カルマ・ヨーガの講話

一九八五年八月十八日

(全集第一巻二八頁)

 人類のゴールは知識である。これが、東洋哲学によってわれわれの前におかれた唯一の理想である。快楽は人の目標ではない。知識である。

説明および参考

 二つの、全く異なる人間の理想がある。どこの国の、どの宗教を奉じる人も、自分は肉体であり、同時に霊でもある、ということは知っている。しかし、人生の目標に関しては、そこに大きな差異がある。

 西洋の国々では、人々は人間の肉体面を重視する。東洋の国では、人々は人間の霊性の面をもっと重視する。西洋では、人々は、人間は肉体であって霊魂を持っている、と言う。東洋では、人間は霊であって肉体を持っている、と言うのだ。文化、理想、および宗教の違いは主として、この概念のちがいから来ている。正反対なのである。

 肉体は物質だが霊は非物質、肉体は有限だが霊は無限である。肉体は滅びるものだが、霊は不滅である。肉体はたくさんあるが、至高の霊は唯一不可分である。

 人は肉体であって霊を持つ、という理想は、あらゆる重要性を肉体の上におく。この理想を抱く人にとっては、人生の目標は感覚対象の楽しみ、肉体の快楽の楽しみ、富と所有物の楽しみである。彼は、肉体を超えたものを心に描くことはできない。来世に関する彼の理想は、これらの楽しみの続くことであろう。もし彼が死後天国またはその他の世界に生き続けることを信じるなら、そこは、彼に同じ種類の快楽を与えるであろう。ただ、感覚の楽しみと肉体の楽しみは、そこではもっと強烈なものであろう。

 彼が神を拝むのは、神が彼の願いと祈りに応じて楽しみの対象を与えて下さるからである。神はこれらの願望の成就の道具となるのである。世俗の喜びの達成が、彼の人生のゴールなのである。

 人は霊であって、肉体を持つ、というもう一つの見解を取る人にとっては、人生の目標は全く異なるものであろう。彼の目標は快楽ではあり得ない。それは霊の探求、霊の知識を得ること、そして、彼の本性である霊の性質を悟ることである。霊は、肉体よりも、いかなる感覚対象よりも無限に偉大であり、精妙である。それは不滅であり、永遠に至福にみちている。それは不死である。いかなる地上の、または天上の対象も彼の心を引かない。なぜなら、感覚対象から得られる楽しみは必ず終ることになるが、霊の知識から得られる喜びには決して終わりがないからである。

 われわれは、個人の生命の目標を別の角度から研究することができる。人々はさまざまの心の状態を持っており、さまざまの思いのレベルに住している。内なる思いは、人生の目標を定めるにあたっての指導的要素である。

 教養のない人は、感覚の楽しみを強烈に愛する。教養が高まるにつれて知的な楽しみを愛し始め、彼の感覚的楽しみは次第に減って行く。

 犬を見ていると、それは与えられた餌を非常な満足と喜びをもって食べるのに気づく。彼の全身、感覚および心の全部が、餌を食べるのに集中されているのだ。食べるときには他の一切を忘れ、食べることに最高の喜びを感じている。人間は誰ひとり、犬と同じ様な満足をもって食事を楽しむことはできない。動物たちの楽しみは、感覚の中にあるのだ。彼らの感覚器官は、人間のよりもっと強烈である。彼らの聞く力や見る力は、人間のそれより優れている。

 しかし、人は、他の形で犬より大きな喜びを得ることができる。人が知的な努力、成就、および経験から得る喜びは、感覚の楽しみよりはるかに大きい。このような知的は楽しみは動物たちの知ることのできないものである。

 人間の社会では、人がけものに近ければ近いほど、彼の感覚の楽しみは大きい。教養を得て高くなればなるほど、知的な、またその他の精妙な追求から得られる喜びが強くなる。自然の法則を観察したり、科学上の発見をしたり、芸術、哲学、文学等の研究をすることに大きな喜びを感じるのだ。このような知的楽しみは感覚の楽しみよりはるかに高いものである。

 人が知性の段階より更に高く、思考の段階より更に高くなると、霊性の段階、神的インスピレーションの段階に達する。彼は永久かつ無限の至福の状態を見いだすのだ。この至福の状態に比べたら、すべての感覚の楽しみ、または知的な楽しみさえ、無に等しいものである。この霊的自覚の状態に達することが人生の最高の目標である。

 霊的生活の中では、不幸は静かに堪え忍ばなければならないだけでなく、快活に受け入れられなければならない。それは神の摂理と見なされるべきである。多くの聖者や予言者たちにとって、大きな苦悩や不幸が悟りへの最も重要な扉となったのである。

 サンキヤ哲学の解説者、シュリ・イシュワルクリシュナは、不幸や苦痛を霊的覚醒の前提条件であると言っている。もしわれわれが常時楽しみと幸福を経験していたら、われわれの心は、永遠の平安や幸福を求める機会を持たないだろう。より高い人生の目標に向かう努力をしないだろう。

 ブッダの目に入った人生の不幸の姿が、彼の目を内に向け、彼をしてそれらを超える道を求める努力をさせる動機となった。彼が老と病と死の光景を相次いで見たとき、彼の優しいハートは打撃を受けたのである。

 イエス・キリストは、「悲しむ物は幸いである、彼らは慰められる」と言っている。ここで、慰められるというのは、神の経験を恵まれる、ということである。この経験の値は、死別、屈辱、病気などなどによる「悲しみ」であるというのだ。飢えと渇きは確かに人生の敵である。しかし、それはこの世の生活を超えた真理を追求する霊的求道者にとっては友であろう。「義に飢え渇く者は幸いである、彼らは満たされる」と、キリストは更に言った。

 普通の人間は、苦痛や不幸からは余り学ばない。苦しみにあうと嘆きうめくだけで、その時期が過ぎると何もかも忘れ、従来のやり方でまた楽しみを得ようとする。不幸の再来を防ぐためにはなに一つしようとはしない。

 霊的求道者は、彼にとっては霊的向上のドアであるところの悲しみや不幸から大きな教訓を引き出す。死別や富の喪失によって、世俗の事物のはかなさへの彼の確信は一層深まる。失敗や病気は彼に謙遜を教える。人生の危機的な難問は、彼を神への帰依に導く。

 かの高貴な女性クンティ・デヴィ(パーンダヴァスの母)は、「おお神よ、あなたを忘れぬよう、私に苦しみをお与え下さい」とシュリ・クリシュナに祈った。ミラーバイも、苦痛と困難の最中に、高い信仰ムードを経験した。聖者トゥルシダースはその詩の中で、「人々があなたを誉めたたえない所に行け。するとエゴは抑えられ、ラーマを重い続けることができるだろう」と書いた。謙遜の徳は求道者が忍耐と赦しの精神を養うのを助ける。希望の挫折は、求道者にとっては内観を実践する機会となる。

 ギーターは第十三章十九節で、自己知識のための修行の一つとして、苦しみの瞑想を命じている。求道者に、誕生、死、老い、病、および苦痛の害を深く心に思え、と教えている。このような瞑想によって、心は、人生の完全な様相を見ることを学ぶのだ。通常、われわれはさまざまの偏見や誤った仮定をもって、世間に向かっている。われわれの経験は一面的な、選ばれたものである。われわれは恐ろしい、不愉快なものを無視し、輝かしく、快いものだけを思う。

 しかし、われわれの人生は相反するものの混合である。この世界では、われわれは生の傍らに死を、健康の背後に病を、富の背後に貧乏を、名声の影に不名誉を、友情の背後に敵意を見いだす。事物のこの二元性は、存在の構造そのものの中にあるのだ。これを否定することは自己偽瞞であり、自己偽瞞は、正しい知識と心の平安の獲得を妨げる。求道者は人生の全貌をいささかの偏見も恐れもなしに見つめるべきである。すると心は平衡を得、これらの矛盾を超越したものを見ることができるのだ。

 宗教は、生活における大きな心の力、判断の能力、および静かな気質をもたらす。それは求道者にうわべを見通し、真実の、安定したものに触れる能力を与える。

 霊性の求道者は不幸や苦痛に耐える力を開発する。この力は、霊性の修行、つまり、識別、祈り、瞑想の結果としてやって来、内なる喜びと平安の経験から生まれるものである。

カルマ・ヨガ(全集第一巻二七頁)

 しばらくすると、人は彼が進みつつあるのは快楽ではなく、知識に向かってである、そして快楽を苦痛は両方とも、偉大な教師である、と知る。・・・不幸と幸福とは人格形成の上で同等の要素である。・・・世界が生んだ偉大な人格たちを研究して、私は敢えて言うが、大方の場合、彼らを教育したのは幸福よりはむしろ不幸、富よりはむしろ貧しさであったことが、内なる火を燃え立たせたのは勝利よりむしろ打撃であったことが見いだされるであろう。


| HOME | TOP |
(c) Nippon Vedanta Kyokai