カルマ・ヨーガの講話

一九八六年十一月十六日

「カルマ・ヨーガ」十五頁 

これは、遺伝の学説で解決することはできません。・・・・

 ここでスワミジーは、ある西洋の哲学者たちが主張している遺伝の学説を論破しておられるのです。彼らの言うところに従えば、子供が生まれながらに持っている傾向は、彼の過去生およびその活動によるものでなく、彼の先祖たちの経験から来るものだ、というのです。性格、心の傾向、人柄などというものは遺伝によって与えられる、というのです。

誕生と死

 ヴェーダーンタ哲学によりますと、ある個体の誕生は、かつてどこかで生まれ、死んだ、あまたの個体の中の一つの、再生であります。死は一つの個体の終りではないし、誕生も、彼の始まりではありせん。人はどのようにして再生するのか、子供は、どのようにしてこの世に生まれて来るのか、ということを知るには、まず、人はどのようにして死ぬのか、ということを知らなければなり

ません。死のときに、個体の自己、つまりほんとうの人は、肉体を去ります。しかし彼は、幽体は保持しています。この幽体は、活動から生まれた、または活動によってつくられた、すべてのサムスカーラを含む、幽かな、つまり精妙な、心を持っています。この精妙な心が、次の、粗大な肉体を形成する能力を持っているのです。人は、彼みずからの過去生(複数)の、もろもろの印象を持って、生まれて来ます。人は、救われるまで、または彼のサムスカーラが完全に消耗しつくされるまで、生死をくり返しをつづけなければなりません。解脱した人は、このくり返しから解放されるのです。

人の構造

                      

 人は、肉体、知識と活動の器官、心および自己(ジヴァートマン)から成っています。真の人は、知る自己であります。肉体、もろもろの器官、および心は、変化します。自己は変化せず、死にも生まれもしません。それは創造されたものではなく、永遠の存在であり、純粋意識であります。ほんとうの人間は自己であります。自己は、肉体が生まれるときに生まれるわけではなく、肉体が破壊されたときに死ぬわけではありません。自己は、破壊されることはありません。剣もその他の武器も、自己を切り刻むことはできません。火もそれを焼くことはできないし、水も溶かすことはできない、風もそれを乾すことはできないのです。それはこの世の最も精妙なものの中の最も精妙なものです。それは、肉体、感覚器官、または心に、結びついているものではありません。

 心は自己とは別の存在、肉体とも別個の存在です。心は肉体とは別のものではあるけれど、肉体と関係は持っています。それは肉体および諸器官とつながっているのです。心の状態および心のはたらきは、肉体および諸器官の状態やはたらきとは異なるものです。

 心は、肉体と諸器官が休んでいるときにも、はたらくことができます。しかし、もろもろの器官は何れも、それに心が参加しなければ、はたらくことはできません。このことは、心は肉体につながってはいるけれど、肉体とは別のものである、ということを証明しています。からだを動かさないでも、また器官を一つも使わないでも、人は考えること、感じること、意志すること、影像を記憶すること、その他いろいろができます。

 心と肉体とは密接に関係し合っていて互いに影響し合う、ということは事実です。しかしどちらも、相手の肝要な部分に影響を与えるわけではありません。両者は別個の実体であります。われわれは、肉体の病気と心の病気とをはっきり区別することができます。肉体の苦痛には、伝来の医学的療法を必要としますが、心配とか恐怖とか落胆などのような、心理的不調には、心理療法、または、よきカウンセリングが必要でしょう。また、肉体に苦痛があっても、人は、内なる平安、心の静けさを保つことができます。肉体に何の苦痛がなくても、この上もなく不安で不幸である場合もあります。何かのあらい言葉を吐くことによって、他者の肉体は傷つけなくても、彼の心をひどく害することもあり得るでしょう。

 心は、もろもろの器官の指導者です。心の指示を受けなければ、それらは一つも働くことはできません。心を支配することによって、われわれは、十個の器官を制御することができるのです。器官は生気のないもの、自分ではたらくことはできません。心によって運転されなければなりません。心には、自己から借りたところの意識の輝きが、浸透しているのです。

 個我、個別の自己が物質の対象を認識することができるのは、心が感覚器官とつながってはたらくからです。個我が、一個の組織体としてはたらくことができるのは、自己(ジヴァートマン)、肉体および心という、これら三つの主な構成要素が統合されているからです。

 人、けもの、鳥を含むすべての生きものは、内にこの相互関係を持っています。一つの有機体の存在の始めから、この三つは、別々の異なる要素として存在しています。それらの何れもが、他の三つから出て来た、というものではありません。心は意識を持ってはいません。肉体も意識を持ってはいません。肉体は粗大なものであり、心は精妙なものであります。

 心は、有機的な統一体です。それを分割することはできません。それは、分割するには余りに精妙なものなのです。しかし肉体は、部分に分けることができます。肉体を切断しても、心は切断されません。肉体のどの部分かが切断されても、心は同じように、同じ強さではたらくでしょう。

 心の内容は変化しても、器は変りません。死と生をこえて、人の、(生きものの)個体性が維持されて行くのは、心が同一であるからです。

子供とその心

 子供はその心を親から受け継ぐわけではないし、子供の心は親の心の断片ではありません。心は、親の肉体または自己から発生するものではありません。心は肉体および自己とは別のものなのですから。

 子供は親から、肉体を形成する物質の材料をもらうだけです。これらの材料が主として、親の肉体の特徴の伝達のための媒体として、役立つのです。心は、意識に浸透されています。意識は、分割できるものではありません。心は、物質的源泉から開発されるものではありません。自己開発は、子供の心の中に根ざしているのです。

   遺伝

 人間は人間の親から生まれます。ゾウはゾウの親から、アリはアリの親から生まれます。これは植物の世界でも同じことです。イチジクの木は別のイチジクの木から、リンゴの樹は別のリンゴの樹から生まれるのです。一つの生きものは、同じ種族の別の生きものから生まれ、決して生命なき物質から生まれることはありません。転生の学説は、「類は類を生む」という、この生物学の規則を認めています。

 この、すべての生き物に共通の自己再生という特質が、遺伝なのであります。この特質は、生きものを生なき物質から区別します。肉体は、子供に心を伝達することはできません。心は、他者に伝えられるように自分を分割することはできません。心は分割できないほど精妙なものなのです。

 遺伝の学説は、生命のある種の事実を説明することができません。同一の両親が何人かの子供を持つとします。この学説によると、両親は、子供が生まれるたびに彼ら自身の心の印象を失わなければならないでしょう。また、もし両親が彼らの持つ印象の全部を伝えたら、最後の子供の生まれたあと、彼らの心はからになるでしょう。こんなことはあり得ません。

 この学説は同じ両親から生まれた子供たちの間の性格の違いを、満足に説明することができません。双子の兄弟でさえ、肉体の上では似ていても性質は大きく異なるのです。

  ヴェーダーンタ哲学

 ヴェーダーンタ哲学によりますと、各々の人は別々の個体です。この違いの原因は、各人の心の構造が異なるところにあります。一人一人の人間が、彼自身の心を持ってこの世に生まれて来、彼自身の方法で成長するのです。この二つの理由により、イエスと彼の父、ブッダと彼の父との間に莫大な違いが見られるのであります。

 心の構造、性格、および意志の力は、その人みずからのカルマ・・・すなわち行為と思い、経験と感情によるものです。ブッダやイエスの意志のような強大な意志の力は、あまたの生涯を通じてなされた、心の力の蓄積によって初めて可能なのであります。

 スワミジーはここで、個人の成長は仕事を行うことによって成就される、という見解を発表しています。そのような仕事は必ず、良い、有徳な仕事でなければなりません。

§

 自己は生まれない、決して死にもしない。存在し続けた後、また消えるということはない。そのあべこべもない。生まれることなく、永遠で、不変で、変えられることもなく、ありのままである。肉体が殺されても、それは殺されない。

§

 人が着古した衣服を脱ぎ捨てて新しいものを着ける、ちょうどそのように、肉体に宿った自己は古くなった肉体を捨て、新しい体に入る。

§

 欲望と嫌悪から生まれる、対立という迷妄により、すべての生きものは、幻影のとりことなる。


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