カルマ・ヨーガの講話

一九八七年十月十八日

(全集第一巻三三〜三五頁)

「働きは、たとえ最低の形式であっても・・・

  働きの理想

 「われわれは働く権利を持つ、しかしそれによって得たものに対しては、権利はない」これはバガヴァド・ギーターからの引用です。それから得られた結果に対しては、いささかも執着することなく働く、という福音、真理は、主クリシュナが愛する弟子であり友でもあるアルジュナに向かって教えたものです。この原理のもとに活動が行われますと、それは、人生のより高い目標に到達するための霊的修行となります。あらゆる行為は、絶対に誤りのない因果の法則によって、それを望んでも望まなくても、必ず結果を生みます。自分の行為の果実へのいささかの執着もなしに働く人はカルマ・ヨギと呼ばれています。カルマ・ヨギは働きの結果には関心を持ちません。彼は人生のすべての活動を、義務として、主への捧げものとして、行います。仕事がすんだら、彼の関心も終ります。結果に対しては、完全に心を離しているのです。

 カルマ・ヨギの精神で仕事をすることの最大の利点は,完全な心の落ち着きを保ちつつそれができる、ということです。ある欲望が動機となって活動が行われますと、心に不安が生じます。欲する通りの結果が得られるであろうか否か、という心配は必ず行為者の心を動揺させるでしょう。

 また、自分の利益を求めて活動する場合には、ともすると正邪の別を見失います。正しいことをするつもりで出発した場合でも、よい結果を得たいという度のすぎた熱意のために、正義の道をふみはずすこともあるのです。しかし、もし行為者が結果から心を離しているなら、彼は心配しないですみます。彼が自分の義務を行なっている間に正義の道をふみはずす、というような恐れはありません。

 われわれは、野心的であって行為の果実への熱意を持っているようでなければ、何事もなしとげることはできない、という考えを持っています。ある人に対して強い執着を抱いているのでなければ、その人に良いことはしてやれない、と思っています。しかし、これは真理ではありません。執着は、要求をもっとふやします。愛は、もっともっと与える力を養います。もし本当に仕事を愛するなら、われわれは、自分がそこからどれだけ得るか、ということより、自分がそれをどのようによくできるか、ということの方に関心を持つでしょう。

 誰であれ、もしわれわれがその人を真に愛しているなら、自分の幸福よりむしろ彼の歓びと幸せの方に関心を持つでしょう。われわれが仕事によって得るところのものにだけ執着していて、しかも欲するような結果が得られなかった場合は、がっかりして仕事をあきらめてしまうでしょう。しかし、仕事そのものを愛するがゆえに働いている場合は、何回欲するような結果が得られなくても、それを続けるでしょう。この、得失についての不断の思い煩いは、自由な活動を妨げ、心をより高いレベルに挙げることはしません。

 すべての原因が結果を伴うのと同様に、あらゆる活動は、反動、反作用を伴います。われわれが執着をもって働く間は、海に浮かぶ小舟のように、動、反動の波のひとつひとつと共に浮き沈みするでしょう。われわれの楽しみと苦しみ、笑いと涙のすべては、われわれ自身の活動の反応であります。楽しみを与える反応だけを得たいといくら望んでも、一つだけを得て、もう一つを避ける、というわけには行かないのです。このことを知って、賢い人たちは、この二元の世界を超えた水準に昇ろう、と努力します。彼らは、やって来るであろう結果を顧慮することなく、独立して働きます。こうすると、落ち着きをもって、断固として仕事をすることができるのです。

 イエスやブッダのような偉大な教師たちが、このことを実証しています。働きのために働く、ということが、彼らの人格および生涯の主要な原理でした。彼らは、自分の利益や目前の結果を求めることなく働きました。彼らがその教えを説き始めたときには、どれほどわずかの人々しか、それを歓迎しなかったことか、どれほど多くの反対に彼らが遭わなければならなかったことか。それでも、彼らは断固として進みました。それは彼らが愛ゆえに教えていたからです。

 これは、われわれが自分の経験から知っていることですが、ある人を愛していれば、たとえ自分はどんなに疲れても、自分の手で彼のために働きたい、と思います。真に愛する人に仕えるためには、代わりの人を頼もうとは思いません。彼のために働くことが疲れを忘れさせます。われわれの思いがある高貴な動機、高貴な理想に関係しているとき、それは生命に休養と活力と歓びをもたらします。生活の中で根気を失わせるのは、捧げる精神の欠如、理想の欠如であります。理想がない、ということは、生活を停滞させ無益なものにします。

カルマ・ヨガ

 アルジュナは、敵と戦うために戦場に来たのでした。彼は自分の王国を取り戻したい、と思いました。武士として、正しい理由のために闘い、社会の罪深い勢力を抑えることは彼の義務でした。しかし突然、彼は世を放棄する決意をしました。戦場から退き、放棄の道を歩むことに決めたのです。

 アルジュナの闘いをいとう気持ちには二つの理由がありました。その第一は義務の遂行より、自分の身内の人々の方を深く愛していた、ということでした。彼は、社会的地位のゆえに自分に課せられている義務を避けようとしたのでした。これを避けることによって、彼は国を、不正義と道徳的混乱の縁に投げ入れるところだったのです。第二の理由は、敵陣には数多くの著名な武士たちがいるから、自分は負けるかも知れない、という恐怖でした。

 アルジュナは、自分は、みずからのため、または自分の家族のために戦わなければならないのではなく、道徳的に堕落しつつある社会に正義を確立するために戦わなければならないのだ、ということを忘れていたのでした。それゆえ、アルジュナに対する主の教えは、狭い、利己的な関心には打ち勝たなければならない、というものでした。その方法は、戦場を去って闘いを避けることではありませんでした。真の、正しい道は、臆病をすて、自分の利益を思わず、彼の義務を遂行することでした。アルジュナはシュリ・クリシュナから、恐怖心と身内への執着を捨てよ、と求められたのでした。

 戦場における軍人は、戦いつつある自分の立場の合法性には確信を持っているでしょう。しかし、戦いの結末がどうであろうかについては、はっきりしたことは分かりません。勝つかも知れないが、負けるかも知れないのです。かりに勝利は確実であるとしても、彼が生き残ってその勝利の思い出を楽しむことができるかどうかは分かりません。それでも、この不確実性のゆえに彼の責任がいささかでも軽くなるということはありません。彼は、最善をつくして彼の義務を遂行しなければならないのです。同時に彼は、自分が勝利の恩恵の分け前に与ることも忘れなければならないのです。カルマ・ヨギは、このような責任の精神をもって、働きの結果には全く執着することなく働くものであります。

  働きと明知

 カルマ・ヨギは、彼のすべての活動を、同一の真摯な態度で、霊性の修行として行います。彼は、愉快な仕事と不愉快な仕事との間に、平凡な仕事と名誉ある仕事との間に、また、たやすい仕事と難しいものとの間に差別をつけません。楽しい仕事は気をつけて行い、不愉快な仕事はよいかげんにする、というようなことはしないのです。困難な仕事を課せられても、彼は仕方がないからしようとか、ただからだだけ動かしているというような態度は取りません。すべての仕事を、同じように機敏に、しかも献身的に行います。

 活動は、それ自体の価値によって優劣が決められるものではありません。働きの背後にある動機が最も重要な要素であります。カルマ・ヨギは、働きのこの理想を心にとめていて、彼のすべての務めを等しい真剣さと集中力とをもって行うことにより、完成に達するのであります。

 この理想がバガヴァド・ギーターの中に指摘されています。主クリシュナは、このように言っておられます−

・・・あなたがなすことことごとく、あなたが食べるものことごとく、あなたがいけにえとして捧げるものことごとく、あなたが施すものことごとく、あなたが行う苦行のことごとく、おお、アルジュナ、それを私への捧げものとしてなせ。(九章七節)

 このようにカルマ・ヨギは、彼のすべての活動を、主への捧げものとして行います。彼の活動の果実のすべてを、主に捧げるのです。彼は得失を意に介しません。失敗しても失望しません。彼はみずからを主の御手の内なる道具と見ています。自分は主に命ぜられ、導かれているのだから、働きの果実は主に行くべきだと考えています。主は、無私の態度で、しかも心をこめてなされた仕事という捧げものを受けることを喜ばれるのです。

 信仰者は、オフィスの仕事であれ、家の仕事であれ、彼のつとめのすべてを礼拝に変えます。仕事を捧げものとして行うことの結果が、また、バガヴァド・ギーターに述べてあります。主はこのように言っておられます−

・・・このようにしてあなたは、善い、または悪い結果をもたらす行為の束縛から解放されるであろう。心をしかと、この放棄と帰依のヨガに定着させることによって、あなたは解放され、私のもとに来るであろう。(九章二八節)


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