カルマ・ヨーガの講話

一九八七年六月二十一日

 われわれがこの世に見るすべての活動――それが都市の建設であれ、書物の出版であれ、科学の真理の発見であれ――それらはことごとく、人間の心の奥底にひそんでいる意志の力の現れであります。あらゆる人が、内に何らかの願望または意志を持っています。働き、というのはわれわれの内なる意志、内なる思い、および内なる願望の現れであります。意志の力が、活動を通じて、活動として、表現されるのです。われわれの意志はすべて活動とひとつです。

 この意志は性格から生まれます。性格はカルマ、すなわち活動によって形成されます。活動は、われわれの性格とその性質を決定します。ですから、われわれの活動が、われわれの意志と性格を形成するのです。よい行動はよい性格とよい意志を生み、悪い行動は悪い性格と悪い意志を生みます。

 この世界の偉大な人々の生涯を注意深く研究するなら、われわれは、彼らのすべてがすばらしい働き手であったことを見いだすでしょう。彼らはその人生に与えられた使命に従い、執念をもって働きました。彼らは巨大な意志を持っていました。この巨大な意志の源は何であるのか。幾時代にもわたってなされた膨大な活動が、この巨大な意志の源であります。彼らのすべてが持っていた巨大な意志は、彼らの不断の活動から生まれたものなのです。それゆえ、働きは強力な意志の源であります。

 われわれの性格と意志は、働きによって決定されます。もし巨大な意志の力を得たいと思うなら、われわれはうんと働かなければなりません。高貴でありたいと願うなら、高貴な仕事をしなければなりません。高貴な働きは高貴な性格を生み、高貴な性格は高貴な意志を生むでありましょう。

 仕事をしなければ、われわれは意志の力を得ることも養うこともできません。働くことをしないでは、われわれは人生において何ものも獲得することはできません。怠けてすわっていたり、空しく時をすごしたりしていたのでは、この世で成功を収めることはできません。あらゆる仕事は、確固とした目的をもってなされなければならず、目的は働きによってのみ、達成されるのです。

 われわれは、この原理、つまり活動と性格と意志の力の相関関係の妥当性を証明することができます。ある人がこの人生で金持ちになりたいと欲したとします。彼は、巨万の富を持つという幸福を楽しみたいと欲するのです。富を得るためには彼はうんと働かなければなりません。彼はまた、願望、金持ちになろう、という強大な意志も持たなければなりません。彼は正直な、合法的なやり方で働くべきであります。一生懸命働く代わりに、もし他人の富を盗んだりなどしたら、彼は金持ちにはなれません。盗みは人を富ませることはしないのです。少しの間は金持ちらしく生活するかも知れませんが、その非合法的行為のゆえにまもなく罰せられるでしょう。刑務所に送られるでしょう。富の所有から生まれる幸福を楽しむ代わりに、苦痛と困難を味わうでしょう。不幸でみじめな人生を送ることになるでしょう。もしこの人生で何かを欲するなら、われわれはそのために働かなければならないのです。願望は活動によってのみ満たされるのであります。

 ミスターAは、ディナーパーティーで山ほどのおいしいご馳走を提供されるかも知れません。それを見ると、全部たべてしまいたいと感じます。しかしそれはできないでしょう。彼は自分の消化能力の許すだけの分量しか食べることはできないのです。もし能力以上のものを食べたら病気になるでしょう。食べることの喜びは得られず、反対に食べ過ぎによる病気の苦痛に悩まされるでしょう。ミスターAは、もし大量に食べたいと思うなら、食べる前に自分の消化力を増大させなければなりません。彼は人生の事物を自分の能力に応じた分量だけ、楽しむことができるのです。この能力はカルマによって決定されます。われわれは、ふさわしいカルマによって、自分の力を増大させることができるのです。

 スワミジーはここに、雑多な内容の、多すぎる程たくさんの書物を買い集めるような愚か者の例を挙げています。書物はたくさん持っていても、彼はその全部を読むことはできないでありましょう。彼は自分に理解できる一定の数の書物だけしか読むことはできないのです。かりに読んだとしても、そこから何の知識も得ることはできないでしょう。読書の目的は知識を得ることなのですが、彼はその果実を得ることはできないのです。愚かな人はさまざまの主題を理解するだけの知能をそなえていません。さまざまの種類の書物を読み始める前に彼はまず、それらを正しく理解し得るだけの知能を養わなければならないのです。この発達はカルマを通じてやって来ます。愚かな人も知能を養いさえすれば、持っている書物全部を読みこなし、そこから知識を得るでしょう。カルマが、われわれの、ものをする、力、ものを得る力を決定するのです。カルマが、人生においてわれわれがどれほどものを得るに値するか、を決定するのです。

カルマの法則

 カルマの法則、つまり原因結果の法則は、宇宙の法則です。これは物質界と心の世界の両方に適用されるものです。この法則の助けによって、われわれは、なぜ性格が良かったり悪かったりするのかを容易に説明することができます。われわれは、自分の不幸や苦痛に関して、他の何人をも責めることはできません。喜びまたは悲しみ、楽しみまたは苦しみの形でその結果を生み出すのは、われわれ自身のカルマなのであります。われわれが今生で持つ一切のものは、前生の心と肉体の両方のカルマの結果であります。

 われわれの現在の性格は、われわれの過去の行為の結果です。われわれの未来の性格は、同様に現在の行為によって決まるでありましょう、われわれの幸不幸については、神にも、また他のいかなる原因にも責任はないのです。すべての幸不幸、および性格の多様性は、この法則によって合理的に説明することができます。

宿命論

 このカルマの法則のもとに、大多数の人々が認めている、宿命論という仮説が入り込む余地はありません。この仮説は、人が生まれる前に、神が彼の運命をお定めになるのだ、と主張します。創造主の気まぐれによって、人はこの世に罪深い人間をして、または有徳の人間として生まれて来るのだ、という説です。

 この仮説は、われわれの道徳上の責任と個人の責任の自由を破壊するものです。もしわれわれが罪深くあるか有徳であるか、神によってあらかじめ運命づけられているのであれば、われわれは全く自分の未来を変えることはできないでしょう。無力なあやつり人形になるわけです。その上に、神は不公平で正しくない、ということになります。なぜ彼は罪なき生き物の一人を楽しむように、もう一人を苦しむように運命づけなさるのか。誕生に先だって一人は彼の恩寵を受け、もう一人は受けられない、というのはどういうわけでしょうか。

 もし罪人は生まれる前から罪を犯すことに決まっているなら、なぜ彼が自分の所行に対して責任を負わなければならないのか、なぜ創造主の気まぐれのゆえに彼が苦しまなければならないのか。もし神がすべての被造物に対して慈悲深くあられるのなら、なぜ彼はすべてを同等に善良に有徳に、すべてを平等に道徳的に霊的におつくりにならないのか。このような疑問を、宿命論は解くことができないのです。しかしこのような疑問は、カルマの学説には起こりようがありません。もしわれわれが、各人がかつての自分の行為の結果を刈り取りつつあるのだ、ということを理解することができるなら、決して宿命論に同意することはできないでしょう。

   人は自由な行為者である

 カルマの法則の信奉者は自由な行為者です。彼は、自分の行為の善い、そして悪いすべての結果の責任を取ります。彼は、自分は自らの行為と思いによって自らの運命をつくり、性格を形成しているのだ、ということを知っています。自分が受ける不幸や苦痛に関して他者を責めるようなことは決してしません。経験によって、できごとの真の原因を学びます。悪い原因を除き、すべての人にとって、また自分自身にとって良い結果をもたらすような行為を行います。

 カルマの法則に従う人は、運命論の信奉者よりずっと行い正しく有徳です。彼は、もっと合理的な立場に立脚しています。彼は、神の罰への恐れからではなく、誤った行為はことごとく、後に自分に報いが来て自分を不幸にするということを知っているから、それを避けるよう、努めるのです。彼は善い行為を行います。それは善い行為が、彼に幸福と平安と、より深い魂のめざめをもたらすからです。われわれが神の罰とか呼ぶものは、われわれ自らの心的、肉体的活動の反応以外の何ものでもありません。

スワミジーの見解

 スワミジーはヴェーダーンタに関する彼の講演の一つの中で、このカルマの法則の意味を明快に論じています。彼はこういっています、「われわれの一人一人が、無限なる過去の結果である。子供は、詩人たちが喜んで表現するように、自然の手からひらめき出たものとしてこの世に到来するものではない。彼は無限の過去という重荷を背負って生まれて来るのである。善であれ、悪であれ、自分の過去の行為を清算するためにやって来るのである。そのために差別が生じるのだ。これがカルマの法則である。

 われわれの一人一人が、自分の運命の作り手である。この法則はたちまちすべての運命論的な学説をぶちこわし、われわれに、神と人との間の和解の、唯一の道を与えるのである。

 他の何者でもない、われわれこそが、われわれの苦しみに対する責任者である。われわれは結果であり、われわれは原因である。それだから、われわれは自由なのである。もしわれわれが不幸であるなら、それは私自身のなせることろであって、このことがそのまま、もし私が幸福になろうと思えばなれる、ということを示しているのである。もし私が不純であるなら、これもやはり私自身のなせるところであって、この事実がそのまま、私はなろうと思えば純粋になれる、ということを示している。人間の意志は、一切の環境を克服するであろう。それの前には、すなわち人に内在する強い、巨大な、無限の意志の前には、すべての力が、自然力さえもが、頭を下げ、屈服し、それの召使とならなければならないのである。これが、カルマの法則の結果である。(全集第三巻一二四〜一二五、ヴェダーンティズム)

  働きの方法

 カルマは人間の生活に最大の影響を及ぼすものです。それは、われわれの心の中に潜在する無限の力と知識を開発するためのものであります。このように重要なものなのですから、われわれは、働きのための正しい方法を学ばなければなりません。われわれの目的は、自分が行う働きの一つ一つから最大の結果と最高の善を得るということであるべきです。カルマヨガは仕事をするためのこの方法を教えます。最大の実りを得るための働きの科学です。

 バガヴァド・ギーターは第三章で、究極実在に至る道として、第五〇節の中で、仕事をするためのこの方法を科学として説いています。それは次のように述べています、「不動心を得て、人はまさに今生において、善き行為と悪い行為の両方を脱却する。それゆえ、ヨガに努めよ。ヨガは活動の技術である。」と。

 善行と悪行は、次の生でより高い世界か、より低い世界に生まれる原因となります。もし人が不動心を保ちつつ彼の義務を行うなら、彼の心は常住神に集中しています。不動心は力の源泉です。不動心をもって行われるとき、そうでないと人を縛ることになる働きが解脱への手段となるのであります。

 快楽が活動の目的であると考えるのは誤りです。快楽は一時的なもの、活動の真の目的は知識です。知識によって、人は離欲と究極の自由を得るのです。


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