、活動的な、および怠惰な、とかの類別は、サットワ、ラジャス、およびタマスのそれぞれの内部での優位性によって決まるのです。
三つのグナとそれらの性質
三つのグナは束縛をつくります。自由は、それらを超えたところにあるのです。バガヴァド・ギーターは、それらのおのおのの特徴を述べています。
サットワ=サットワの特徴は静けさ、浄らかさ、平安、幸福、正しい理解、および知識です。それの影響下にある人は、幸福と知識に引かれます。彼は、「私は幸福だ、私は知識を得た」と言います。これらの幸福と知識は、物質の一つの形である心の、属性であるにすぎません。ですから彼は、相変わらず心と肉体に縛られたままです。純粋のサットワは、正しい理解のゆえに人をしてグナを超えさせ、自由を得させます。
ラジャス=ラジャスのしるしは、活動、執着、熱情、貪欲、不安、進取の気性、渇望および願望などです。それは人を、利己的行為とそれの果実への執着で縛ります。快楽への渇望が、人を、終わることのない活動に駆り立てます。自己は無活動なのですけれど、ラジャスはそれに、「私がしている」と感じさせます。
ラジャスは、すべての苦痛にみちた経験の原因であり、それ自体、苦痛と悲しみという性質を持っています。それは、それ自体、無活動であって動くことをしないサットワとタマスを助けて、彼らにその機能を果たさせます。
タマス=タマスの特徴は、暗さ、怠惰、無知、眠り、不注意、および識別の欠如です。それの影響を受けると、人は自分の義務を怠ります。彼は散漫に、不精に、不活発になります。無知と識別力の欠如のゆえに、彼は霊的な理想はまったく持っていませんし、霊的に進歩しようという努力もしません。タマスは、心の中の表現力、知性およびその他のはたらきの邪魔をします。それによって、無知と暗さを生み、混乱と消極性とをもたらします。私たちの内なる活動原理を妨げることによって、眠りと、眠たい状態と物憂い状態を生みます。冷淡と無関心の状態を生じます。
結論
サットワの影響によって、人は、この世には多くの悲しみや苦しみがあるにもかかわらず、幸福を感じます。ラジャスの影響によって人は、幸福であっても活動にかりたてられます。タマスの影響によって、人は正しい理解力すなわち識別の力を奪われ、進歩への努力をしません。
サットワを養うことは、霊性の生活の中での最高の徳であります。しかし、このサットワを、人生の最高の目標すなわち解脱と間違えてはなりません。解脱というのはすべてのグナを超越することです。大事にしすぎると、サットワはすぐにラジャスやタマスに堕落します。ラジャスとタマスは、たとえごく僅かの割合であれ、必ずサットワと共在しているものなのです。
バガヴァド・ギーターでは、知識と行為と行為者とは、グナのちがいに従って三つの種類に分けられています。
知識、それによってすべての生きものの中に唯一の破壊することのできない実在、不滅の実体を見ることのできる知識、分けられたものの中に不可分のものを見ることのできる知識、その知識はサットワの性質を持つものである。(二〇)
説明=サットワの性質をもつ知識の助けによって、人は、非二元のアートマンが一切物の内なる実体を形成していることを見る、というのです。われわれが見るちがいは、アートマンの現れのちがいから来るものなのです。
知識、それを通して人がすべての生きものの中にたがいに異なった種類のさまざまの実体を見る知識はラジャスの性質を持つものである。(二一)
説明=人びとを、幸福だとか不幸だとか、賢いとか無知だとか見て、ラジャスの性質の知識を持つ人は、さまざまの肉体にはさまざまの魂が宿る、と考えるのです。
たった一つの結果だけを見て、それをあたかも全体であるかのように考える知識、そして論理を欠き、真理に根ざさず、くだらない知識、その知識はタマスの性質を持つ。(二二)
説明=アートマンはすべてに遍満する霊です。タマスの性質の知識を持つ人は、アートマンは一個の身体だけに閉じこめられていると考えます。同様に、彼は神を、たった一つの像かシンボルの中に閉じこめられている、と考えます。
三種類の行為
聖典に命ぜられており、果実に愛する欲望を持たず、執着から解放されている人によって愛も憎しみもなしに行なわれる行為、その行為はサットワの性質を持っている。(一八〜二三)
自分の願望をみたそうとする人、および「私」の感じにうながされている人によって、非常な努力のもとに行なわれる行為、そのような行為は、ラジャスの性質を持つ。(一八〜二四)
結果のことも、損失や傷害のことも、また自分の能力のことも考えずに無知のもとになされた行為、その行為はタマスの性質を持つ。(一八〜二五)