イエス・キリスト生誕祝賀会の講話
一九九二年十二月二十四日
緒言
クリスマス・イヴは、人びとが集まって、イエス・キリストの生涯の物語や彼の教えを思い起こす、聖なる日であります。こうすることによって彼らは、自分の心をきよめ、神の方に向いて、ハートに霊的なよろこびを感じるのです。
イエスは、小アジアの小さな国である、ユダヤに生まれました。当時この国はローマの支配下にあり、非常に不安な状態におかれていました。人びとは、富めるも貧しきも、老いも若きも、学識ある者もない者も一様に、救世主の到来をねがい、かつ信じていました。彼がユダヤ人たちを圧制者たちの手から救い、世界に平和をもたらすであろう、と信じていたのです。しかしながら彼らは、どこから、どのようにして救世主があらわれるのかは、知りませんでした。それでも彼らは、自分たちが生きているこの苦しい時代は、イエスの到来を告げる前である、と信じていました。
このような、はりつめた期待のときに、イエスは生まれたのでした。彼は、エルサレムから約五〇マイルはなれたガリラヤにある、ナザレという町で育てられました。ここで彼は、ユダヤ教の聖なるおきてと、彼の民族の伝統とを教えられました。彼は大工の仕事をまなび、宗教教師としての特別の教育を受けたわけではありませんでした。
彼の全生涯のできごとについては、われわれは新約聖書のはじめの四福音書にでてくるもの以外、ほとんど資料を得ていません。ヨハネによる福音書は、イエスの生涯の物語というよりはむしろ、主として彼の、霊的生涯と教えについてのべています。マタイによる福音書、マルコによる福音書、およびルカによる福音書という、他の三つの福音書は、おなじ物語を提供し、しばしば重複したり、ときどきたがいにおぎない合ったりしています。それらは、共観福音書と呼ばれています。
布教
イエスは、彼の母国語のことばを知りませんでした。彼は、歩いて二、三日のところより遠くに出たことはありませんでした。三十歳のときまで、自分の国の中でもひろくは知られていませんでした。それから、同時代の多くの人びとと同じように、ヨルダン河で、洗礼のヨハネから洗礼を受けました。彼の説法がはじまったのはその後でした。
彼の布教はどれほどの年月にわたったものか、正確には知ることができません。しかし、長くみても、それは三年間でした。説法をはじめるや否や、彼は弟子たちをひきつけました。彼らとともに、田舎を歩きまわって、人びとにおしえをとき、病者をいやしました。当時この国には、大勢の巡回説教者や信仰治療者がいました。しかしイエスの教えの内容は、他のところで聞かれるものとはちがっていました。彼は、権威をもって、断固と、そしてはっきりと語るのでした。
彼はまずしい人びとと、ふみにじられた人びとの間を歩きまわって、病者をいやし、悲しむ人びとをなぐさめました。重荷を負う人びとの荷をかるくし、くいあらためる人びとのハートに希望を与えました。罪びとたちとまじわっている、と言って非難されると、彼は答えました、「健康な人びとに医者はいらないが、病める人びとには必要だ。私は正しい人びとのところではなく、くいあらためさせるために罪びとのところに行くのだ」と。
山上の垂訓
布教活動の初期、大勢の人びとがおしえを聞こうと集まったとき、彼は、彼らに向かって「山上の垂訓」という名で今日までつたえられている教えを説きました。この説法は、彼の教えの真髄をふくんでいます。以下は、この説法からの引用です−
「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の予言者たちも、おなじように迫害されたのである。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
「わたしが来たのは律法や予言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。……だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたのどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
「また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを一目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
遍歴といましめ
あるとき、イエスはパリサイ人とともに食事をなさっていました。そこにおられたとき、町の一人の女がはいってきました。彼女は、不実ななりわいをする女性たちの一人でした。彼女はパリサイ人の家にイエスがおいでになたときいてやってきたのであって、香油のつぼを一つ、たずさえていました。彼女はイエスのみ足のもとにひざまづき、そこで泣きふしました。彼女の涙が彼のみ足をぬらすと、彼女はそれを自分の髪の毛でふきました。そして、そこに、つぼの香油をそそぎました。
これを見て、パリサイ人は気をわるくし、もしイエスがほんとうに予言者であられるなら、この女性が不実な罪びとであることを知って、自分の足にふれることはゆるされないはずだ、と思いました。イエスはパリサイ人の内心の思いを知り、彼をかえりみて、「あなたに言いたいことがある」とおっしゃいました。彼がそれをおねがいすると、イエスはこうおっしゃいました、「ある金貸しから、二人の人が金をかりていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」彼は、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えました。これをきいてイエスはこの女性をさし、つぎのようないましめの言葉をのべられました−
「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されるこの少ない者は、愛することも少ない」
キリストのたとえ話
イエスはしばしば、たとえ話で人を教えられました。つぎの物語は、人生とはどういうものかを示すものです。
「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン(貨幣の単位)、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかの五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。人と一緒に喜んでくれ』 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です』 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たときに、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊になるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう』」
「人生もそのようなものである」とイエスは言いました。
金持ちの主人は、天においでになる父です。彼の僕は、人びとです。銀貨は、人に内在する霊です。この主人が自分で彼の銀貨を活用せず、僕の一人ひとりにあたえられたものではたらくよう命じたのと同じように、天においでになる私たちの父も、人びとに「彼」の霊をあたえ、各自の内部でそれを活用し、ふやすよう命じておられるのです。
賢い人びとは、父なる神の意志をおこなうために霊のいのちが自分たちに与えられている、ということを理解します。それで彼らは、自分たちの内部で霊のいのちをふやし、「父」といのちを分かちあう者となります。しかしおろかな人びとは、おろかな僕のように、肉体の生命をうしなうことをおそれて、自分の意志のみにしたがい、彼らの「父」の意志にしたがいません。そこで彼らは、真の生命をうしなうのです。
このような人びとは、もっとも貴重なもの、霊のいのちをうしないます。自分のいのちは肉体のいのちだ、霊ではない、と思うほど、有害なあやまりはありません。人は霊のいのちと一つでなければなりません。そうでない人は、逆の道をすすんでいるからです。人は、肉体の生命だけではなく、霊のいのちに仕えるべきです。