カルマ・ヨーガの講話
一九八八年四月一七日
カルマヨガ(全集第1巻)
働きの必要
活動をする、という傾向は、全ての人間に生得のものです。この世界で誰一人、少しも活動しないで、いられる人はいません。心の、または肉体の活動は、生涯を通して続いているものです。特に活動的な気質を持った人々の場合、働くのを止める、ということは、ふさわしい方法ではありません。彼らの活動的な気質を適当に制御し、方向づけることが、霊性の開発をもたらす道です。カルマヨギは、より高い人生の目標を目指しているのであって、彼はその理想のもとにはたらくのです。
より高い人生の目標を持っていない人々、霊的理想を持っていない人々は、怠けてすわっていてはなりません。無活動の生活は、何一つ生み出しません。活動が、心の中に隠されている力と知識を開発するのです。霊的な目的を持っていない人は、ほかの何でもよろしい、自分がこの人生で得たいと思っているものを目的として働くべきです。その目的は富の蓄積かも知れませんし、名声、または力を得ることかも知れません。やがては、経験によって、このような普通の活動家も、無私の働きの方が利己的な働きより報いが大きい、ということを悟るのです。ついには、彼も霊的修行として活動を行なうようになります。
賢い人々と無知な人々
知識の人は、彼の本性は「自己」であるアートマンである、ということを知っています。彼は、肉体、感覚器官、心、知性およびエゴとは異なる存在なのです。アートマンは、これらのものの何れともつながっていませんし、「それ」はいかなる行為の行為者でもありません。「それ」は不変であって、心と肉体の活動とは別のものです。賢い人は、心の段階と肉体の段階ではたらく者はすべて、それらが、すべての意識と知識の源であるアートマンにつながっているからこそ、はたらくのだ、ということを悟っています。彼は自分を、すべての活動のまっただ中にあって無活動であるところの、アートマンと一体である、と感じています。このような人が、真の活動家であります。
賢い人は不断に働きます。同時に彼は、実は自分が働いているのではない、ということを常に意識しています。肉体と、感覚器官と、心と知性とエゴが、活動に従事しているのです。個別のエゴが、すべての結果を身に受ける者であります。賢い人には執着がありません。彼は、行為の成功または失敗に影響されることはありません。彼は、働いても、行為の結果への欲望や嫌悪の感情に動かされることはないのです。このようにして、彼は全ての活動の中に無活動を見ます。
無知の人は、アートマンとの一体感は得られません。彼は自分を、肉体、感覚器官、知性およびエゴだと思っています。仕事に従事しているとき、自分がしているのだ、と感じています。彼は自分が行為者であり、結果を享受する者である、と感じています。彼は、無活動の中に活動を見ます。肉体の器官が仕事を止めているとき、彼は休息している、と感じます。アートマンは常に休息しています。「それ」の中には活動も変化もないのですから。
無知の人は、自分が怒っている、自分は幸せである等々と思います。賢い人は自分を、それらから離れた者と感じます。賢い人はこの世に住み、利己的動機なしに働きます。無知の人は、利己的動機のもとに働きます。仕事している姿は、表面同じように見えますが、働きに対する心の態度は全く異なるのですから、この両者は全く別のものであります。
明知を得た教師たちの二つのタイプ
宗教界の人の中に、私たちは二つのタイプを見ます。活動的なタイプと、黙っている、瞑想的なタイプです。明知を得ている教師たちの中の活動的なタイプは、人々の中で暮らします。悟りを得た後、彼らは他の人々に、自分がここに達するまでに行なってきたさまざまの修行の方法を説いて聞かせます。彼らのハートは、苦しんでいるすべての生き物への愛にみたされています。彼らは、他の人々の努力を助けるために、彼らに霊性の真理を説きます。悲しみ、不幸および苦しみを超えることができるよう、多くの人々を助けるのです。彼らは、最高の知識と信仰を教える教師です。
ここに、明知を得た教師たちの、もう一つのグループがあります。彼らは生涯、黙想をつづけ、黙っています。彼らは人々との交わりを避けます。自分たちの霊的経験を他者に向かって説きもしないし、活発に他者の生活指導をするようなこともしません。自分自身のことだけを考えています。自分が目標に到達したことで満足しているのです。
黙想的なタイプの教師たちも、人類に対する一つの大きな恩恵です。霊的理想を生き、かつ悟ることによって、彼らは多くの人々にとり、もっと高い聖らかな生活を送るためのインスピレーションの源となります。彼らの霊的な思想は、他の求道者たちの心を浄め、理想の実現へと彼らを導きます。このようなタイプの人々は、活動的には他者の福祉のために努力しないから、一見利己的に見えるかも知れません。しかし、私たちは、無言の霊的思いの力を過小評価してはなりません。もの言わぬ教師たちは、人の目に見られることなしに、完全に消えてしまう砂漠の花のようなものです。それでも彼らは空中に美しい香りを残すのです。
スワミジーは、右の両者の結合を欲しています。常に至高の知識に定住しつつ、神意識の境地に心を保つことができて、しかも同時に他者の向上を助ける教師たちを、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは完全なタイプと考えているのです。