カルマ・ヨーガの講話
一九八六年九月二十日
カルマ・ヨガ(全集第一巻二九頁)
たくさんの小さい集まり、総計と言えるような・・・
スワミジーはここで、人の性格(人格)は彼の普段の普通の行動によって判定されるべきものである、と言っています。人を評価するにあたって、彼の小さな行為は見逃されてはなりません。少しばかりの善い、または高貴な行為が、人を偉大かつ高貴にするものではありません。高貴な人というのは、常に、よい仕事をしている人です。たとえささやかな仕事、ごく普通の働きでも、高貴な姿を帯びているべきです。
スワミジーはここで、多数のさざ波が集まって形成されている大波のたとえをあげています。これらのさざ波は、われわれの目には見えないけれど、重要不可欠な、大波の要素であります。それと同じように、日常生活の中の小さなあたりまえのはたらきが、人の性格の重要部分なのであります。人格の偉大さを測るにはそれらを考慮に入れるべきです。高貴な人は常に、大きな仕事の中だけでなく、小さな行為の中にも高貴なしるしを遺します。彼は常に、まれな出来事の場合にも、日常茶飯の事柄の中でも、同じ姿を見せています。
英雄は恐れる事なく、彼の仕事のすべてを、英雄的な心と態度で行います。臆病者は、ある場合には英雄のように振舞うでしょう。しかしそのような二、三の行為は臆病者を英雄に変えることはできません。
人々は、ある楽しみを楽しみたいとか、ある結果を得よう、とかいう意図のもとに働きます。ですからあらゆる形のカルマは、結果または快楽への期待が動機となっています。欲望がこの期待を生み、そして心はすべての欲望の座であります。ですからスワミジーはここで、すべての働きは人の意志の表現である、と言っているのです。
カルマとその結果
善いにせよ、悪いにせよ、何らかのカルマ、すなわち行為がなされますと、それはよい結果、または悪い結果を生みます。それを行った人は、褒美、または幸福という形で、あるいは罰または不幸という形で、その結果を刈り取らなければなりません。人は、このカルマの法則で縛られているのです。
よいカルマすなわち行為は、人の道徳的な力を、つまり徳性を強める力を持っています。道徳的な力は無執着の性質を生み、悪い行為をする傾向を破壊して、心を淨めます。よいカルマは、このようにして、よい性格をつくり、意志を強化します。快楽を得ようという目的で何らかの行為がなされるなら、その行為はそこでその快楽を生み、心を淨めることはしません。ですからカルマ・ヨギは、自分自らのためには何ものも欲せず、他者に善を行おうという意志のもとに行為をするのです。
カルマとサムスカーラ
われわれが行う一々の行為、われわれが思う一々の思いは、心に印象を刻みつけます。それは、サンスクリットでサムスカーラと呼ばれています。このようにして心に残されたサムスカーラは、行いの果実が刈り取られた後までも存続します。これらの印象の総計は、われわれがこの世で働きを続けて行く莫大な力となります。これらの印象は、人の性格を形成します。ですからある人の性格はカルマによって――彼が今生または前生において行ったカルマによって――決まるのです。それゆえスワミジーはここで、「カルマは性格に莫大な影響をもたらす、人は彼が行った心および肉体の活動の結果である。」と言っているのです。
転生とサムスカーラ
サムスカーラの総計は巨大な力であって、この力が、人の次の生の方向を決定します。人の死によって彼の肉体は死にます。肉体が焼かれると、それは灰になります。灰は大地と一つになります。このようにして、肉体は、分解されて要素に戻ってしまうのです。地中に埋葬された場合にも、それはやがては大地と一つになります。
しかし、サムスカーラはすぐには死にません。それは、心にくっついています。心は、肉体の破壊または解消と同時には死なないのです。心は、精妙な物質からできています。物質は精妙であればあるほど、より長持ちするのです。心はサムスカーラといっしょに長い間存在し続けます。しかし心もまた、非常に長いこと経った後に解消します。サムスカーラと結び付いた心が解消したとき、われわれは自由になるのです。この自由が、宗教の目的であります。このようにしてわれわれは、カルマは人の現在の性格をつくるだけでなく、人の次の誕生、つまり次に持つ心と肉体にも影響を与えるのだ、ということを知るのです。心は、人の性格の主な要素を形成しています。
サムスカーラとつむじ風
心とサムスカーラは、つむじ風にたとえることができましょう。つむじ風の中では、異なった方向から来る異なった空気の流れが相会します。相会した地点で、異なった流れは合流し、激しく回転します。回転しながら、それらは巻き上げたちりによって一個の体をつくり、その中に紙やわらなどの小さい切れ端を吸い込みます。これらの紙やわらは一ケ所で集められ、別の場所で落とされます。つむじ風が回転、移動を続ければ、それはまた新しい材料を巻き上げ、また落とします。つむじ風は目の前にある材料から体をつくるのです。
このように、サンスクリットでプラーナと呼ばれるこれらの力がひとつになって、物質から肉体と心をつくります。この力は肉体が落ちてしまうまではたらきます。それから、次の体をつくるために新たな材料を巻き上げます。その体が落下すると、また新しい体がつくられ、この過程はこのようにしてつづくのです。
力は物質なしには進行することはできません。肉体が死んでも、心(というより、もっと正確に言えば)心の材料は残っています。サムスカーラという形を取っているプラーナは、その心にはたらきかけます。それは他の地点に行き、あたらしい材料を得て別のつむじ風を巻き起こし、別の活動を始めます。このプラーナは、力が全部消耗しつくされるまで、一つの場所から他の場所へと移動し、やがて滅びて、終わりを迎えます。心が終りを迎え、いささかのサムスカーラも残さず、完全に砕け散ったときわれわれは完全に自由になるのです。それまでは、われわれは、カルマの法則の支配下にあり、縛られた存在です。
ボールと棒のたとえ
ここにもう一つのたとえがあります。かりにこの部屋に一個のボールがあり、われわれは各自が一本の木の棒を手にしているとします。ボールは打たれて、ここからあそこと、あらゆる方向に跳び、ついには部屋の外に跳び出します。どれほどの力で、どの方向に跳び出すのでしょうか。それは、そのボールに加えられた力によって、そのボールに与えられたさまざまの打撃によって決まります。
われわれの心および肉体の活動の一つ一つは、このような打撃であります。人間の心は、さまざまの方向から打たれているボールのようなものです。われわれはこの世界で、さまざまの打撃を当てられている、つまりさまざまの活動、経験、および感情を経験しています。われわれのこの世界からの移住は、これらの打撃の力によって決まります。何れの場合にも、球の方向と速度は、受けた打撃によって決まります。そのように、この世界におけるわれわれの活動のすべてが、われわれの未来を、性格を、心を、そして意志を決定するのです。われわれの今生は、過去の行為の結果です。現在の性格は、過去の行為、経験、および感情から生まれて来ているのです。
カルマとアートマン
カルマは肉体と心に属しています。アートマンとは何の関係もありません。カルマはアートマンの前にベールをかけることができます。よいカルマの助けによってそのベールを除くことにより、われわれ自らの真の性質を悟るのであります。
サムスカーラの変化
苦痛または幸福の形で現れるカルマの結果を変えることはできないが、サムスカーラを変える事はできる、というのは注目すべきことです。人がかりに悪いことをしたとします。それは彼の心に悪いサムスカーラを生みだし、同時に苦痛を伴う結果をも生み出すでしょう。悔い改め、祈り、および善行によって、その人は、自分の内部の悪いサムスカーラを変えることはできます。しかし、必ず起こって来る、苦痛にみちた結果を避けることはできないでしょう。
これが、カルマの法則です。この法則は、われわれに、自分の環境を自分の好きなように変える、という自由は与えません。しかしそれは、われわれの心を変えて人格の力を獲得する、という自由は与えます。
よい性格の開発は、怠けてすわっていたのでは不可能ですが、高貴な仕事、奉仕、慈善などに熱心に従事することによって行われます。高貴な性格と心の強さの開発するためには、意識して善行に励むことが必要です。
次のような行いが、有徳な行為とみなされています。足るを知ること、赦し、自制、欲しがらぬこと、清潔、感覚の統御、知恵、聖典の学習、誠実、怒らないこと、など。親切な心、およびそれに基づいた慈善も有徳な行為と見なされています。怒り、欲張り、暴力、不誠実、自制心の欠如など、徳に反する行為は罪深い行為です。ヤマ、ニヤマは有徳の行為から成り立っています。
パタンジャリのヨガ・スートラによると、サムスカーラには、二つのタイプがあります。カルマーサヤとヴァーサナーです。善い、または悪いわれわれの欲望、傾向、衝動のすべて、われわれの行為をうながすものすべて、は、カルマーサヤから芽を出すのです。パタンジャリによると、われわれの未来の誕生、つまり人に生まれるか鳥けものに生まれるか、寿命はどれほどか、幸不幸のまわり合わせは、というようなことは、カルマーサヤによって決定されます。
ヴァーサナーは記憶をよびさますところの印象です。経験の記憶と、その経験を繰り返したいという願望または衝動は、二つの異なったものです。カルマーサヤとヴァーサナーとは、同時に心に記録されます。これらは、心の二つの異なったはたらきを示しています。
一つの生涯の傾向や印象がどのようにして次の誕生に持ち越されるか、ということを、シュリ・ラーマクリシュナはたとえ話によって示しておられます。あるとき、洗濯屋であった魂が次に王子として生まれました。ある日、この王子は、王家の他の少年たちといっしょに遊んでいました。突然、彼は遊びをやめ、みなに新しい遊びを教えてやろう、と言い出しました。そして、私がうつ伏せに横たわるから、着物の背の部分をみなで洗濯男がするように、たたいてシュッシュッという音を出せと言うのです。前生の記憶を、この王子が見せたのです。